淡赤の石段で君と語る

はるより

本文

 人々が、日々の生活を送る中で踏みしめる土の道。

 それと荘厳でどこか浮世離れをした桜花神社をつなぐ階段は、さながら二つの世界の境目のようにも思える。

 夕陽に染まった石造りの階段をとぼとぼと降りていた少年は、ついに中程で立ち止まり……そのまま精魂尽き果てたというように蹲ってしまった。


 えんじの着物に黒袴。

 うなじでちょんと結んだ襟足が、まるで雀の尾羽のようにも見えるその少年は、名を朝夕紡あけくれ つむぐといった。


 彼は、毎日通ったこの桜花神社も、きっと来るのはこれが最後なのだろうなと心の中で呟く。

 ……神頼みなど、言わば行う人間の自己満足に過ぎない。

 神社に参拝し、その無事を祈る事。

 それが弱くて無力な自分にも出来る、戦場に向かった父への力添えだと、紡自身がそう思いたかっただけのこと。

 だから二年間待ち続けた父が、終ぞ帰らなかった事を理由に神を呪うのはお門違いというものだ。


 そのくらいは分かっている。

 分かっていても、それを仕方ないと受け入れられるほどに紡は大人ではなかった。


 紡は両腕で頭を抱え込み、着物の袖にボロボロと涙を落とす。

 声をあげて泣くなど、男のやる事ではない。

 そう思い、必死に嗚咽の声は飲み込むが……少年の震える背中の何と小さなことか。

 桜の花弁が舞い散る中に、沈みかけた太陽が彼の影を長く長く階段へ流していた。


 もう消えてしまいたい。

 消えて、父さんの元に行きたい。


 彼がそんな風に思った時……ぱたぱたと小さな足音が、聞こえてくる。

 その主は、膝に顔を埋めた紡の隣で足を止めると……衣擦れの音を立ててその場に座り込んだようだった。


 何の用だ、放っておいてくれないか。

 よっぽどそう言おうかとも思ったが、口を開くと情けない泣き声を聞かせてしまいそうで、紡は黙り込んだままでいる。

 もしかしたら、参拝に来る人の邪魔になるからそこを退けとでも言われるかとも思ったが……その人物はただ静かに隣に座ったままであった。


 やがてその人物のことが気になった紡は、少しだけ顔を浮かせて涙でぼやけた世界を見る。

 ……眼前に流れた髪の隙間から見た彼女は、まるで桜の花のような少女であった。

 時は既に、逢う魔が時。

 もしや彼女は、自分を拐かしに来た人ならざるものなのだろうか。


 そんな事がふと頭を過るが、次第に視界の焦点が合い始め……彼女が見覚えのある顔をしていることに気づく。

 紡が通い詰めた桜花神社の、巫女……なのだろうか。彼女が境内を箒で履いたり、参拝者の相手をしている姿をこの二年間で何度も見た。

 時たまに目が合うこともあったが、女性に対して苦手意識のある紡は、直ぐに顔を背けてしまったものである。

 その彼女が、なぜ自分の隣に居座るのだろうか。紡は計りかねて、その様子を窺っていた。


 少女は、もじもじと手を握ったり開いたりしながら、何かを思案しているようであった。

 それから思い立ったように背筋を伸ばすと、紡の方へと顔を向ける。


 ぱちり、と音がなるほど真っ直ぐにかち合う視線。

 少女は驚いたようで、小さく「えっ」と声をあげたが、すぐに表情を綻ばせた。


「こんにちは」


 彼女はにこりと微笑む。

 桜の花のようだと思ったのはあながち間違いではなく、長い髪に付いた桜の花弁が似合う可憐な少女であった。


 挨拶をされたのに返さないのは、武士としても人としても失礼だろう。

 そう思った紡は、気は進まなかったが……小さく「こんにちは」と呟いた。


「……初めて、あなたに挨拶ができました」


 返答を聞いた少女は、大層嬉しそうにそう言った。

 確かに、これまでもこの少女を見かけた時……紡は参拝を済ませると、そのままそそくさと神社を後にしていた。

 まさか自分に用があるものだとは思っていなかったのだが、振り返ってみれば申し訳のないことをしていたのかもしれない。


「いとは、いとです」

「……え?」


 唐突に少女がそんなことを言うものだから、紡は思わず怪訝な顔をしてしまう。

 少女はそんな彼の様子に「うーん、と」と小さく唸ってから言葉を選び直した。


「お名前です!絃といいます」


 絃と名乗った少女はその後に、あなたは?と続ける。

 紡はどこか毒気の抜かれたような気分になり、手の甲で目元を拭いながら答えた。


「あけくれ、つむ……」


 最後の最後で、残っていたらしい涙に声を詰まらせてしまう。

 ……しかし、どうせこの場限りの間柄だ。

 紡は訂正せず、そのままにしておく事にした。


「つむ?……つむ、ですね!」


 絃は噛み締めるようにして、間違ったままの紡の名前を口にした。

 それから彼女は、つむ、つむ……と何度も呟くものだから、紡は流石に改めようとも思ったが……何となく水を差すのも悪いような気がして、ただその姿を見つめていた。


 そしてそんな絃は、きらきらとした瞳で紡の目をみる。


「つむ、絃とお友達になってください!」


 そんな申出とともに。

 ……絃にとって、その言葉は一大決心のそれであった。

 ほんの幼い頃……紡がまだ父に連れられて、弾けんばかりの笑顔を浮かべて石畳を歩いていた頃から、ずっと温めていた思いだったのだ。

