虹をかける
藍田瑞季
虹をかける
毎年梅雨時期になると大雨と台風がやってくる。小さな頃に体験した情緒的な小雨は一体どこに消えたのだろうか。
轟音は苦手だし、毎年どこかで起こる災害を思うと憂鬱になる。人を失くすことと同じに考えるつもりはないけど去年は台風でお気に入りの傘が壊れてしまって酷く落ち込み、また壊れて落ち込むのは嫌だからという理由で透明のビニール傘を買った。
傘置き場に行けば似たり寄ったりなものが並んでいるので、取り間違えないように持ち手に青いストラップをつけている。
いまはその傘を片手に雨宿り中だ。会社からの帰り、駅の目の前で急な大雨に足止めされてしまった。雨だけではなくときに雷まで鳴っていて、周りにいる人たちも不安げな顔をしている、
どことなく空気が重い。雨雲にシンクロするような気分で街をぼんやりと眺めていると私と同年齢ぐらいの女性が声をかけてきた。
「あれ、もしかして辻原さん?」
「そう……ですけど」
私は無遠慮な一言に戸惑いながら返した。
相手はショートヘアでボーイッシュな雰囲気だった。ロングヘアの私とは真逆。服装はパンツスタイルのオフィスカジュアルだった。その爽やかさから警戒しないで済んでいるけど、彼女が何者なのか全く分からない。
実は人違いで偶然同じ名字だった、なんてことはないだろう。誰ですか? と訊いて良いものかと迷っている間に彼女が先に話し始めた。
「覚えてない? 高校で一緒だったよね。つっきーって言ったら分かる?」
「あ、分かった」
月島さんだった。髪型が違うだけではなく幼さが消えているけど、性格は変わっていないようだった。
明るくて何に対しても前向き。誰とでも仲良くなれる。彼女はそんな子で、私は同じ教室の中で心理的な距離を置きながらその性格を少し羨ましく思っていた。
いまはそこまで自分に劣等感を持っていないものの、高校時代のことを思い出すと雨に対してとは別な意味で気が重くなってくる。
とはいえ、月島さんは何も悪くない。過去のことは忘れることにした。気を取り直し、「久しぶり」とナチュラルな定型句を返した。
「だね。仕事帰り?」
「そう。月島さんは?」
「私もだよ。辻ちゃん変わってないね」
「そう?」
「うん。良い意味で」
彼女はにこやかに言った。
その中身がお世辞ではないことは分かっているけど、素直に受け取れなかった。天気のせいにして「ありがと」と答えた。
「職場、この近くなの?」
「うん」訊くと、一言だけ返ってきた。「しばらく止みそうにないし、カフェにでも行く?」
「うーん……」
私は動く気になれなくて曖昧に答えた。恰好は似ていても彼女との温度差がまだ少し気になっている。
「行こう」
「分かった」
促されてそれに従った。
「そこは良いよって言わないと」
「そこは許してよ」
「はいはい」
「はいはいって」
その言い方はないだろうと呆れを返すと、月島さんはさっさと歩き出した。私は慌ててその後を追う。
「待って。どこ行くの?」
「すぐ近く。リオンっていう店」
気に入っているという。本当にすぐ近くにあり相槌を返す間に到着した。
店先の小さな傘立てが全て埋まっていたので、私たちは壁にもたれさせる形で畳んだ傘を置いた。傘の数だけ店内に人がいるのだろう。
店自体はレトロな雰囲気でドアにはくすんだ金色のベルがついていた。開けると自然に音が鳴る。
中に入ると店員に出迎えられた。空席がないのではないかと思っていたけど、ちょうど二人分空いていて窓際の席を案内された。
向かい合って座ると月島さんが早速隅に立てかけられていたメニューを手に取った。私が見やすいように置く。
「何にする?」
「えっと……ホットのカフェラテで」
訊かれた私メニューを一通り見て答えた。
「私はチャイラテ」
月島さんは言った後、近くにいた店員に声をかけて注文を伝えた。
「慣れてるね」
「うん。月一回ぐらい来てる」
普段は一人でまったりしているという。一人でいるイメージがあまりないので意外だった。
「良いね。私はそういうの全然だよ。一人じゃなかなか店入れなくてさ」
「ありそう」
「ありそうじゃなくて本当に」
「どういう店でも?」
「そう」
「女の子だ」
馬鹿にするのではない素直な感想が返ってきた。
「女の子?」
「性格的に」
「……」
言いたいことは分かる。女の子といえば、と連想を広げて話を進めた。
「実際的にはもう女子って言われる歳じゃないよね。悲しいけど」
