第27話 言葉が通じようとも化け物なのだ②


 晴れ渡った空に煌めく海がよく映えていた。入道雲が空を彩り、ぎらぎらと輝く太陽を反射させてそれがまた綺麗だ。夏を思わせるその景色に桂華は暫く目が釘付けになってしまっていた。


 海の見えるレストランはその人気ぶりからか人が多かった。それでも席につけて新鮮な魚介を使った料理を堪能できている。どれも美味しいのでこれは人気にもなるなと納得した。


 最高だなと桂華が海を眺めながら料理に舌鼓を打っていると千歌に「最近どうです?」と聞かれる。「何が」と問えば、「彼氏さんですよー」と言われた。



「どうなんです?」

「どうって……」



 最近も何も相変わらず堕落させられかけている。家事はしてくれるし、料理は美味しいし、甲斐甲斐しく世話をしてくれる。本当にダメ人間を製造しにかかっている。


 それに相変わらず桂華が恐怖し、堕落していく様を眺めては楽しんでいた。どんな反応でもそれを面白がっているのだ、あの化け物は。


 とは言えないので何も変わっていないことを伝えることにする。すると、どうやったらそんなに仲良くなれるのかと問われた。「仲が良い?」と桂華は思わず口にしていた。


 ニャルラトホテプと仲良さげに見えるのかと。確かに家事全般してくれて、料理も美味しい、甲斐甲斐しく世話をしてくれる、喧嘩らしい喧嘩をしないと聞くと仲良く聞こえるかもしれないなと桂華は思った。



「しかしさー、桂華ちゃんはほんと良い男捕まえたよねぇ」

「いや、捕まえたというか、捕まったというか……」

「どうやって気に入られたんですかー」



 幸運と強さと無知さなんだよなとは言えない。あの男と出会ったあの瞬間にそれらを気に入られて、恐怖を、困惑を、狂気を眺めたいと思わせたなどとは。だから、「それは聞いてないから分からないな」と誤魔化しておいた。


          ***


 駅で二人と別れて桂華はぼんやりと時刻表を眺めていた。桂華の自宅最寄り駅へと行く電車は今からだと三十分ほど待つことになる。二人は同じ方向でもうすぐ来るということだったので改札の前で別れた。


 三十分も駅で待つのはなぁとふらふらと駅構内を歩く。駅は海の側にあって少し行けば遊歩道に出れるようになっていた。夕方の海を眺めるのも良いかもしれないと桂華はそう思って遊歩道の方へと歩いた。


 夕日が沈む海というのは仄暗く幻想的だった。夜を告げるように月が昇っていく。綺麗だなとぼんやり眺めているとぷかりと海に浮かぶものが見えた。あれはなんだろうか。目を凝らすも見えず、桂華はうーんと首を捻る。



「何、あれ」



 海に何か浮かんでいる。桂華は何故だかそれが気になって海の方へ近寄った。その浮かんでいた何かが視認できる位置まで歩いて足を止める。


 それは魚のような顔をしていた。灰色がかった緑色をした頭部が魚で目が飛び出している。ぎょろぎょろと周囲を見渡すその生き物はこの世のものではないとすぐに脳が理解した。


 あっと、桂華が思ったと同時に瞬きをしない目と目が合う。暫くの間、その化け物と桂華は見つめ合っていた。



「魚人?」



 桂華はまたしても精神値の賽投げに勝利していた。化け物である認識は変わらないけれど、その見た目から少しだけ怖さを感じる。


 その化け物は桂華を観察しているが決して近寄ってはこなかった。それが不思議だった。こういう時は決まって襲われていたからだ。



「襲ってこない?」

「お前、平気そうダナ」



 魚の化け物が喋ったことに桂華は驚いた、化け物って喋れるのかと。ニャルラトホテプは邪神と聞いていたので、人にもなれるのだから喋れるのは普通かと受け入れていたが、この化け物はそんなふうには見えないので驚いた。


