第25話 誕生日だけど期待はしていなかった②
改札を通って駅を出る、今日は蒸し暑い夜で桂華はげんなりとしていた。このまま歩いて駅に帰るのがしんどいぐらいには暑いのだ。
それでも歩くしかないので、桂華は溜息を零しながらゆっくりと歩き出す。汗がベタついて帰ったら先にお風呂だと、考えながらぼんやりと慣れた道を進んでいた。
ジジジジジーー。
虫のさざめきがする。きょろきょろと見渡すも虫らしきものはいない、気がした。気のせいだろうかと思ってふと、ニャルラトホテプの言葉を思い出す。
『虫のさざめきを聴いたらその場からすぐに離れなさい』
もしかして、このことだろうか。桂華がそう思った瞬間、ひやりと背筋が凍る。また近くでジジジジジーーっと鳴ったので桂華は駆け出した。
流れる汗など気にしていられない、とにかく急いで逃げなければならない。また近くで虫のさざめきがして、確実に近づいてきているのを感じる。追いつかれたらどうなるのだろうか、考えるだけで恐怖が襲う。
もう少しでマンションというところで耳元で鳴っていた。追いつかれた、瞬間だ。ぶちゅっという握りつぶされるような音がして、ぴたりと桂華は足を止める。
何故ならニャルラトホテプが立っていたからだ。彼は眉を寄せて地面を見つめていた。何だろうか、ゆっくりと下を向いて桂華は固まった。
鳥ほどの大きさをした虫のようなものが潰れていた。十本の足に巻き髭のようなものがついたそれは確かに虫に見えなくもない。うぇっと桂華は口元を押さえた。
その虫から離れるようにニャルラトホテプの側まで歩く。彼はその虫の死骸を何度も踏み潰した。
原型を無くすほどにまでぐちゃくちゃになったそれに何か呟く。すると跡形もなく消えてしまった。ニャルラトホテプは何事もなかったように桂華の元までやってきて「大丈夫か」と問うた。
大丈夫ではあるので頷くと彼は「帰ろう」と手を引いた。握られて手に少し驚いたけれど桂華は大人しく着いていく。
*
帰宅してお風呂に入った桂華はご飯を食べながら「あれ、何だったの?」とニャルラトホテプに問う。彼は「シャン」と答えた。
シャッガイからの昆虫とも呼ばれるその虫は寄生体であり、人体組織を通り抜けて脳へと入り込む。脳内を這い回り、記憶を読み取ることも、考えに影響を及ぼすこともできる。
日中は大人しくしているけれど、夜になると活発になり寄生している人間を操るために記憶を弄るのだという。
「取り憑かれると外すのに少々手間がかかる。だから虫のさざめきが聞こえたら逃げろと言った。まぁ、足が速いから逃げるのは難しいのだが」
「それ、無理じゃん。私が取り憑かれたらどうしたのよ」
「ボクはキミに何かあると感じたらいつでも迎えに行けるように準備している。さっきのように取り憑く前に殺すさ」
ニャルラトホテプは「仮に取り憑かれたとしても取り出すこともできる」と答える。
少々、手間がかかるが問題はないようだ。桂華はこの男に監視されている気がして良い気分にはしなかった。
「あの虫は厄介だから……。そうだね、虫よけはしておくべきだね」
桂華の身が持たなくなるのは避けたいものだと、ニャルラトホテプは「考えておこう」と呟いた。
それはそれで良からぬことのような気がしたのだが、変に指摘して調子に乗られると困るので黙っておくことにした。
***
桂華は自身の誕生日をいつもと変わらずに過ごしていた。だらりとだらけていれば、ニャルラトホテプに「だらしない」と言われてしまう。うるさいなぁとか思いながらも桂華はソファからぬっと顔を出した。
「ねぇ、ねぇ」
「なんだ」
「なんでも作れるの?」
「あまり凝り過ぎてないものならば作れるが……。何か食べたいものでもあるのか?」
ニャルラトホテプの問いに桂華は「あるんだよねぇ」と答える。自分では絶対に作りたくないというか、上手く作れる気がしない料理。それが今、すごく食べたい。
「ねぇねぇ、ビーフストロガノフ食べたい」
「唐突だな」
ニャルラトホテプの返事に「いいじゃないか」と桂華は駄々をこねる。だって今、すごく食べたいのだ。どうして食べたくなったのか、きっとたまたま見た昼の番組で特集されていたからだと思う。久々に食べたいと思ったのだ。
それに毎回、怖がらせられている身を労ってほしい。何を好き好んでこんな化け物を楽しませるために、怪異などに巻き込まれなければならないのだ。
「誕生日ぐらい好きなの食べたいぃぃ」
「番組の影響を受けただけだろうに」
「あんただけ楽しんでいるくせに、こっちは精神すり減らしてんだぞ!」
「分かったから駄々をこねない」
ニャルラトホテプは「作ってあげるから落ち着きない」と言う。すんなりと要望を聞き入れられたので、桂華はいけるものだなと思いながらキッチンに立つ彼の姿を観察した。
もう夕方だというのに用意していた夕飯のメニューを変更されて対応できるのだろうか。
「材料あるの?」
「基本的な調味料や材料は買い置きをしてある。野菜や肉類も常にキープしている」
「何それ、こまめ」
料理上手な人にしかできないであろうことをこの化け物はやってのけている。最近は化け物というか邪神であることすら忘れそうになる。それぐらいこの男は人間として完璧に擬態できていて、それがまた不気味だった。
