失われた21分
搗鯨 或
『12月11日、土曜日になりました』
深夜零時。12月11日に日付が変わった。
バックヤードで事務作業をしていた俺はのそりと身体を動かす。今日から掲示するポスターを出すために、誰もいない虚しい店内に姿を現す。
小さな折り畳み式の踏み台を使い、「クリスマスケーキ予約受付中」と書いてある大きなポスターをショーケースの上に貼る。その際、ショーケースのガラスに、黒縁メガネで低身長、小太りで童貞のような男――俺の姿が反射したのが見えて、思わずすぐに目をそらした。
深夜零時を回った駅近くのコンビニ。フリーターの俺はここでバイトをして3年になる。
浪人も留年もせず、適当に学業をし、ほどよく文学サークルを楽しみ、一人二人ほど過去に彼女がいた平々凡々な学生時代を送り、社会人になった。「働きたくない」と心の中で悪態をつきながらにこにこと面接を受け、落ちたり通過したりして、特に入りたいわけでもなかった会社に就職した。最初1年くらいは普通に会社に行っていた。だが2年目から、
「自分がほんとにしたかったことはこれなのか」
「俺は小説を書いて暮らしたかったのではないか」
「なんで好きでもないこんな仕事を、金を稼ぐためにやっているんだ」
上司に理不尽に怒られたとき、同期の女に馬鹿にされたとき、信用していた先輩に裏切られたとき、この考えはさらに深く重くなり、社会人2年目の終わり、俺の右手には辞表が握られていた。それから俺はコンビニで働いている。
毎日なんの予定もない俺はシフトに入れる日は毎日入り、週に一日か二日ある休日は家賃4万の古くて狭い汚いアパートで、こつこつと小説を書いている。
この生活は楽しかった。
会社という面倒なコミュニティに比べ、コンビニのバイトはとても自由だった。変なルールもなく、めんどくさい飲み会などもなく、ただ業務を淡々とこなせばいい。
「夜勤帯のシフトは一人のところも多く、話相手となる人がいなくてつらい」
コンビニバイトを始める際、なんとなく調べて読んだブログにそんなことが書かれていたが、俺からしたらそっちの方が好都合だった。そのため、俺はいつも夜勤シフトだけを希望していた。
客も、こんな時間帯にくる客はみな無口なやつか不愛想なやつがほとんどで、俺も愛想のいい接客をする必要がなく、本当に楽だった。
人と関わることが少なく、自由な時間もあって、俺にとってはとてもいい労働環境だ、これは天職だ、と考えていた。
だが、いつからだろう。
少しずつ、自分の中に得体のしれないわだかまりを感じ始めていた。
今日はなんだか様子がおかしい。
11日になり始めて30分が経過したとき、ふと、そんなことを考えた。零時を過ぎてるとはいえ、この時間帯の30分間、一人の客も店内に入ってこない。それどころか、金曜日の夜という、酒場が一番賑わうであろうこの時間帯に外から全く声が聞こえない。様子を見に外に出てみたが、冷たい風がひゅぅひゅぅとなるだけで、人の気配を全く感じなかった。まるで、
俺だけがこの夜にいるみたいだ。
寒いのもあって俺はすぐに店内に戻り、消耗品の在庫確認をしようとバックルームに戻った時だった。
ガタンゴトン……ガタン、ゴトン。
電車が到着したような、そんな音が店の外から聞こえた。だが、そんなはずはない。時刻は0:34、終電の到着する時間はとっくに過ぎている。しかも、駅近とはいえ、いつもはこんな大きな音は……。思考を巡らせながら、バックルームにある、防犯カメラ映像で店前を確認しようとしたそのとき、入店を知らせる電子音が店内に響いた。
「夜分にすみません」
若い男の声。レジ前にいるその客は丁寧な口調で俺に声をかけた。この時間帯に来る客にしては丁寧で礼儀正しい客だ、と思うより先に、その客に対する不信感が俺の中で芽生え始め、思わず訝しげな眼付きで彼をじっと見つめた。だが、そんな俺の様子に全く気にかけず彼は始める。
「少しお伺いしたいことがあるのですが」
その客は、黒いズボンに黒いシャツ。それに黒く長いコート、それについたフードをかぶり、ガスマスクで顔が隠されていた。
「な、んでしょう」
ここで3年間働いてきて、このような様子の客は初めてだった。「今更ハロウィンか?」と自分を落ち着かせるために茶化してみたが、あまり効果はなく、俺は不安げにきょろきょろと視線を動かしていた。
何故ガスマスク……?
