三稜鏡

ほずみ

おさかな天国 沢太郎左衛門と

 流れゆく潮風に髪が馴染んで久しい。故郷の暦で迎えた新年の祝いも落ち着いて、日ごと大洋を見下げる太陽もやわらかさを取り戻している。抜ける晴天のただなかを、船はずんずんと進んでいる。ことが、体感から推測できる。

 榎本と沢はさっきから船室で本にふけっていた。なにもこんな日ばかりではない。体を動かし議論を交わすことだってある。長い長い航海の日取りは何をして縮まるわけでもなく、若い二人は持て余しつつその日々を過ごしていた。

「オランダの酒ってのはどれもキツいもんなのかね」

 榎本が目だけ声へ向けると、丁度沢が本を閉じたところだった。沢がその本を持っているのを見るのは実に五回目にのぼる。

「俺たちの目には火薬や砲弾ばかり映る訳じゃねえ。絵画も音楽もあるだろうが、しかし一番は食うモン飲むモンだろ」

 すっかり頬杖をついて沢は昨日酒を僅かばかりこぼしたあたりを眺める。貴重な酒を、と互いに酷く落ち込んだものだ。榎本の方もウウンと伸びをする。背骨からバキボキと音がして、長時間同じ体勢であったことを知る。

「オランダの飯か。それらしいものは長崎でいくらか食ったが、生活するとなるとどうだろうな」

 榎本はどっかりと座り直す。この船室の船長だと言わんばかりだ。若い船長は調子よく顎を撫でる。

「飯といやあ今日は水夫たちが釣りをしてるらしいぜ」

 言い終わるか終わらないかで沢は勢いよく立ち上がる。沢が口を開いたのが丁度榎本が口を閉じた時だった。

「よし、冷やかしてこようか」

 長い船旅は食料の用意も大きな苦労。度々こうした現地調達が行われる。水夫たちも慣れたもので、気持ちのいい晴れの日を選んではきっかり人数分揃えてくれるのだった。

 甲板にヒョイと肩から上がってみれば、丁度さっき何か釣り上げたらしく水夫たちが賑わいを築いている。水夫は和蘭入り混じっていて、しかも多く方言が入り組んでいる。言語も声色もそれぞれにばらばらと会話がガチャガチャ積み重なって巨大な城のようだ。もっとも彼らの城はいまこの船なのだろうけれど。

「何が釣れたんだ?」

 榎本が片足を突っ込んで城を覗き込む。すると城主たちは気前よく留学生と肩を組んで城の中へ引きいれる。沢はその一連をぼんやり見ていたが、気前のいい城主たちは気も回る。沢に気付いて、ばっと両手を広げてみせた。

「来いよ旦那! 立派なのが釣れたんだぜ」

 その腕の逞しく焼けているさまに沢は目を細める。勿論沢の目指すものは一介の水夫ではない。惚れ惚れしたのはその毛の一本にまで海を重ねてきたことへの溢れる自負だ。沢は短く返事して飛び込むように城へ潜った。

 本丸にはなるほどよく身の締まった魚たちが血抜きされているところだった。水夫たちが盛り上がっているのはどうやって食うか、それからどう話が飛んだのか互いの嫁の悪口とか酒の趣味とか、そんな詮無いことだ。

「いや、小麦に余裕があったら、ドルフィンはムニエルが最高なんだがなあ」

 オランダ人水夫の一人が腕を組んで魚たちを見下ろす。

「ムニエル?」

 食いついているのは榎本だ。さっきから水夫間の通訳に勤しんでいたらしい。

「こいつはムニエルが美味いのかい?」

「おい旦那、ムニエルってなんだい」

 日本人水夫たちも急に出てきた「むにえる」という聞き慣れない言葉に顔を上げる。なんせ聞き慣れないそれは食い物らしいときたもんだから、興味津々が段々伝播していく。ことば通じずとも、その波及はオランダ人水夫にも分かったらしい。

「いいかお前ら、ムニエルってのは美味いぜ。まず魚を切り身にするだろう」

 そこからムニエル講座が始まった。榎本は忙しく顔を右往左往させて翻訳に駆けずる。段々と日本人水夫たちの口にツバが溜まっていく。そのオランダ人の語り口調は言葉の壁を飛び越えて腹の虫を起こしにかかるくらい美味そうだった。

「食ってみてえなあ、むにえる」

 誰かがぽつりと溢す。するとさっきまで饒舌だったオランダ人がぴたりと口を閉ざす。なんだ、と注目は国を越えて集まる。オランダ人はそっと口を開いて息を吸った。

「俺はお前らの言うテリヤキの方が、よっぽど食ってみてえよ」

 掘りの深い顔から飛び出した「テリヤキ」に皆が、オランダ人と日本人の区別なく顔を見合わせる。そうして起こるクツクツという笑い声。

「美味えぞぉシイラの照り焼きは」

「テリヤキ!」

「こうたっぷりと醤油を塗ってだなァ」

 またガチャガチャと城は築かれる。沢はそこで初めて俯瞰に戻ってきた。太陽は未だ南に高い。この魚を食べることができるのはもう少し先だが、どんな調理方法でも美味いのだろうと思った。

 船室に戻って沢は天井を見つめた。一緒に戻ってきた榎本も同じように何か物思いに耽っている。舟の上で迎えた正月の祝いを自分たちはシャンパンで祝った。酷く楽しかったし、列強文化に立ち並ぶことができたような気がして、これからの留学に託す期待と希望も膨らんだ。

「オランダでも日本の飯は食えるんだよな」

 零したのは榎本だった。

「そんで日本でもっとオランダの飯が食えるようになるかもしれねえ」

「それなら、」

 沢も続く。きっと言わんとする事は二人とも同じだ。

「オランダの味だと証明するために、俺たちが食い尽くさなきゃいけねえな」

「ああ、違げえねぇ」

沈めた背に遠く響く波の音はいつまでも彼らを揺らしている。

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