 魚の化け物は「馴れているナ」と言った。桂華の反応にそう感じたようで、じっと警戒しているようにぎょろぎょろした瞳を向けている。



「あー、まぁ、その、これが初めてってわけじゃないから……」

「そうだろうナ。お前から、なんか感じル」



 魚の化け物は「怖い、怖いヤツだ」と言った。どうやらこの化け物もニャルラトホテプの気配を感じているようだった。桂華の様子にその正体を知っているのだと察したらしく、「何故、逃げナイ?」と聞いてきた。


 そんなことを言われても、逃げられないのだからどうしようもないとしか答えられない。


 桂華が「邪神から逃げられるもんなの?」と問えば、魚の化け物は黙って首を左右に振った。



「無理ダ。逃げらレルとしても、他のカミに頼るしかナイ」

「やっぱり化け物には化け物ぶつけるしかないのかー」



 そういうものだよねと桂華は思った。そもそも他の神にも会いたくないし、関わりたくはない。余計なことに首は突っ込みたくはないのだ。


 バーストにならばまた会ってみたいとは思うけれど、それ以外とは申し訳ないがお断りしたい。



「なら、仕方ないじゃない」

「ソレでイイのか?」

「別にもう諦めてるし」



 もう諦めている、どうせ逃げられないのだからと。もがくだけもがいても、相手を楽しませるだけなのだ。もしまたあの化け物の姿になったのなら、今度は狂ってしまうかもしれないけれど、ニャルラトホテプはそれをしない。


 じわりじわりと自身に堕落していく様を眺めたいのだから。そう言えば、魚の化け物は可哀想なものを見るような瞳を向けてきた。



「クトゥルフ様、信仰スル?」

「いや、他の化け物はちょっと……」



 これ以上は余計な存在に会いたくはないと桂華はきっぱりと断った。魚の化け物は残念そうにしていたけれど、そんな顔をされても困るのだ。



「てか、よく喋ってくれるね。襲われるかと思った」

「そんなコトしたら、オレが殺さレル」



 魚の化け物は「気配で分かル、あれはダメだ」と震えた。何者なのかは把握できてはいないけれど、その気配だけで自身には敵わない存在だと分かるらしい。そういえば、貰ったネックレスをつけていたなと思い出す。


 アーティファクトと言ってたし、これから強い気配を感じているのかもしれないと桂華は思った。



「面倒なのに好かれたなぁ」

「やっぱり、クトゥルフ様、信仰スル?」

「いや、しないって……」

「深きものよ、余計なことはするな」



 低い声にびくりと桂華は肩を跳ね上げる。慌てて振り返れば、冷めた青い瞳を向けるニャルラトホテプが立っていた。こいつ、いつの間にと桂華が驚いていると魚の化け物は怯えたように震え出した。



「何モ、してナイ」

「余計な勧誘はよくないとボクは思うよ」



 口角を上げるニャルラトホテプの冷めた眼差しに魚の化け物はますます怯える。


 流石に可哀想になって桂華は「私が話しかけて」とフォローを入れる。それに彼は眉を寄せていた。



「キミね、少しは危機感を持ちなよ」



 ニャルラトホテプに「襲われないとも限らないのだからね」と叱られて、桂華は「はい」と頷くしかない。全くもってその通りだ。


 この魚の化け物が不意に襲ってくる可能性は無くはないのだ。今回出会った個体がニャルラトホテプの気配を感じて警戒してくれたらからよかっただけなのだ。危機感が無かったなと桂華は反省する。



「まぁ、いいけれど。気をつけるように」

「はい」



 ニャルラトホテプは小さく息をついて魚の化け物を見た。彼は怯えながらこちらの様子を窺っている。



「キミもこんな近くまで出てきたら人間に見つかるだろう」



 ニャルラトホテプに「さっさと海に戻りないさい」と言われて、魚の化け物は頷くと海へと潜っていった。逃げ足は早いなとかそんなことを思っていると彼に手を握られる。



「帰るよ」

「え? うん」


 そう言われながら手を引かれて桂華はその場を離れた。


 

          ***


 

