子供がどんな人間に育つかは<運>によって決まると考えている間は、まっとうな人間を育てるのは難しいと思うよ。そもそも、<運>によって決まるなら、何をしても無駄ということになるよね?

 人間の中には、

『こんな話ばかりしてて何が楽しいんだ!?』

 と言うのもいると思う。だけどそれがもうおかしいと感じるんだ。だって、アオも悠里ユーリ安和アンナ椿つばきも、とても大切な話をしているはずなんだよ? しかもそれを話し合っていることそのものを楽しんでいる。

 もちろん、他にももっと他愛のない、漫画やアニメの話題もたくさんある。アニメを見ながらそれについて楽しげに話し合ってもいる。ただ僕が、そういう話にはついて行けないから取り上げないだけだ。

 でも、そういう話もした上で、大切な話もするんだよ。漫画やアニメの話しかしないわけじゃない。特に椿は、学校で起こったことなんかをとてもよく話してくれる。

 そういえば以前、椿が授業参観のことを話してくれたな。

「ママが来てくれて、手を振ってくれたんだよ♡」

 人間の子供は、六年生くらいになると親が授業参観に来ることをあまり喜ばなくなるらしいね。でも椿は、アオが来てくれることを喜ぶんだ。実は僕も、こっそり、気配を消してアオと一緒に授業参観に参加したことがある。

 そしてその時に、他の子供達の母親がアオについて話しているのがきこえてしまった。

「あの子のお母さん、<未婚の母>なんですってね」

「それなのにあんなに利口で優しい子が生まれるなんて、運が良かったのね」

 とかね。

 だけどそんな風に、子供がどんな人間に育つかは<運>によって決まると考えている間は、まっとうな人間を育てるのは難しいと思うよ。そもそも、<運>によって決まるなら、何をしても無駄ということになるよね? 自分が無駄なことをしてると自分で認めるの? 人間の言う<未婚の母>であるアオが育てた椿がとてもいい子に育ったのを『運が良かったから』と考えるのなら、育児なんてする意味もないと思うけどな。ましてや<躾>なんて何の価値もない。

 躾なんかしなくても、運が良ければいい子に育つということだよね? 『運が良かったのね』とか言うってことは。

 確かに、親以外に大きな影響を与える人間に出逢うか出逢わないか、出逢ったその人間がどういうタイプの人間かというのは、運に左右される部分もあると思う。けれど、そんなたまたま出逢っただけの赤の他人に、子供が生まれた時からずっと傍にいる親が影響力の点で負けることを恥ずかしいとは思わないのかな。

 ましてや、

『人間としてどう生きるか?』

 ということを自分の子供に教え諭すという行いを赤の他人に丸投げするのを恥ずかしいと思わない人間がいることが僕は不思議なんだ。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る