薫風 荒井郁之助と
真夏の北海道がこんなに暑いだなんて、もっと早く教えて欲しかった。
「随分焼けたなあ榎本さんは」
「荒井さんこそ、一段といい腕っぷしじゃねえか」
急ごしらえの宿は代金に似合わぬ通気性の悪さで、しかし冬場には隙間風で酷い目に合う。もっとも榎本も荒井も、調査だ測量だと各地を飛び回ることが多かったから悪いところばかり目につくのかもしれない。
もしくは、まだこれだけの被害で済んでいると言うべきか。広大で猛々しいこの地はいつ人間を飲み込んでしまうか分からない。通りがかった集落の威勢のいい若者が、次訪れた時に地に足がついているのか、地の底に沈んでいるのか。そんな大地だ。
「いい時期に会えてよかった。榎本さんったら大車輪なんだから」
家は住まねば荒れるもの、しかし猛威の前には人の有無など些細で、荒井の宿も多分に漏れず軋みの賑やかな拵えになっている。そんな一室で荒井は楽しそうに猪口を傾けている。
「馬車馬の間違いだろ。まったく、根無し草でもここまでじゃねえぜ」
膝を突き合わせる榎本も、捻る声の割に呷る腕は軽やかだ。開け放した窓に蛙の声が天気雨のように燦々と降り注ぐ。暑い暑い夏の北海道は、しかし夜風は涼やかだった。
「根無し草なんかどこにも無いじゃないか。いくら毟ってものびのびしてるんだから」
「おっ荒井さんもやったかい? 地獄の草むしり」
「やったとも。あれは通過儀礼だね」
苦虫を嚙み潰したように荒井はヘの口にする。もっとも本当に虫を嚙み潰した時の苦みとえぐみを荒井は知っている。その時の顔と比べればオママゴトであった。
「成程インフラってのは急務なもんだ。これからぐんと移り住む奴を増やそうってんだからな」
榎本は窓の向こうを眺める。札幌の地を踏んだ当初はまだまだ拓きたての様相だったが、己があくせくしている間に遠くで賑やかな声が聞こえるようになった。与り知らぬところで時は過ぎ、営みは連綿と続いている。
「見えてなかったな」
一段と冷たい風が吹き込む。何が、とは荒井は聞かなかった。
「今だって何にも見えてねぇんだ。必死なばっかりで」
「見えなくなったものもある、そうだろ」
榎本は荒井の方を向かなかった。
「それでも見えるようになったものだってある。そう思いたいよ、俺は」
猪口がコトリと置かれる音はすぐそばにあって、窓の遥か向こうに星は遠い。耳を掠める風はどこから来たのだろう。こそばゆい感触のふるさとが遥か彼方であることを榎本の足の指は隈なく覚えている。
「俺は不思議なものでさ、測量で山だ川だと歩いているうち、海であんなに測りきれなかった空をまた測りたいと思ったんだ。あるんじゃないか、榎本さんにもそういうもの」
「そりゃあな」
榎本は猪口をひとなめして、やっと荒井へ向く。ついこの間まで獄中で酷くやつれていたのは本当だったのかと荒井は疑いそうになる。心地のいい疑いだった。その心地よさを歓迎して味わえるほど荒井も出来た性格ではない。けれど榎本が生きようとして生きている事に杯を掲げたいと思う。
「荒井さん。俺たちが奴らの鼻を明かして供養にしようってのは、傲慢か?」
荒井が微笑んだのを、したたかだと榎本は受け取る。技術官僚に収まらぬ懐をしていて、その上で彼は技術の道を選ぶのだろう。
「なあ、榎本さん。傲慢で一体何が悪いんだ」
「ああ、何だろうな」
猪口を手に取るのは同時だった。それが最後の献杯だ。
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