第188話 つれない彼女 ②
ところで、先日双葉荘の寮にある長瀬ゆかりの部屋で鍋パーティーを催したアノ日のどさくさに紛れるようにして、大学の冬休み期間中という限定ながら、あの旅館の仲居のバイトをすることとなった辻倉あや。
その日、初出勤のため、昼過ぎごろに双葉荘に出向いた。
この旅館では仲居のお仕事のユニフォームは着物である。「あやちゃんにはちゃんと着付けから教えてあげるから安心しなさい」なんて若女将の芳江が調子よく言うものだから、少し期待して初仕事に向かった。
着付けを教えてもらって、お給料もいただけるなら、一石二鳥じゃないか?
そうして初出勤してみると、ついていらっしゃいと若女将に導かれるままに大きな姿見のある畳部屋に通された。
で、そこで、着付けを教わった。
教わった、のはいいのだが、それは期待とはずいぶんと違う拍子抜けのするような「着付け」だった。
まず、肌襦袢の上に浅葱色した和服を羽織り、襦袢と着物の位置がずれないように、気を使いながら下前と上前の位置もきちんと調整して、衿を合わせる――。
もちろんこれだけでも、慣れないとちょっとした手間だし、最初はそこまで20分もかかっていた。
その形が崩れないように仮止めとして、胸紐を締めると、いよいよ帯締めとなるわけだが……。
が、である。
着物の着付けでもっとも難しいのはそこから先の、なんと言っても「帯」。
これを一人できちんと締められるかどうかで、着付けができるできないが分かれるはず。
綺麗なお太鼓結びのひとつでもマスターできたら、きっと素敵。
なんて思っていた。
しかし、そこまでやってあやに手渡されたのは、マジックテープで留めるタイプの伊達締め。そのあと帯の登場となるのだがそれだって、帯の端に出来合いのお太鼓結びがもうすでに出来上がっていて、反対側の帯の端がやっぱりマジックテープになっているものだった。最後はそれをおなかに巻いて、お太鼓結びの輪っかの中に、マジックテープのついてあるほうをきゅっと押し込んでしまえばおしまい。
これを「着付け」といっていいのなら、たぶん、仕事終わりとなる冬休みの終わるころには、10分もあれば一人で「着付け」は余裕でこなせるはず。
「あ!あやちゃん、物覚えがいいわ!もう一人で着付けできるんじゃないの?」
あやの手つきを見ながら、若女将がのんきなことを言うが、これ覚えるのにそんな手間はいらない、とあやは思った。
が、それは舞台裏を知ってしまうとそうなのだが、知らない人が見たらマジックテープとは気がつくまい。
鏡を見ると、少し色味の薄い浅葱色はマリンブルーのようなちょっと軽い色合い。そこに色づいたイチョウの葉みたいな色をした帯を締めると、仲居さんとは言っても、ちょっと華やいで見えた。
旅館それぞれだろうが、ここでは仲居さんは基本的に前垂れや襷をかけたりするようなことはない。
だからこのままの格好で外を歩いていたら、普通に着物の人が外出していると思われるような雰囲気だ。
それから、仕事の指導を仰ぐことになる先輩仲居さんの元へ、若女将につれられて旅館の廊下をあやが歩いているときだった。
「まあ、冬休みの間のバイトだから、基本的にはお料理を部屋に運んだり客室のセッティングなんかがメインの仕事になると思うわ。たぶん、一人前に客室サービス全般を一人でこなす前に冬休み終わっちゃうかもしれないけど、まあ人手の足りないときのヘルプ程度だと思ってるから、気楽にやってちょうだい」
なんてやけに暢気なことを言う若女将の後をついて歩いていると、廊下の真ん中に立てた脚立の上にで、渋い表情で顔をしかめたゆかりが、蛍光灯を持ってゲホゲホと咳き込んでいた。
「ゆかりさん、どうしたんですか?」
「こ、ここの電球が切れたか……ら、変えてって……い、言われて古いのを……外したら、たまってた……ほ、ホコリがいっぱい、落ちて……き、た!」
脚立の上で咳き込んでいるから、落ちちゃうんじゃないかと見ているほうが心配してしまう。
「そういえば、あやちゃん今日から仲居さんのバイトだったんだっけ?」
まだちょっと涙目で咳き込んでいるゆかりが、脚立の上からあやを見下ろして聞いた。
「はい、ちょっと緊張します」
「大丈夫よ、あやちゃんだったら、すぐなれちゃうわよ」
そんな会話を交わしたあと、着物姿のあやが立ち去ってゆく様子を、脚立の上から見送った作業用のツナギ姿のゆかり。
(いいなあ、あやちゃんはあんなの着せてもらって。……あっ、急いで、電球替えないと、次のトイレ掃除が遅れちゃう!)
さて、そんな相変わらず掃除掃除の毎日のゆかりだったが、こちらもこちらで密かに何かを期待していたりしていた。
草壁からの「お返し」である。
が、もらえるかどうかは不明。
なにしろ、自分がうっかり彼のマフラーを飛ばしちゃったあと、代わりに手渡したマフラーは前のものより安物なわけで、申し訳ない、という気持ちが……ちょっとだけあった。
しかし口ではなんと言ってみても期待しないなんてウソ。
何かくれるんじゃないだろうか?と密かに期待はしていた。
そんなある日のことである。
普段は双葉荘周辺を生活圏にしているここのところのゆかりだが、休日やピアノ教室のたびにひまわりが丘に戻っている。
実は、あれやこれやで2,3日に一度は愛車である青のラパンに乗ってひまわりが丘に行っているのだった。
その日もクルマに乗って、ひまわりが丘近くを走っていた途中のこと。
信号待ちで停車中にふと、横手に見える洋菓子店を覗き込んだところ、その店の中から綺麗にラッピングをほどこした包みを抱えた草壁が出てくるのを偶然目撃した。
彼、お酒飲むわりには意外と甘いものもいけることは知っていたが、自分で食べるもののために金色のリボンのボンボリをつけてもらうわけはないだろう。
ちょうどいつぞやのクリスマスケーキほどの大きさの箱である。
ここのところ、バイトでそこそこ稼いでいるらしいが、あんな小洒落たお店のホールケーキを一人で食べるような贅沢をするとも思えない。
どうみても、あれは誰かへの贈り物。
「やっぱり、あのマフラーのお礼かな?」
こちらが見ていることを悟られたらまずい。と思ったゆかりはさっと脇の路地に入ってしまうと、しばらく適当なところにクルマをとめて、草壁がどこかに行ってしまうまでやりすごすことにした。
エンジンを止めた車内で、一人あれこれと想像してしまう。
「マフラーはむしろ私が悪いぐらいだから、あんまり気を使われると困るなあ」
(彼、何買ったんだろう?ショートケーキ?ロールケーキ?プリン?たまにはそんなのをいっしょに食べながらお茶でも飲んであげてもいいか?最近ゆっくり話していないし……)
そんなことを考えながら、ちょっとにやけていたりするゆかりだった。
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