言ったところで、店員が席の前に来てテーブルへ丁寧にカフェラテとチャイラテを置いた。
「お待たせしました」
「「ありがとうございます」」
私と月島さんはそれぞれに礼を言った。同じタイミングで飲み始める。
しばらくは無言。私は飲みながら窓の先を見た。
雨がまだ少し降っているようで外は変わらず傘の花が咲いていた。大雨ではなくなったことに皆どこかほっとしているように見える。
傘といえば月島さんが持っていたのは白と薄ピンクのストライプだった。そこは私より女子らしいかもしれない。
女子じゃなくて女性かとぼんやり考えていると月島さんが不意に「悲しくないよ」と言った。
「え?」
「年齢は勝手に上がってくからそれを嘆いても仕方ないっていうか……自然なことを 悲しんでもなあって思うよ、私は」
落ち着いた口調で話す彼女は私よりも大人に見えた。カフェラテを飲んでいる姿も余裕がある。
高校時代と変わらず前向きで、やっぱり私とは逆だ。見習いたいと思いつつ、正直な感想を返した。
「前向きだね」
「そういう辻ちゃんは後ろ向きだね。あんまり楽しそうに見えない」
「……かもね」
確かに楽しくはない。雨に足止めされての意外な再会は嬉しいものの、少しだけ比べられている気分になっている。
そんな自分が嫌になるけど、それは表には出さず空模様のせいにした。
「雨だし」
「晴れたら変わるの?」
「そう」
「なら、もうすぐ変わるんだ」
「どうだろうね」
「変わらない?」
「分かんない。っていうか何この会話」
流れに乗って返す間に話が妙な方向に転がり始めた。適当に返し過ぎたからだろう。何をしているんだろうかと自分に呆れていると、月島さんが「何だろうね」と緩やかに呟き半分に言った。
「まあ別に良いんじゃない? 真面目な話じゃないんだし」
「適当だね」
「うん適当だよ。辻ちゃんはやっぱり真面目だね」
変わってない、と言う。この短時間で二回目だ。
「そんなに真面目なつもりはないけど」
「私から見たらそう見えるんだよ。私チャラいからさ」
「チャラいって……そんなことないよ。普通に社会人してるんだよね」
「そうだけど、それと性格は別」
「性格……何の仕事してるの?」
「普通に事務員してる。普通じゃないって言われるけどね」
同じ仕事仲間からは距離を置かれているけど、それで良いという。
「変わってないね」
さっきのお返しではなく、本当にそう思った。
「うん、人って変わらないものなのかもね」落ち着いた反応が返ってきた。「辻ちゃんは、何の仕事?」
「同じだよ」
「そっか」
あっさりと言って、チャイラテを飲む。私もそれに倣うような形でカップを傾けた。
カフェラテを飲む間に、同じ高校だった他の子たちはいま何をしているんだろうかという疑問が浮かんできた。
何人か連絡先を知っている子はいるけど全く交流していない。期待はせずに月島さんに訊いてみた。
「高校のみんな、いまどうしてるんだろうね。何か知らない?」
「知らないなぁ。そういえば連絡取ってる人いないや」
「やっぱり?」
「分かってて言ったの?」
「うん」
答えながら、今度誰かに連絡を取ってみようかと考える。これを機会にすればいい。避けていたつもりはなくどこかで面倒に思っていた。
会う話になったらそのときは月島さんも誘って、と考えていると彼女が声をかけてきた。
「雨、止んだね」
「え?」
言われて外を見ると、外が明るくなっていた。
「飲み終わったことだし、出よっか」
月島さんが席を立った。
「待って。まだ終わってない」
「じゃあ先に行ってる」
「え?」
「会計済ませて外で待ってるから。二人分払っとくね」
「良いの?」
「良いよ」
答えてレジに向かって行く。
私はサバサバとしたその姿を「らしいな」と思った。奔放で正直ななところは本当に高校時代と変わっていない。誘ったのは彼女のほうでもあるし素直に奢られることにする。
残っていたカフェラテを全部飲んだ後、外へ出た。
けど、そこに月島さんはいなかった。入り口にはまだストライプの傘が置いてある。
トイレにでも行っているのだろうか。確かめに戻ったけどトイレには誰もいなかった。どういうことかと思いながら店の外に出た。
月島さんは待っていると言っていたのにどこへ行ったのだろうか。帰ってしまったのかと思いながら、私も帰ろうかと迷う。置いたままの傘も気になって、すぐにはその場を動けなかった。
そんな私の周りでは数人が空を見上げていた。
