兄とフルーツパイ
サーモン粥
兄とフルーツパイ
私の兄は大雑把で適当な人だった。そのくせに、お菓子作りが趣味で、材料を測りもせずに目分量で入れてよく失敗してた。でも、そんな兄はフルーツパイだけは失敗したことがなかった。
◆◆◆
「
「ただいま、
私は中学生で兄は大学生だった。中学生の私からすると、見上げ続けると首が痛くなる程度には兄はすらりと背が高く、雪のように白くて綺麗な肌をしていた。そんな兄は大学に入ってから突如としてお菓子作りにハマりだし、週に2回はキッチンに立って何かを作るようになっていた。
「麻里、冷蔵庫に僕の作ったベリーパイがある。一緒に食べようか」
「うん」
兄が冷蔵庫からパイを取り出して、素早くナイフで切り分けていく。ここ2ヶ月で傍から見てもかなり手際が良くなったように感じられる。兄はパイを皿に乗せて、椅子に座っている私の前に置いた。渡されたフルーツパイは、ラズベリーとブラックベリーでカラフルに盛り付けられていて、ひとつひとつが宝石みたいに綺麗だった。
ざくり。
ひとくち、パイを頬張る。ベリー特有の甘味と酸味が口の中で弾けて、一気に広がったあと、何とも言えない余韻を残してスっと溶けていく。
「やっぱ、修一兄さんはパイだけはプロ並みだね」
「パイ『だけ』は余計だ⋯⋯とは言えないのがなあ」
そう言って兄は、自分の分のパイにかじりつき、目を閉じて、ゆっくりと噛み締めるように味わっていた。兄はその薄い唇を舌でなぞるように舐めて、恍惚の表情を浮かべる。何か食べた後、唇の汚れを舌で舐め取るのは兄の子供っぽい癖だった。そして、一通り味わった後に私の方を向いて兄は微笑む。
「美味しいね。パイ以外もこれくらい上手に作れればいいんだけど」
そう自嘲気味な笑みを浮かべながら、兄の瞳は幸福に満ちていた。
◆◆◆
「麻里、今日はピーチパイを焼いてみたんだ。一緒に食べよう」
「うん」
私は台の上に置かれたピーチパイを一瞥する。鮮やかに色付いた黄桃のひとつひとつが花弁のように盛り付けられており、パイの上に大輪の花を咲かせていた。兄はいつも通り、できるだけ丁寧にパイを切り分けていく。私の前に出されたパイにある綺麗な数枚の花弁が、慎ましくその存在を主張していた。
ざくり。
私はピーチパイにかじりついた。口に入れた瞬間から桃の甘味が溶けて口内全体に広がり、咀嚼する度に甘美な桃の風味が過剰なまでに伝わってきた。ダイレクトに伝わってくる甘味は決して疎ましくない後味をたっぷりと残し、私の中にかけがえのない温かさを与えてくる。
「美味しいよ、兄さん。また腕上げたんじゃない?」
「おっ、分かる?何となく自分の中でコツが掴めてきたんだよね」
兄はしばらくピーチパイを眺めていた。兄としても会心の出来だったのだろう。綺麗な泥団子を作れた幼稚園児みたいな無垢な
「うん、美味しい。良い桃が買えて良かった」
兄は食べ切った後も満ち足りた様子で、何度か頷いて朗らかに笑っていた。
◆◆◆
「麻里、ちょうど良かった。今、久しぶりにアップルパイを作ったんだ。一緒に食べよう」
「うん、ありがとう」
その日、中学校から帰るとエプロン姿の兄がパイを作り終えたタイミングだった。白くて長い手足と高い身長はファッションモデルのように美しいと感じた。私は、兄の横まで行って食器の準備を手伝いながら、ふと問いかけた。
「兄さん、たまに作ってくれるパイは私を励ますために作ってくれてるんでしょう?」
いつも余裕綽々といった感じで、呆気に取られたり驚いたりすることが滅多にない兄が分かりやすく面食らったような
「⋯⋯気づいてた?」
「うん、初めはただの偶然だと思ってたけど」
兄がフルーツパイを作るのはいつも決まって私に何か悲しい事があった日の、その次の日だった。ベリーパイは近所のおばさんが飼ってる可愛い犬が死んじゃった日の次の日に。ピーチパイは学校の先生に怒られちゃった日の次の日に。そしてアップルパイ。昨日はテストの点数が悪くてひとりで落ち込んでた。
「修一兄さんこそ、どうして私が落ち込んでるって分かるの?」
私は子供の頃、人から過剰に心配されるのが億劫で、悲しい事があって落ち込んでいても人にはそう見えないように隠す癖があった。だから、私が暗い気持ちになっていても両親や学校の友達が気づいたことは無い。それなのにどういうわけか、兄は簡単に私の本心を見破ってくる。それが、ただ純粋に疑問だった。
兄はほんの少しだけ答えに悩む素振りをした後、なんて事ないように笑って言う。
「なんとなくかな。なんとなーく、いつもの麻里と違うなって思っただけだよ」
そしてすぐに兄はいつもと変わらない動作でパイを切り分け始める。格子状に閉ざされたパイが切り開かれて、中身の林檎が輝いているのが見えた。じっくりと煮詰められた林檎は強く甘い芳香を発している。兄は慣れた手つきで切り分けたパイを皿に乗せて、いつも私が座っている席に置いた。