 自宅に帰るとニャルラトホテプは夕飯を出してくれた。今日はオムライスとサラダにミネストローネだ。デミグラスソースのかかった半熟卵がとろとろで美味しい。


 そうやってもぐもぐと食べていると、ニャルラトホテプに見つめられていることに気づいた。なんだろうかと見遣ると冷めた青い瞳と目が合う。



「どうしたの?」

「キミはボクから逃げたいのかい?」



 ニャルラトホテプにそう問われて桂華は眉を下げる。なんだ、その寂しげな表情は。眉を下げて青い瞳を揺らしている様子は子犬かと桂華は突っ込みそうになった。


 あぁ、普通の女性ならば顔の良い男がそんなことをすれば落ちるのだろうな。残念ながら桂華はこの男の正体を知っている。



「もう諦めた」



 逃げたいと思っていたけれど、それができないと理解した。それならばもう潔く諦めたほうが楽だ。桂華は「だから、ニャルが手放したくないというのならそうすればいい」と言ってオムライスを頬張った。



「逃す気ないんでしょ?」

「ないな」

「なら、逃げないよ」



 桂華は「そんな面倒なことしない」と言う。それがニャルラトホテプには意外だったようで少し驚いた様子を見せた。何を驚くことがあるのだろうか、逃げられないというのにと桂華は不思議だった。



「人間というのは逃げ出したくなるものだと思っていたが」


「逃げたいし、あんたと縁も切りたいけど? ただ、逃げ切れる自信がないから諦めただけなんだよなぁ」


「まぁ、逃さないけども。にしても、だいぶ堕落させることができたかな」

「その自覚はあるから嫌なんだよなぁ」



 桂華はぐでっと項垂れた。諦めもあるけれど、ニャルラトホテプに堕落させらつつある自覚はあった。もうだいぶ身体が受け入れ始めているのだ。


 嫌だなと思う半分、もういいかなと思う自身がいる。けれど、堕落したくはない。だから、自分でやれることは自分でやろうと決めるのだが、殆どのことをニャルラトホテプがやるので困る。



「いいじゃないか、ちゃんと面倒見てあげるよ」

「よくないと思う」



 堕落して、恐怖し、発狂する様を眺めていたいだけの奴に面倒見てもらうというのは如何なものか。逃げられないのだからそうする他ないのだけれど、それでもやはり抵抗はある。


 どうして気に入られたかな、あの時に発狂していればよかったのかもしれない。はぁと桂華は溜息をついた。



「あの魚の化け物って何?」

「深きものだ」



 深きものは水陸両性の種族で主にクトゥルフという神格に仕えている。そのほかにもダゴンとハイドラにも従っている生き物だ。


 人間と交雑することもできるため、そのハーフが人間社会に紛れていることもある。殺されない限りは不死なので長く生きるのだという。



「殺されれば死ぬんだ」

「死ぬ」

「うん? ちょっと、待って。あの化け物って人間との間に子供作れるの!」

「作れるね」



 桂華はそこに驚いた。化け物と人間の間に子供ができるとは思わなかったのだ。生まれた子供の殆どは最後は深きものになる定めらしいのだが、それでもできることに変わりはない。


 そう考えると見た目が人間でも安心は出来なのだなと思った。それはニャルラトホテプで実証済みなのだが、それはそれとしてだ。



「神様との間にもできるもんなの?」

「何だい、試してみるかい?」



 ちょっとした疑問だったのだが、ニャルラトホテプは爽やかに笑みながら乗り気で返してきた。なんでそんなに楽しそうなんだよと桂華は眉を寄せる。



「お断りします」



 そんなものを自身の身体で体感したくはない、できたらできたで怖い。精神がすり減るってものじゃないぐらいにはショックが大きい気がした。



「残念」

「やめろ、怖い」

「怖がっている姿もいいじゃないか」



 このやろう、楽しんでやがると桂華はますます渋い表情に変わった。それがまたニャルラトホテプを喜ばせたのか、彼はますます笑みを浮かべた。


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