裏返る名前

いちはじめ

裏返る名前

 手足を縛られ、猿轡(さるぐつわ)をされた少女が、床に転がされたまま、何故こんな目に合わないといけないの、という目で見上げている。

さち、あんたには何の恨みもない……。いや、やっぱりあるのかな」

 幸を見下ろしながら亜美は話を続けた。

「私とあなたは、生まれた時に病院で取り間違われ、それぞれよその家で育てられてきたの、知ってた?」

 幸は、それは何かの間違いだと言わんばかりに、頭を激しく左右に振った。

 亜美と幸は同じ日に、とある病院で産声を上げた。しかしその日、病院は難産の末出産した母子が、重篤な状態になったため、大層な混乱の中にあった。不幸にもそんな状況下で赤子の取り違えが起こり、二人は本来とは違う父母の元で育ってしまったのだ。

「それに気づいたのは、親戚の子供のために骨髄移植のドナー登録をした時。DNAがほとんど一致していなかったのよ」

 そこまで話すと、亜美は壁に立てかけてあったパイプ椅子を開き、どっかと腰かけた。

「そして産まれた病院で調べた。病院には高校の夏休みの課題で、産まれたときのことを調べている、とか言ってごまかして。それで分かったの、でもあなたのことまで調べたことは後悔してる。あなたは裕福な家庭で何一つ不自由なく暮らしている。それに引き換え私は惨めそのもの」

 そう言った亜美の家庭は、自身が思うほど貧乏で恵まれない家庭ではなかったのだが、会社を経営する幸の家庭と比較すると、見劣りすることは否めなかった。もし亜美が実の子であったら、そんなことはただの羨みだけで済んだかもしれなかったが、何もかもが奪い取られたと感じた亜美の心に、それは重く沈んでゆき、そして次第に理不尽な怒りに変わっていった。

 幸は目を見開いたまま声も上げない。

 亜美は幸の傍らにしゃがみこみ、幸をのぞき込んだ。

「姓名判断したことある? そう、じゃあ教えてあげる。あなたは幸運に恵まれる運勢で、私は何をしても最後はうまくいかない運勢だって。これってひどくない? 本当は逆になるはずだったのに……」

 亜美は怒りに任せて、足元にあったポリタンクを蹴った。ポリタンクは、ドポンと低くくぐもった音を部屋に響かせた。

「それで私、あなたと入れ替わることに決めたの。で、悪いけどあなたには焼け死んでもらう。私たちは、背丈も体形もほぼ一緒、こうやって服や下着まで丸々取り換えても何の違和感もないし、幸いなことに、二人とも身元の手掛かりとなる歯の治療もしていない。だからあなたを、DNA鑑定でしか身元が分からないように焼くの」

 猿轡の下から、『ひっ』という悲鳴がした。

「安心して、その代わり私も顔を焼くから。あなたに近づいて、あなたになり切るための情報を仕入れた。十分ではないけど足りないところは、今から起こる火事のショックで記憶障害が起こった、とでもするつもり」

 恐怖にかられた幸は、この場から逃れようと身もだえたが、もうどうにもならない。亜美は思い詰めた顔で、ポリタンクのふたを開けた。室内に鼻をつく灯油の臭いが拡がっていった。


 亜美は顔を含めた頭部全体、それに体のあちこちを包帯で巻かれ、点滴を受けながらベッドに横たわっていた。顔の痛みはひどいもので、体のあちこちも悲鳴をあげていた。しかしそれは、亜美にとっては生きている証でもあった。

 ――私は幸として生まれ変わり、これから、それこそ幸多い人生を歩んでいくんだ。

 亜美がそんな決意を改めてかみしめていると、数人が病室に入ってくる気配がした。彼らは亜美のベッドを囲むようにして丸椅子に腰かけた。

 医者だろうが警察だろうが、うまく対処するつもり、これで計画の成否が決まる。亜美は覚悟を決めたが、最初に耳に入ってきたのは、幸の母親の辛そうな声だった。

「お医者さんがもう峠は越えたって。今回の火事で、あなたが助かったことは幸運だった」

 父親が、涙声でその後を継いだ。

「残念な知らせだがお友達は助からなかった……。先日私たちで葬儀を済ませたところだ」

 亜美はその言葉に安堵し、包帯の下でほくそ笑んだ。しかし次の言葉は予想もしていないものだった。

「今、亜美さんのご両親もみえているのよ」

 亜美は、胸が大きく動悸を打ち、緊張で手のひらが汗ばんでくるのを感じた。そして聞きなれた母の声を聞いた。

「これまでずっと黙っていたのだけど、あなたとは、産まれた時に病院で取り間違えられたの。それが分かった時、私たちは、元に戻すべきか否か何度も話し合った。でも二人の年齢と、これまでの家族関係を考え、そのままの方がいいという結論に達したの。そんなあなたたちが友達同士だったなんて、なんという偶然なのかしら。それがこんなことになって……」

 亜美は姓名判断を思い出し、自分の名前を呪った。そして父の言葉が、亜美を絶望の淵に叩き落した。

「火事で死んだ幸さんは、私たちの本当の子供だった。だが安心しなさい、。これからもお前は私たちの子供だ」

                                   (了)

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