モルペウスの夢

馬鹿猫

モルぺウスの夢

 長い、永い夢を見ている。

いつから見ていたのだろうか、私が生まれるずっと前から見ていたような気もするし、たった5秒前から見ていた気もする。

ワタシが私であるずっと前から、ワタシは夢を見ているかもしれないし、今こうしているのも、また夢を見ているということなのかもしれない。



 私はいつからか、現実と夢の境目が曖昧に思えて、どちらの世界が本当なのか、区別がつかなくなっていた。

明確に思い出せることではないが、どうにも思春期の頃からそうだったように思う。

ただ、これは妄想とか、自分の中の世界とか、そういったものと区別がつかないという意味合いではなく、寝て起きると世界が変わっているというニュアンスに近しいものだ。

ベッドに横たわり、体の力を抜くと、スッと、深い縦穴に吸い込まれていくような感覚を覚える。

そこには不思議と恐怖はなく、自分が行きたい場所へ、目指すべき理想郷へと帰っていくようで。

そして目を覚ますと、そこはもう、寝る前に居た世界ではない。


 はじめはただ夢の世界でしかなかった。

体感にして5分程度、誰もいない、何もない世界にゆっくりと降り立つ。

だけど、いつしか時間は伸び、一時間、六時間、そして二四時間。

正確に言えば、その世界での睡眠時間を除いた時間を過ごし、そして再び、夢のトンネルをくぐって戻ってくるようになっていた。


 夢を見始めたころには誰もいない、無機質だった世界は、気付けば沢山の色に、物に、人に溢れ、そこで過ごす日々はとても幸せだった。

この世界に降り立つと、空の青に映える一面の緑に、所々アクセントを加えるように咲く、青、赤、白、紫など極彩色の美しい花と少し酸っぱいようなニオイ、何処からか聞こえてくる町の喧騒に、頬をなでる涼しい風がお出迎えしてくれる。

私は、現実の嫌なことを何もかも忘れさせてくれる、すべて拭い去ってくれるように、私の心にやさしく寄り添うこの世界に、底知れぬ魅力を感じ、とても惚れ込んでいった。



 ―――私は幼いころから病弱な子供で、物心ついた時から入退院を繰り返しながら生活する子供だった。

小学校に入るころにはもう、病院に住んでいるものだと我ながら思い込むほどにお世話になっていて、小学校も半年に一度行けるかどうかだった。

けど、勉強の成績は、我ながら見事なものだと自負していた。

私は勉強、というより物事を学ぶことが好きで、母親が持ってきてくれる本や与えられた電子機器でインターネットを使い、気になることを片っ端から学んでいった。

病院で受験勉強にも取り組み、地元の公立高校に見事合格することができたのは、短い人生の中で、数少ない幸せな出来事の一つとなった。

そんな私を、母親はとても慈悲深く、心の底から愛してくれたが、父親はその限りではない、そう思っていた。


 高校の入学式、その日はすこぶる体の調子がよくて、若干の緊張を胸に久しぶりに外へ、学校へと出かけた。

高校側の配慮で、私がとても病弱であることを説明してくれて、友達といっていいのかわからないけれども、何人かと話せるようになって、私はとても嬉しかった。

でも、そんな嬉しい気持ちも、病院に帰ると瞬く間に霧散した。

―――父親が、病室を訪れていたのだ。


 部屋に入ろうとする私の耳に、母の声と、私の心を鈍器で殴りつけてくるような、低く冷たい男の声、父親の声が届き、思わず部屋に入るのを躊躇ってしまった。

しかし、私は一つ、両親が一体何を話しあっているのか、一体全体気になって仕方がなくなった。

この時の行動こそ後悔したものはないが、私は内から湧き出る好奇心を抑えきれず、聞き耳を立ててしまったのだった。



「もうあの娘に金を掛けるのは止めにしないか。お前も一度、冷静になって考えたほうが良い。たくさんの治療と薬をもってしてまで、あの娘を生かしておくのも、可哀そうだろう」



「あなたの言うことも分かるわ。…でもあの娘、今日は高校の入学式だって、張り切って学校に行ったのよ。―――あんな幸せそうな顔を見た後でも、本当に同じセリフが言えるの?」



 父親から出た冷血な、利己的な言葉に思わず乾いた溜息が漏れた。

一見私を労るかのようなその言葉の裏には、これ以上金を使いたくないという魂胆が見え透いていて、何とも浅ましい。

結局、苛立ちを隠せなくなった私は、我慢できず少し乱暴にドアを開け、「ただいま」と帰宅の挨拶をし、まるで父親が来て驚いているかのような振る舞いを、しようとした。

けど、それは叶わなかった。

―――なぜなら、私の姿を見て、父が泣き出したのだ。


 私を見て硬直していた父は、突然、目頭を押さえ、大粒の涙をこぼし始めた。

予想だにしない反応に驚いていた二人だったが、父は「ごめん」という一言を残し、病室を立ち去ったのだった。



 ―――その日以来、私は喉に魚の小骨が引っ掛かったような違和感を覚えていた。

本人にしかわからないことではあるが、もしかしたら、わざと冷徹な振る舞いを心がけていたのではないか、わざと嫌われようとしていたのではないか、私に情を抱かないようにしていたのではないか。

大事にしていたものほど、失った時の喪失感は計り知れないものになる。

考えれば考えるほど、思考の渦に呑まれていく、私の悪い癖だ。


 そしていつしか私の心情に比例するかのように、日に日に容体が悪化していくようになっていた。

段々と点滴の量も多くなり、起きていられる時間も少なくなってく。

少し仲の良くなったクラスメートがお見舞いに来てくれても、父親に事の真相を聞こうにも、起きていられる日は、もうほとんどなかった。



 そういえば、自分が何の病気なのか、知らなかったなあ。

母に聞いてもお茶を濁すように誤魔化し、うまく話を逸らされていたような気がする。



 ああ、もっとやりたいことがいっぱいあるのになあ。

このまま、現実に戻る時間が少なくなっていくのかなあ。



 ―――意識は、ゆっくりと、闇へ落ちた。






 七月七日、確証はないが、そうだと思う。

目を覚ますと、私は町の中にポツンと一人、立っていた。

不思議そうに周囲を見渡す私を見かねたのか、宿の主人といった風貌の女性が腕まくりして話しかけてくる。



「こんなに若いのに、そうなのね。あなたも大変だったでしょう。『ここ』はいいところよ、とても魅力的なの。そんな突っ立ってないで、ほら、行きましょ?」



 女性に手を引かれ、町の外へと走り出す。

不思議と風のように体が軽く、力が湧き出てくる。

気が付けば、手を引いていた女性はいなくなり、自らの足で、意思で、草原を駆け回っていることに気づく。

地面を埋め尽くすように咲いた色とりどりの花に、澄んだ空気、太陽の優しい光を浴びて乱反射する湖、それを取り囲む、雪の帽子をかぶった山々。


 ―――ああ、何を悩んでいたんだろう。

今まで自分の心に、雨雲のようにかかっていた悩みが嘘のように晴れていく。

病弱で、歩くにも不自由した体はなく、涼しい風は私の体を避けるように戦ぎ、大きく息を吸えば脳に酸素が満ちていくような、何とも言えない幸福感を感じる。



 「もう、どこが現実だってかまわない、私の世界はここだ」




 全てを捨てて軽くなった一人の少女は、再び、ケシの草原を駆け始めた。

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モルペウスの夢 馬鹿猫 @hinataBakaneko

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