六.玉虫色の悪臭よりも

第13話 こいつから逃げる術などないと分かっていても、この現状は辛い①


 桂華はうんざりしていた。つい先ほど母親から電話がかかってきたのだ。最初は近況報告など他愛のないものであったけれど、母はだんだんと踏み入った話に入る。



『親戚の美香ちゃんは結婚したわよ。あなた、もう二十四歳でしょう。恋人はいるの?』



 と、ずかずかと聞いてきだのだ。職場でそれがなくなったというのに今度は身内であるのか。桂華は苛立ったものの、母親ながらに結婚できるか心配している気持ちは分からなくもなかった。


 娘が年頃ならば恋人がいてもいいのではと思わなくもない。けれど、余計なお世話だと思ってしまう。


 結婚できるのか。そんなもの、普通の人間とは無理だとしか言えない。何せ、そう何せあの化け物に気に入られてしまっているのだから。あの男は桂華に近寄る男を許さない。平気で気を狂わせるだろうし、下手すると病院送りだ。


 だからといって、同居相手はいますなど言えるわけもないのだ。ただただ、「気にしないで」としか言いようがなかった。


 桂華が「まだ二十代前半だから少しは遊ばせてよ」と言えば、「今から探さないと大変よ」と言われてしまう。もう放っておいてくれ。桂華はなんとか母との話を終えて電話を切り、ソファに寝そべっていた。


 千歌の次は母なのかと項垂れている桂華の様子を、ニャルラトホテプはにこにことしながら眺めていた。それはもう楽しそうに愉快そうに。


 それがまた腹が立ったので、腹に一発入れておく。だが、効くわけもなく彼に「本当にキミは臆さないね」と返されてしまう。



「怖がったらあんたを喜ばせるだけだって知ってるからね」

「怯える姿も良いのだけれど」

「性格が悪い」



 あぁ、本当にこの男、いや化け物というのは性格が悪い。気に入っている、好きだよと言うけれど、相手が恐怖し、困惑し、焦り、怒り、発狂するそんな姿が見たくて見たくてたまらないのだ。


 最近はニャルラトホテプに甲斐甲斐しく世話を焼かれるのに慣れてしまったし、美味しいご飯に胃袋は掴まれたし、たまに見せるひと匙程度の優しさを知ってしまった。


 着実にそう着実に桂華の心へと侵食していっている。それが彼の目的であり、自身に狂ってもらうための戦略なのだから質が悪い。


 狂いたくなどない、狂いたくなどと思うけれど桂華の身体はそれを受け入れつつある。そうやって考えてもがいているところをニャルラトホテプは楽しんでいるのだろうか、彼は口に出さないので分からない。



「人間の親というのは面倒なものだ」

「そうだね、娘の婚期を気にするからね」

「ボクがいるから問題はないだろう」

「大ありだよ、ばか」



 桂華は「あんたとずっと一緒とかぁぁ」と唸る。それにニャルラトホテプが「逃すつもりはないからね」と笑った。


 くっそう、この野郎と桂華はじとりと睨む。彼はただ、愉快そうに目を細めるだけだ。あぁ、本当にこいつからは逃げられないと溜息を零す。



「いざとなったら実家に帰ってやる……」

「それは困るな」



 ニャルラトホテプは「せっかくボク無しでは生きられないように調教しているというのに邪魔されたくはない」と困ったように眉を下げた。


 嘘っぽいなと桂華は思ったけれど言わないでおいた。余計に面倒なことを言われるのを知っているからだ。「困ればいい」と吐くように言って、桂華はソファから起き上がった。


 せっかくの休日だというのにこいつと一緒だと疲れるだけだ。ぐでぇっと隣に座っているニャルラトホテプに寄りかかってみる。彼は目を瞬かせていたが、少し考えて桂華の腰に手を回してきた。



「腰に手を回すな、変態!」

「キミが積極的になったからじゃないか」

「違うわい! 嫌がらせじゃ!」



 離せと手を叩くもニャルラトホテプは微動だにしない。むしろ引き寄せてくるので桂華は身体をのけぞらせた。暴れる様子がまた可笑しかったのか、ニャルラトホテプはくすくすと笑っている。


 笑い事ではないのだぞと叫びたかったけれど、言っても無駄なことは分かっているので桂華は身体をじたばた動かすしかなかった。



「くっそう、このやろう……。無駄に身体が良すぎる……」

「人間を惑わすには目麗しくないといけないからね」

「最低すぎる……」


「キミね。一緒に住むようになってからだいぶ経つけど、何もされていないことに感謝するべきだよ」



 ニャルラトホテプに「ボクから怪異に呼び込んだことはないのだからね。手も出していないし、むしろ助けてあげているだろう」と言われて確かにと思った。


 けれど、こいつと一緒にいるからよくわからないことに巻き込まれるのではないだろうかと思ったりもしたので、やはり感謝はできなかった。



「感謝したくないぃぃ」

「面倒な男避けにはなっているだろう?」

「あんたが一番、面倒なんだよ!」



 自分こと棚に上げて何を言っているのだ、この化け物は。桂華がそれはそれは嫌そうにしてみせれば、ニャルラトホテプは笑みを返してきた。



「家事全般ができて顔の良い男の何処が嫌というのか」

「化け物って時点で嫌なんだけど?」

「本来の姿ではないだろうに」

「見た目じゃなくて、中身がくそ悪い時点で駄目なんだよなぁ!」



 桂華はバシバシと腰に回された手を叩く。それでも彼は離す気がないようで、桂華の反応を楽しげに眺めていた。これはもう駄目だ、桂華は抵抗するのをやめた。


 まだ短い付き合いではあるが、駄目な時は駄目だというのを把握できるようになっていた。これは暫くこのままだと桂華は諦める。



「なんだ、もうおしまいか」

「抵抗するだけあんたを楽しませるだけだからね」

「それは残念」



 残念というけれどニャルラトホテプは微塵も思っていない表情をしている。それがまた苛立ったのだが、桂華は反応するだけ無駄だとぐっと堪える。



「ボクだからいいけれど、気をつけることだ」

「何、男にそれとも化け物に」

「そのどちらもだよ」



 怪異というのはなんの前触れもなくやってくる。それは現実かもしれないし、夢の中かもしれないのだから。ニャルラトホテプは「どんなに気をつけていても足を掴まれてしまうものだがな」と笑う。



「人間の男もそうだが言葉巧みに騙すものがいるのと同じように、怪異も静かにやってくる」


「それ、気をつけてても意味なくない?」

「気をつければ幾分かは避けられると思うよ、多分」



 なんだ、その曖昧な返事は。桂華は眉を寄せながらニャルラトホテプを見遣る。彼はただ、桂華を見つめるだけだ。


 気をつけると言われても、桂華はそのつもりで生きている。この化け物に出会ってからは特にだ。だというのに巻き込まれているのだが、それはもうこいつのせいということにしていた。



「そもそも、あんたに目をつけられなかったらこうはなってない!」



 ニャルラトホテプに目をつけられなければ、怪異などに巻き込まれて恐怖を味わうことなどなかったのだ。桂華の言葉に彼は「ボクは良いものを見つけられたけどなぁ」と返事になっていない返しをする。


 

「ボクを楽しませたくないのならば、気をつけることだな」

「くっそう、絶対に無事でいてやる」



 そう言って桂華は睨むも、ニャルラトホテプには通用しておらず、愉快げに見つめられるだけだった。



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