テキパキと作業をしていくのを眺めながら桂華はスマートフォンに触れた。
*
それから暫くだらりとスマートフォンをいじっていたら料理ができたらしく、ニャルラトホテプが皿をテーブルに並べ始めた。それを見て桂華はうわっと声を上げる。
リクエストした通り、ビーフスロガノフが出てきた。他にもサーモンのカルパッチョにオニオンスープ。そして、ショートケーキが用意されている。え、何と驚きにニャルラトホテプを見遣る。
「なんだい、その疑いの目は。キミの誕生日だから用意しただけだが?」
ニャルラトホテプに「キミ、ショートケーキが好きだろう。」と言われて、こいつ私の好きなものまで把握しているなと気づく。
いや、元々そうだろうなと思っていたので今更、驚きはしないのだがこうも見せつけられるとなんとも言えない。
「こっわ」
「失礼だね、キミ」
ニャルラトホテプに「席につきなさい」と言われたので大人しく座った。いただきますと手を合わせて桂華はビーフスロガノフを口に入れる。予想はしていたけれど、ものすごく美味しい。
なんでこうも美味しくできるのだろうか。語彙力がないので味の感想が上手く言えないのがもどかしい。とにかく美味しいので桂華はもぐもぐと食べ進める。そんな様子をニャルラトホテプは楽しげに眺めていた。
「キミは美味しそうに食べるね」
「実際に美味しいからね、仕方ないね。認めたくないけど」
「そういうところが好きだよ」
さらりと言うニャルラトホテプに桂華は眉を寄せる。もう聞き慣れた言葉ではあるけれど、純粋な気持ちなどこめられていないと桂華は思っている。
「どうせ、堕落したら捨てるくせに」
「何度も言うけれど、死ぬまで面倒見てあげるさ」
最後の瞬間までボクに狂って、死に恐怖して、その様を見せてほしい。ニャルラトホテプの言葉に性格が悪いと桂華は思った。そして、なんとなくだけれど自身はあまり長生きができないだろうなとも。
聞いたことがある、神様に気に入られた人間は短命だと。その通りなのかもしれないなと思いながら、桂華はサーモンのカルパッチョを頬張った。
「桂華」
「何」
もぐもぐと料理を口に運んでいるとニャルラトホテプに呼ばれた。隣を見遣れば彼からはいと箱を渡される。恐る恐るそれを受け取って開けてみた。
箱の中身はネックレスだった。小さいハート型にカットされた紅い宝石がつけられたシンプルなものだ。
「誕生日プレゼント」
「……何、企んでるの」
「キミ、失礼だよね?」
ニャルラトホテプに「純粋にプレゼントだと思ってくれない?」と言われても、そうは思えないわけで。何を企んでいるのだと疑いの眼を向けるとニャルラトホテプは「わかったわかった」と本来の目的を話した。
「それはアーティファクトだ」
その宝石には魔力がこめられている。魔術をかけらているのである程度の存在ならば避けられるらしく、虫除けのようなものなのだという。
「これ身につけておけば、化け物に襲われない感じ?」
「そこまで便利ではない。ただ、シャンのようなものは避けられる」
ニャルラトホテプに「それでも過信はしないように」と言われて、桂華はふーんとネックレスを見遣る。女性がプレゼントで貰えば嬉しいようなデザインをしているが、実際は身を守るためのお守りだとは誰も思わないだろう。魔力がこめられていると言っているけれどいまいちぴんとこなかった。
ただ、それを聞いて精神を削られるなど御免なので、桂華は詳しく聞くことをやめた。
「てか、どうして渡すわけ? あんた、私が恐怖して狂う瞬間が見たいんでしょ?」
「シャンのような脳に侵入して精神を弄るような虫は面倒なんだ。良いように記憶を改竄させるだけでなんの面白みもない。それでは狂っている姿も恐怖する姿も見れないじゃないか」
弄られた、演技されたリアクションなど求めてはいない。純粋な、ありのままの姿が見たいのだ。恐怖と不安、悲しみ、そして狂っていく、それが面白いのだから。ニャルラトホテプは「ボクでも守れるけれど虫を避けられるならそうした方がいい」と言う。
なんと自分勝手なのだろうかと桂華は思った。桂華の身の安全というよりは自身が楽しめるかどうかで判断しているのだから。それでも、自分はこの化け物に生かされているので文句は言えない。
死んだ方が楽かもしれないが、やはり死ぬのは怖いのだ。桂華は「身につけておけばいいんでしょ」とネックレスを取り出して、つけて見せた。
「素直だね、キミ」
「そうしないとあんたが怖そうだから」
「怒ったりしないが?」
「小言言われそうじゃん」
そう言ってみれば、ニャルラトホテプは「まぁ、言うだろうね」と笑った。小言を言われるぐらいならば身につけた方がいい。あの変な虫から守られるのだから、悪くはないのだ。
そんな桂華の心情を察してか、ニャルラトホテプは愉快げな様子だ。目を細めてじっと眺めているその表情に桂華は顔を顰めるも、彼を楽しませるだけだった。
後日、ネックレスをつけて会社に行ったところ、千歌から「それルビーですよね! 誕生石じゃないですか!」と指摘されて、一応は誕生日プレゼントだったことを桂華は知った。
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