 彼女は、ずっと彼のことを見ていた。

 雨の日も、雪の日も、欠かさず毎日境内にやってきて、手を合わせる紡の姿を。

 ……彼の心に咲く桜の花が、日に日に萎れてゆくさまを。


「……悪いけど、もうここに来るのは今日で終わりだ」

「え……」

「だって、もう……祈る事が無くなってしまったから。」


 父さんは、死んだ。

 蚊の鳴くような紡のその声を、絃は聞き逃しはしなかった。


 紡が父に向けていた表情を思い出す。

 憧憬、尊敬、愛情……きらきらと輝く全ての感情が、そこにはあったように思えた。

 彼が父の無病息災を祈り、毎日桜花神社に足を運んでいた事も絃は知っていた。

 だからこそ……その父親を失った悲しみというのは、絃には計り知れないものだろうとも。

 ……絃には、肉親というものがなかった。

 それが手伝って、紡とその父の姿に親子の理想を見ていたのかもしれない。


「良かったら……お父さんの話、絃に聞かせてくれませんか」


 紡は、眉を顰める。

 父の死に心を痛めている人間に、喪ったその人の事を話せと言うのか、この女は。

 如何にも、そう言いたげな表情であった。


「きっと、つむのお父さんは……つむに悲しむよりも、自分との素敵な記憶を思い出して貰った方が喜ぶから」

「……どうしてそんな事がわかるんだ」

「だって……あの人の桜は、つむが笑った時が一番綺麗に咲いていたから!」


 少女は真剣な面持ちで、訴えかけるように紡にそう言った。


 ……父の桜。

 彼女が何を言っているのか、紡にはすぐに理解することはできなかった。

 しかし絃が心からそう口にしているというのは、疑いようもなかったのである。

 ……彼は、導かれるようにして言葉を紡ぎ出す。


「……父さんは、軍人だったんだ。全然刀が似合わない優しい人だったけど……誰よりも、帝都を愛している人だった」

「うん」

「俺にも、たくさんの事を教えてくれた。帝都のこと、突然現れた世界のこと、どこか遠くにある御伽の国のこと……それから、刀の振り方も」


 話し始めてから、父との記憶がまるで血潮のように紡の中を駆け巡る。


 悲しみに塗りつぶされてしまっていた、父との温かな記憶。

 ……家の縁側の陽だまりで、二人で饅頭を食べたこと。

 ……祭りの縁日で、紡が欲しがった射的の景品を何度も何度も失敗しながら取ってくれたこと。

 ……紡が、女がどうも苦手だ、と言うと困ったように「そんなところまで似なくて良い」と笑ったこと。


 なんて事のない、忘れてしまっていてもおかしくないような小さな記憶が、次々に甦ってくる。

 それを取り止めもなく、手当たり次第に紡は話した。

 話しながら、また涙が次々に溢れては頬を伝って流れ落ちた。


 きっと聞いている絃にとっては、終始支離滅裂なものであっただろう。

 それでも彼女は時折相槌を打ちながら……紡の言葉を、懸命に聞いてくれていた。

 そしてその中で、絃はとある事を心に決めていたのである。


 紡はひとしきり話し終えた後……濡れそぼった自分の袖を見て、何だかおかしいような情けないような、そんな心持ちになる。

 ただ、一人でここに座っていた時よりは随分と気が晴れたような、そんな風には思えた。


 そんな様子の彼を見て、絃は安心したように微笑んでいた。


「つむ、良いことしてあげる!」

「……良い事?」


 紡が首を傾げたとき、絃は彼の目の前で小さく掌を打ち鳴らし、「はいっ」と元気に弾んだ声をあげた。

 二人の間を、一枚の桜の花弁がひらり、と舞って石段に落ちる。


「元気の出るおまじないです!これでつむは、もう大丈夫!」


 紡は目を瞬かせて絃を見る。

 それから彼は脱力したような笑顔を見せて、「なんだそれ」と言った。

 ……それは、彼の父によく似た優しい笑顔であった。


 それから紡は、誰に言うでもなくぽつりと呟く。


「俺は……父さんのような人になりたい。その為なら、どんな努力だって惜しみはしない」


 それは独白というよりは誓いのような言葉だった。

 彼が歩き出すためには必要な誓い。

……しかしそれは、紡の道を縛る鎖にもなりかねないものなのかもしれない。


「それが、つむの願いですか?」

「願い?……そう、願い、だな」


 絃は、そんな紡の言葉に何か思うところがあるようだった。

 そんな風に尋ねられた紡は、一瞬戸惑ったが……首を縦に振る。


「なら、一緒に来てください!絃とつむがいかなきゃいけない所があるんです!」

「な……お、おい!待て!」


 絃は紡の手を取り、そのまま力一杯引いて走り出す。

 紡は、少女に手を握られているという事実にカッと顔を赤くしながら、転ばぬよう石段を駆け降りた。


 待てと言われども、絃は決して止まらない。

 もうほとんど陽の沈んでしまった桜の街を、少年と少女は走る。


 ……やがて彼らは至るだろう。

 街の片隅、日々不思議な出立ちの人間が集う場所……「カフェー・マスカレェド」へと。

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淡赤の石段で君と語る はるより @haruyori

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