そして、いつもと変わらないように二人でパイを食べ始める。
ざくり。
兄の作ったアップルパイを口に運んだ。煮詰められた林檎は口に入れただけで、形が崩れていって解けてしまうくらいに甘くてやわらかかった。
私はチラリと兄の方を見る。兄は特に変わりなく、自身の作ったアップルパイを頬張っている。私が見ているのに気づくと、兄は口角を上げて優しく微笑んでくる。それを見て、胸がキュッと締まるのを感じた。
私の兄は大雑把で適当な人だった。
そのくせに、人が落ち込んでたりすることには敏感で。励ましてあげたいという一心でフルーツパイを焼いて、何があったのかなんて詮索せずに一緒にただパイを食べてくれるような人だった。
この時間が心地良い。弱いところを見せたくない私の性格を兄は熟知しているのだろう。だから、何も言わずに傍で寄り添ってくれている。兄の作るフルーツパイは、私と兄を結びつける「絆」の象徴のように感じた。
兄の顔を見ていると身体が火照り、兄の声を聞くと心が踊った。兄の優しさが、私の心の奥底を熱くしていく。そしてそれは大きな熱と渦を持ってして、私の身体全体に循環していった。私は自分の中で、今までぼんやりと感じていた兄に対する想いが、明確な感情として形になっていくのを感じた。
ーーーああ、そうか。きっと私は、兄を愛しているのだろう
私はその日、生まれて初めて「恋」という感情を知った。
◆◆◆
私が恋を知った数週間後、いつも通りに中学校から帰ってくるとリビングが騒がしかった。何事だろうとリビングへの扉を開くと、ニコニコと笑っている両親の対面に兄と知らない女性が一緒に座っているのが見える。嫌な想像をして、妙な背汗が流れるのを感じた。
私が呆然と扉の前で立ち尽くしていると、こちらに気づいた両親が手招きしてくる。私はそれを無視してこの場から逃げ出したいと思ったが、両親の手招きを見て兄と女性が私の方を向いた。その女性は、肩まで伸びた長く艶やかな黒髪と扇情的な膨らみを持つ胸を大いに揺らして深々と礼をした後に何かを喋り出す。しかし、私には何を言っているのか聞こえなかった。バクバクと心臓が脈打ち、周りの世界が白くぼやけて不明瞭になっていった。両親や女性の顔や声が、まるで霧がかかったかのように朧気になっている。それなのに、兄の姿と声だけは他の何よりも明瞭に視認することが出来た。
「いきなりだったからびっくりしたかな」
いつもは安心感をくれる兄の声音が、危険な毒として身体全体に広がっていくのを感じる。兄は今まで見た事ないくらい幸せな表情をしていた。普段は子供っぽく笑う兄の笑顔が、今日はどこか大人びて見えた。
「実はこの度⋯⋯」
兄は隣の女性のほうを一瞥して幸せそうに顔を歪ませた後、また私の方を向いて蕩けるような甘い声音で言葉を続ける。
「こちらにいる
◆◆◆
結局あの後、暫く話を聞いていたが、耐えられなくなって「具合が悪い」と伝えて自室まで逃げた。ほとんど会話の内容は覚えてないのに、兄の言葉だけははっきりと思い出すことが出来た。
ーー大学に入って直ぐに仲良くなって付き合い始めて⋯⋯
ーー結さんはお菓子作りが趣味で、一緒にやるうちに自分もお菓子を作るのが好きになって⋯⋯
ーーそうだ、フルーツパイも結さんが教えてくれたんだよ
傷ついた私を慰めて、励ましてくれた兄のフルーツパイは知らない女が教えたものだった。私が勝手に兄と私を結ぶ絆のように感じていたフルーツパイは、知らない女が教えたものだった。
私と兄の世界に
兄はきっと私を愛してくれているのだろう。しかし、それは男女のそれではなく、兄妹としてのものだ。兄の心は永遠にあの女のもので、私には手に入らない。どれだけ腕を伸ばしても、空の星に手が届くことは無い。
私はベッドの中で丸くなって、思考をめぐらせていた。私の中をあらゆる感情が渦巻いていくの感じる。
愛情、憎悪、羨望、嫉妬。
留めなく渦巻く感情が、混沌となって私の中で蠢いていた。最悪な気分だった。こんな
私の為に兄がフルーツパイを作ってくれてるなんて知らなければよかった。そうすれば、この胸にある恋心に気づくこともなかったのに。
兄の話を聞かずに直ぐに逃げ出してしまえばよかった。そうすれば、この胸にある悲しみや惨めさを感じなくて済んだのに。
兄は数日後には我が家を出て、あの女と同棲し始めると言っていた。きっと私が、兄のフルーツパイを食べることはもうないのだろう。私の席だと思っていた場所にあの女が座って、私が食べるはずだったフルーツパイを食べるのだ。
暗闇の中、私はひとり啜り泣くことしかできなかった。
兄とフルーツパイ サーモン粥 @hitodeno_gijinka
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