第105話 兗州・恐怖の芽生え
今まで相殺されていた矢が全弾、直撃する。
最前線の空が蓋でもされるように暗くなると、次には落下を始めた。
破壊の轟音で耳は麻痺し、地面は揺れて、土煙と血煙が惨状を覆い隠すように湧き上がった。
濃霧のごとき土煙が沈むと、突き刺さった矢で針山になった盾を持つ兵士たちや、死体の下で辛うじて難を逃れた者、負傷してうめく者、そして、かつては兵士たちだった者たちの姿が見えてくる。
少女は心底深いため息を吐いてから、空を仰ぐようにわずかに身を引いた。
「次はどうするのだ?」
袁紹はとくに思う所はないらしく、尋ねてくる。
「次は何を壊滅させるのだ?騎馬隊か?それとも、青州兵かね?」
「相手が何もしないなら、こちらも何もしませんよ」
気だるく答える。
……そう、この応酬だって、こちらが撃ったから、相手も撃ち返しただけなのだ。
「おい、まだ奇妙な事を続けるのか。戦いの火ぶたは切られているのだぞ。
何より、お前たちの矢が尽きたのは、相手にバレたのだ。
今にガンガンと追い打ちされるだろうよ。やられる前にやらねば、死ぬんだぞ」
そして他人事らしく期待に満ちた目で、陶謙軍を見つめた。
だがいくら待っても、次の一手は打たれない。
停止した景色の中で、両軍の死者や負傷者が引きずられる姿だけが動いている。
袁紹は思わず喚いた。
「お前たちは、異常だ!なぜ戦わないのだ?!
これではまるで、示し合わせたようではないかっ」
そして少女の袖なし外套を鷲掴みにすると、自分に引き寄せて凄んだ。
「まさかお前、敵の
物凄い剣幕、いや、動揺しているのだ。……その反応は、わかる。
もしも私が陶謙と通じているならば、それは袁紹を裏切り、
万が一そうなると、彼の味方は、遠く離れた
この乱世では、離れた者と協力しあうのは難しい。
なぜならその間に、必ず敵地が挟まるからだ。
兵士、物資を送るにせよ、そのたびに敵地に侵入し、戦い続けて進むのである。
無事に通過できる兵士と物資は、一体、何割だろうか?いや、残るのだろうか?
……つまり私が袁紹を裏切れば、彼は孤立無援になるも同じ。
そうなると、彼は四方から食われるように攻め込まれ、最期は弟によって屈辱的に処刑されるか、自害するか、未来はその二択となるだろう。
そりゃあ、恐怖で激怒するのも仕方がない。
「安心してください。私は陶謙と通じていませんよ」
少女は落馬しないように、手綱を頼りに姿勢を上手く調整しながら答える。
「時に、相手の態度や雰囲気で、多少の意思は読み取れる事があるでしょう?
陶謙は初めから、戦いたくないと無言の伝達しているように、私は思いました。
まあ、直接は聞けないので、あくまで私の推察ですけどね。
たとえば、彼はこの
この時点で、長居するつもりはない、という意思だと思いました。
そして今、戦いの最中であっても、その意思が出ているのです。
この奇妙な、何もしない
陶謙は今、困っていると思いますよ。
戦いが始まってしまったが、軍を退きたい気持ちは変わらない。
だが始まった以上、こんな半端で退けば、公孫瓚や袁術にどんな仕打ちをされるかわからない。
とはいえ、流れで戦って、兵士や武器を消耗するのも馬鹿馬鹿しい。
ならば、兵糧を燃やされたとか、皆が納得できる撤退理由を待ってみよう。
……そんな所でしょうか。
たしかにこれは、異常で奇妙な状況ですよ。なぜ、戦わないのか?
この戦いはそもそも、あなたと
いや、公孫瓚の後ろにいる、あなたの弟、
私と陶謙は、あなたたちの兄弟喧嘩に巻き込まれているだけ、だからですよ」
「うぐう……」
袁紹はひどい渋面で唸ると、少女を離した。
あなたって
……この短所がいつかこいつ自身を弱らせる埋伏の毒になるかもしれないからな。
ふと、小柄な兵士が一人、気配なく少女に近づくと何かを囁き、立ち去った。
一瞬の出来事で、皆がまだハッとしているうちに、少女は呟いた。
「我らの勝ちですよ。陶謙はすぐに軍を退きます。
……本来、こんな異常な短時間で兵糧を潰すなんて、できないものです。
陶謙は気を利かせて、わかり易い場所に設営してくれたのかもしれませんね」
「……えっ?」
唐突な展開が飲み込めない袁紹に、彼の兵士が近づいた。
そして耳打ちされると驚きで思わずのけ反り、背筋が伸びた。
静寂の戦場に、蹄の音が響く。
騎馬隊が戻ってきたのである。
皆が血塗れの彼らを振り向いた時、一つ、首級がぽんと陶謙軍に投げ込まれた。
大きなざわめきの中、首は将軍旗の下へと送られていった。
やがて、ドン、と撤退の太鼓が静かな戦場を揺らした。
将軍旗は大きく反転すると、他の兵士たちも追随する。
見る間に侵攻軍は退き、風のように去っていく。
「まさか、本当にやったというのか。この短時間で兵糧と、守護する将軍を……」
「ええ。二軍と間者たちが無理をして、見事な仕事をしてくれたのです」
かすかに笑んではいるが、どちらかというと悲しみの表情で続ける。
「弓隊には酷い事をしました。彼らと……その家族にも、多く恩賞を渡さねば。
彼らの功績はとても大きい。
もしも弓隊以外を動かしていたら、今頃、戦闘真っ只中で、こんな迅速で、静かな撤退はできなかったはずです」
……まさか、こんな結末になるとは。
袁紹は、屋台のあやしい奇術でも見たような、騙された気分に陥っていた。
……いや、奇術じゃない。
こいつは凡てを見せていたし、私は兵糧を攻める事を、見抜いていたのだから。
なのに、自分の予想外となった。
……相変わらず、油断のならんヤツだ。
何度目かの同じ印象、それと共に浮かんだ、初めての重苦しい違和感。
これが恐怖の芽生えだと、ここで敏感に気づいていれば、それぞれの運命は変わっていたかもしれない。
だが彼は、その気になればいつでも殺せる相手に対して、自分が畏怖の気持ちを抱くことなどあり得ないと、この本能が発した警告を無視した。
そして近づく馬蹄音に振り向いた時には、すでにその不気味な予感など忘れた。
血塗れの騎兵二隊がこちらへ向かって寄ってくる。
「おお!君たちのおかげで、助かったよっ」
少女は下馬して、
青年たちは疲れもみせず、あわてて下馬すると、礼儀正しく拱手し一礼した。
つづく
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