何事かと同じ方向を見ると空に薄く虹がかかっていた。月島さんがこれを見ずに帰ったのなら惜しい。
でも何も言わずに帰るのは反則だ。虹も消えてきたことだし、もう月島さんのことは考えないで帰ろう。自分の傘を持ち、月島さんの傘は気にしないことにする。彼女を大人だと思ったのは間違いだったらしい。
少し腹を立てながら足を踏み出したところで、横から声をかけられた。
「さっきの見てた?」
月島さんだった。
「……さっき?」
「虹。私は向こうで見てたんだけど」
「気付かなかった」人よりも空に目を向けていた。「というか、いなくなって焦ったんだけど」
「ごめん。あっちのほうが見やすかったから」
苦情を投げると素直な一言が返ってきた。
「何それ」
「ごめん」呆れを返すと今度は本気で謝ってきた。「もう帰る?」
「うん。明日も仕事だし」
「私も。じゃあまたね」
「また」
その場で別れた。
けど、その直後にまた声をかけられた。
「辻ちゃんも駅だったよね」
「あ」
すっかり忘れていた。
「最寄り駅は?」
「都田」
「なら路線違うね」
駅まで一緒に行こうと言う。
「うん。それは良いけど、店に傘置いたままだよ」
「え?」
「入り口」
そこを見てようやく気付いたらしい。月島さんは「本当だ」と軽く驚いていた。傘を取りに行き、すぐに戻ってくる。
「あれ実はいままでにも何回か忘れてんだよね。駅の待ち合いとかさ。すぐ気付いて戻るんだけど、きょうは気付かなかったな。ありがとう」
言って笑った。
「大事にしてるんだね」
「うん。貰い物だし」
「誰から?」
「妹。歳離れてんだけど初めてのバイト代で買ってくれて」
「そうなんだ」
そういえば妹がいるといつか言っていた気がする。
「だから、本当に失くしたり壊したりするのはちょっとね。別々に住んでるからバレないけど気分的には良くないし」
「優しいね」
「というか、知られたら何言われるか」
「分からない?」
「そう。でも多分似た者同士なんだよね」
「良いな」
私は一人っ子だ。
それに寂しさを感じたことはないけど少しだけ羨ましい。ないものねだりだ。一緒に出かけたら楽しいだろうなと思いながら質問をする。
「似てるなら気も合うんじゃない?」
「やー、そうでもないよ。よく喧嘩になるし」
「仲良いんだ」
「違うよ」
月島さんは私の一言を緩やかに否定した。駅に向けて歩き出し、私はそれを追う。形はリオンに入る前と同じだったけど、会話については逆だった。
気持ちが軽いのは晴れた空と彼女と月島さんのおかげだ。晴れたから気持ちも晴れた。単純にも、もう一度布の傘を買いたいとまで思い始めた。
ただ、いま手に持っている傘もまだ使いたい。新しく買うのはビニール傘が壊れた後にしようと決めて、月島さんにお礼を言った。
「きょうはありがとう」
「急に何? さっきまで怒ってたのに」
怖いよ、と冗談半分の一言が返ってきた。
「気分転換できたから」
「それは良かった。機嫌悪そうだから声かけたんだよね」
「え?」不機嫌なら逆に声をかけないだろう。私が同級生だという確信がなかったら尚更だ。「何でそうなるの」
「実は前にこの辺で辻ちゃんが他の人と話してるの見かけてたんだよ。だからきょう 声をかける前には目の前にいるのが辻ちゃんだって分かってた。もしかしてって言ったけど」
月島さんは悪戯を白状するように「ごめん」と言った。
「別に謝らなくても。声かけてくれて良かったよ」
悪いことは一つもない。ただ、いつ私を見かけたのか全く分からない。
「前にっていつ頃?」
「二週間ぐらい前、同じ歳ぐらいの人と。仲良さそうに見えた」
「それ後輩だよ」
去年入社してきた立川君だ。どうにも仕事がうまく行かないと悩んでいるようだったので帰宅しながら少し話をした。軽く愚痴の言い合いになって、ただそれだけだっのだけど外側からは仲が良く見えたらしい。悪く見えないのならそれで良いけど、良く見られ過ぎてもそれはそれで困る。
我儘であり厄介な自分に自分で呆れながら話を続けた。
「その子も電車通勤」
「ならきょうもその辺りにいたりして」
「それはないよ。その子のほうが先に帰ったし」
「そっか。残念」
「残念って……」
言い合ううちに駅に着いた。
階段を上がって中央改札の前で別れる。
「じゃあまたね」
「またね」
私が言って月島さんが答えた。
改札を抜けて乗り場に向かう途中で一人だけやけに足取りの遅い人が目についた。歩く早さは人によって違うけど心配になるぐらいの遅さだ。小柄なこともあって頼りなくも見える。
