03
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桐ヶ崎は二十八歳。財閥の御曹司であり実業家として名を馳せている。若くして欧州に留学しており、その経験と知識を生かして商社を作り貿易業でも富と名声を上げた。
奈津は桐ヶ崎邸を前にして開いた口が塞がらないでいた。奈津の家も旧家でそれなりに裕福な暮らしをしていたが、文明開化で西洋文化が浸透してきた今も父親は新しいものを取り入れようとはせず、西洋文化は奈津に取って憧れでしかなかった。
門をくぐれば整えられた庭が玄関まで続き、さらに大きく開かれた玄関を入ると客をもてなすためのホールがある。
「一階は客間と使用人の部屋でございます。奥様のお部屋は二階になります」
使用人に連れられて二階に上がると、大きな窓からは光りが燦々と降り注ぐ。
「こちらが主寝室になります」
案内された部屋に入ると見たこともない大きなベッドがひとつ。
「主寝室ってことは、もしかしてここに桐ヶ崎様も?」
奈津の呟きに使用人は怪訝な顔をし、慌てて奈津は口をつぐむ。
仮初めの結婚だというのは二人だけの秘密なのだ。
ーーまがりなりにも夫婦だ。自由にやってくれて構わないが、社交場ではそれなりに振る舞ってもらおう
自由に勉強をし師範学校に進学することも許可してくれたが、最後にそう付け加えられた。奈津は自由勉学を許される代わりに、表向きは夫婦を演じなくてはならないのだ。
「それからこちらは、奥様のためのお部屋でございます。自由に使ってよいと旦那様から言付かっております」
「まあ、ありがとう」
他の部屋に比べたら少し小さいその空間には、奈津にはもったいないくらいの大きさの机と椅子、そして本棚が設置されている。
「これは?」
奈津は机に置かれているペンを手に取る。
「万年筆でございます。奥様は書き物がお好きだということで、旦那様がご用意なさいました」
「そうなの」
万年筆は舶来品でとても高価なものだ。試しに筆を走らせると、とても滑らかに文字が書けた。
「いいのかしら、もらっても」
男性から贈り物をされたことのない奈津は急に心臓がドキドキと打ち始め万年筆を胸に抱えた。成臣とは仮初めの結婚だ。こうして贈り物をされることも社交場での振る舞いと同等なのだろうか。それだとしても一言お礼くらいは言いたい。
「桐ヶ崎様はいつお帰りになるのかしら?」
「今日は商談があるそうで遅くなると聞いております」
「そう」
「お寂しいですね」
奈津の返事を落ち込みと受け取った使用人は同情の相槌を打つ。周りからしたら奈津と成臣は新婚なのだ。それなのに妻を放って仕事を優先する夫に奈津がガッカリしたと思ったのだろう。
「え、ええ、そうね」
奈津は精一杯の笑顔でその場をやり過ごした。
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