不審者、強盗、強盗対策用のブザー、緊急連絡用のブザー、警備会社への連絡。
相手は不審者である、と脳が勝手に判断を下し、脳内様々な対策法が出てくる。落ち着け、俺。ここまで人生いろいろあったが何とかなってきただろう。まずは、素数を数えて、
「あの、」
ガスマスクの男が先より少し大きく声をあげ、俺はつられるように彼を見た。彼は右手をコートのポケットにいれ、ごそごそと何かを取り出そうとしている。
「……はい、なんでしょう」
何円だ、何円この店から欲しいんだ。俺はそーっと、レジ下にあるブザーに手をかける。店内はそんなに暑くないのに背中に汗が垂れていった。
「あの、」
彼は自分のポケットをごそごそとあさっていた。大きいものを出そうとしているのか、なかなか其れは出てこない。
「……はい」
ポケットから出しづらい凶器……。包丁か? それとも銃か? のこぎりのような工具系かもしれない。とりあえず、凶器を出されたらすぐ押すぞ、と、目の前の彼とブザーに集中する。
ガサゴソ……ガサゴソ……という音が大きくなり、「あ」とやっとでたというような彼が声を上げた。よし!! ブザーを、押そ
「これを、注文したいのですが……。」
「へ?」
ガスマスクを被った彼が取り出したのは、包丁でも銃でもなく、“Christmas”と洒落た書体で書かれた薄めのカタログだった。
「クリスマスケーキを予約したいのですが」
小さく少し恥ずかしげに、ガスマスクの彼は再度言った。
「このカタログの中のケーキでしたら、どれでも予約できますので」
彼が持ってきたカタログを広げ、レジカウンターを挟んで対面する彼に一つずつ丁寧に説明をする。俺が一つ説明するたびに、ふむ、というような反応を見せた。顔が見ないため彼がどんな顔をしているのかわからないが。
「ちなみに、注文するケーキはもうお決まりですか?」
一通り説明した俺は、なんとなくそんなことを聞いてみた。いつもの俺だったら一通り説明をして、あとは放置していただろう。だが、なんとなく、本当になんとなくそんなことを聞いてみた。
「うーん……。ホールケーキって、3人でも食べられるのでしょうか」
「そうですね……。そんなに大きいサイズじゃなければ食べられると思いますよ。それか、クリスマスらしく小さめのブッシュドノエルなどもいいかもしれませんね」
そう言いながらカタログに小さく乗っているブッシュドノエルの写真を指差すと、彼は食い入るようにそれをじっと見つめた。ガスマスクを着けているから、「くいいるように」は俺の勝手な予想だが。
ブッシュドノエル。ケーキについての知識が皆無な俺もこのケーキだけは知っていた。実家でのクリスマスはいつもブッシュドノエルだった。クリスマスだけの特別なケーキ。いつも仕事で深夜遅くに帰ってくる父親も、俺の誕生日とクリスマスの日だけは必ずケーキを食べる時間までには帰っていた。母親も働いていたが、特別な日は有休を使って、贅沢な料理を作ってくれた。
そういえば、会社を辞めてから実家には全く帰っていない。それどころか、仕事を辞めてから、両親には全くと言っていいほど連絡していなかった。
その理由は自覚している。
仕事をやめたことを二人とも責めはしなかった。
だが「社会人2年目で仕事をやめてしまった」という罪悪感。
いや、当時の俺のプライドがなんとなくそれを許せなかった。
今思い返してみたらそんなくだらないこと、と思う。
二人とも、元気にしているだろうか。
「ブッシュドノエル、お願いします」
その声で、俺は思い出から戻ってきた。
「では、25日の夜にお渡しになります」
控えを渡したとき、ガスマスクの彼への恐怖心や違和感は微塵もなくなっていた。
「ありがとうございます」
それを受け取った彼の手が思ったより小さかったことに少し驚いたが、それより俺は家族のことが気になっていた。
ガタン、ゴトンとどこからともなく電車の音。
だがその店員は家族のことに気を取られ気が付かなかった。
店内にピンポーンと、電子音が響く。
「ありがとうございました……」
「……あれ」
時刻は12月11日、0:55。いつの間にか日付が変わっていた。店の外では酔っ払いが叫んでいるような声と、かすかな笑い声が聞こえる。何故だろう。いつもは煩わしく聞こえる集団の騒ぎ声が、今はそんなにうるさくなかった。
店内を掃除しにモップを片手に売り場にでると、ショーケースに大きく張られたクリスマスケーキ予約のポスターが目に入る。
久しぶりに、両親に連絡してみよう。
何故かそんなことを思った。
「おかえりなさい」
馬頭の紳士が帰宅したガスマスクの男に声をかける。
「無事買えたよ」
「そいつはよかった。今年もホールケーキかい?」
「いや、今年は店員さんのお勧めでブッシュドノエルにしてみたよ」
「ほーう? 初めて聞くケーキだな。当日が楽しみだ」
「楽しみにしていてくれ。……遅くに出て疲れたから僕はもう寝るよ」
「そうだね、そうするといいよ」
「おやすみ」
「ああ、おやすみなさい」
失われた21分 搗鯨 或 @waku_toge
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