どことなく後輩の立川君に似ていると思って顔を見てみたら本当に彼だった。
「こんなところで何してるの?」
「あれ、先輩?」
お互いに驚き、一瞬だけ時間が止まった。
「……先に帰ったはずだよね」
「はい。でもちょっと用があって」
「で、何を落ち込んでるの?」
「え?」
「いや明らかにそういう感じだから」
「別にそういうつもりは」
「つもりじゃなくても……」
言いかけてやめた。あまりしつこく訊くのは良くない。それより他の話をと彼の手元に目を向けると「なくても?」と返された。
「そう見えた」
「……そうですか」
「やっぱり落ち込んでる」
「彼女に愛想尽かされました」
「え?」
「ちょっと会って話してたんですけど、俺がきょうも失敗したって愚痴ったから。そんな話は聞きたくないって前にも言われてたのに、また言ってしまって……なんかもう全部駄目です」
本当にダメージが強いのか、きょうは口数が多い。
どう答えたものかと迷う。
黙って立っている私たちの横を人が次々と通っていく。このまま沈黙が続くのは気まずいものがある。
「良い傘持ってるね」
迷って、結局は話を飛ばした。
「え、傘?」
「頑丈そうだなと思って」
「頑丈なの欲しいんですか?」
立川君は不思議そうな顔をしていた。
「そういうわけじゃなくて、頑丈な物持ってるんだから、立川君自身も大丈夫なんじゃないかって」
「……それ、どういう理論ですか?」
「深い意味はないけど」
私自身も自分から出た言葉に驚いていてうまく説明ができない。月島さんのノリが移ったみたいだった。いままで自分は人の影響は受けにくいと思っていたけど違っていたらしい。きょうのキーワードは『単純』だ。それに沿って先を進める。
立川君に、月島さんと偶然会って話をしていたことから最後に立川君にも会うのではないのかと言っていたことまで、私と彼女の傘のことも含めて大雑把に話した。
「ってことで、私も元気づけられたところなんだよね。私のはただ気分の問題だったけど、誰でも凹むことはあるし、きっかけがあれば立ち直れるあから大丈夫だよ」
「なんか凄く明るいな。見習います」彼は苦笑した。ところで、と話を変える。「その人最後俺のこと当てたんですよね。それ凄いです」
「凄いけど……多分適当に言っただけだと思うよ。それがたまたま当たっただけ」
「でも凄いです。ちょっと会ってみたいな。そんな明るい人なら話してて楽しそうですし」
「まあね。ちょっと振り回されるけど」
「なら、やめておこうかな」
呟き半分に言った。
「どっち?」
「まあ機会があればってことで」
「機会。次は……特に約束してないからいつになるか分からない」
「なら、いいです。何か楽しそうな先輩見てたらちょっと元気出ました」
「良かった」
立川君の笑顔にほっとしながら「また明日」と別れた。
見かけたからそうしただけではあるけど、声をかけて良かったと思う。かける言葉次第で人は変わるのだろう。それがきょう分かった。
明るい言葉は雨上がりの虹に似ている、などとらしくもない詩的なことを思い恥ずかしくなった。事実だけ残して思い浮かんだことは頭から消して自分が使っている路線の乗り場へと足を進める。
階段を上がっていると、不意に月島さんの連絡先を知らないことに気付いた。
会うには偶然に頼るしかない。高校の同級生に連絡を取る手もあるにはあるけど、孤高だった彼女が誰かと連絡先を交換しているとは思えなかった。高校時代にそういうことをしている姿を見た覚えがない。
ただ、彼女のことを抜きにして誰かに久しぶりに連絡を取ってみるのはありだと思う。これを機にまた交流を再開しても良いだろう。
座席に座れたら早速、と思っていると電車が到着した。
車内は当然のように混雑していたので、最初から座ることを諦めて前に立っていた人に続いて乗り込んだ。
乗客は仕事帰りの人が大多数で皆一様に疲れた顔をしていた。私だけが明るい気分でいるように思えたけど、そこは気にしないことにして身体が傾かないように背筋を伸ばした。
外が暗いので正面を向くと自分が窓ガラスに映る。
いまの気分と同じく健康な顔をしていた。目の下に少しだけ隈があるけどそれは許容範囲だ。明日も引き続き良い気分で過ごしたいと思いながら傘を持ち直した。
虹をかける 藍田瑞季 @a_mizki
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