殿下、幼馴染の令嬢を大事にしたい貴方の恋愛ごっこにはもう愛想が尽きました。

和泉鷹央

第1話 婚約破棄と追放と


 その日、自室で伏せる聖女を訪れたのはこの国の王太子にして婚約者の、ルディだった。

 亜麻色の髪に苔色の瞳を持つ彼はまだ幼い十五歳。

 雪の降る季節だというのに、三歳年上の恋人を想ってきてくれたのかと、長い闘病生活に伏せている聖女カトリーナはやつれた顔に精いっぱいの愛情を込めた微笑みを浮かべて、彼を歓迎した。


「殿下がいらしたのですから、せめて髪と簡単な化粧ぐらいは整えましょう」


 お付きの侍女たちが殿下のお越しです、と伝えた後に彼をしばし引き留めてくれていた。

 周囲の気遣いが、カトリーナにはありがたかった。

 手鏡を前にどうしたものかと心をワクワクさせる彼女に対して、侍女たちは簡単ながらも長く艶やかな黒髪をくしでついては綺麗にまとめあげ、目元の隈や頬のやつれ具合を隠す程度に化粧を施してくれた。


「聖女様、殿下とお会いになるのは三か月ぶりですね。早く会いたくて待ち遠しいでしょう?」


 まるで自分の事のように彼女たちは一生懸命働いてくれた。 

 そして彼を寝室に迎え入れたというのに……。


 王太子が最初にした発言は、見舞いにきたとか、カトリーナのことが心配だったとか、早く将来の妻になる女性に健康になってほしいとか。

 そういった優しさのもたらすものではなくて。

 反対にカトリーナを失意の底に叩き落とすものだった。

 

「君のためにこの婚約を断ろうと思うのだが、君はどう思う?」


 その一言は病床に伏せるカトリーナの胸を痛く貫いた。

 生まれながらの許嫁の二人。

 婚約者として、宮殿に入ってから十年が経過する。

 それほど長い時間を過ごしてきたというのに、いきなりやってきたこの国の王太子はのほほんとした顔でそんなことを言い出した。


「殿下? どうして婚約を破棄することが私のためになるのでしょうか?」


 カトリーナはあまりのことに茫然自失としてしまっていた。

 いつかは来るだろうという予測はしていたが結婚する直前になってこんなことを言い出すなんて、さすがに受け入れる心の準備はできていなかった。

 悔しさと彼を信じてみたかったと思った自分自身に対する情けなさでカトリーナの唇はいつになく朱が差したように、生き生きとして見えた。

 それが健康的になったのではなく、過去の自分や婚約者に対する怒りから血の巡りが良くなったなんて誰が信じるだろう。


「そんなこともわからないのか」


 王太子ルディは自分の考えを理解できていないカトリーナをせせら笑うかのように右頬をいやらしい気に上げて理由を語ってみせた。


「君がこの宮殿にきてもう十年になる。最初の頃は健康でよかった。何の心配もなく将来を信じることができた。二人にとっての理想的な将来をな」


 理想的な将来?

 そんなものがいったいどこにあるというのだろう。

 ルディよりもカトリーナの方が心の底で自分の婚約者を嘲笑っていた。

 自分が健康になってしまったらこの国は救われないというのに。

 その事実を理解していない彼が愚かしくて仕方なかった。


「二人の将来を考えて婚約を破棄したいのですか」

「その通りだ。僕にだってもっと健康的で行動力のある女性をのぞみたい。君のようにいつか死ぬかもしれないような女性を、王妃にすることは国民に対して申し訳ない気分でいっぱいだ」

「私を王妃するという約束は、国王陛下と私の父親の大神官との間の約束だったはずですが?」

「そうだな。しかし、我が父親はもう意識を保つことができないくらい昏睡している。これからは僕が国王になる時代だ。そのためにも国には明るくて健康で国民全員から愛されるような王妃が必要だと、僕はそう思う。君はどうだ?」

「……私にはその問いに答える権利はありません」


 そうなのだ。

 この国イスタシアはこれといった資源もなく土地も痩せこけていて大した収入も見込めない、大陸の北部に位置する国々の中でも最も貧しい国の一つに数えられる。

 そんな国だった。

 二十年前までは。


 転機はこの国の出身であるカトリーナの父親であるジョゼフが、炎の女神ラーダの大神官に選ばれたことから始まった。

 大神官は国王と約定をかわしたのだ。

 この国に女神ラーダの神殿を築き、国教に指定すること。


 数年後に生まれる娘と王太子を結婚させ、王妃にすること、などなど。

 生まれてくるその娘は女神に認められた聖女だとも、大神官は語った。

 そしてカトリーナが生まれ、三歳年下の王太子ルディが生まれて二人は許嫁となった。

 ここまでは良かった。


「婚約を破棄することが認められるかどうかは、女神様が決められることでしょうから」


 と、カトリーナはそう言い添えた。

 この世に対価のない幸せなんてものは存在しない。


 それまで信じられていた宗教の代わりに国教に指定されると、女神は冬の寒さに耐えれるような結界をこの国に張り巡らせた。

 イスタシアは女神の力の恩恵を受け、温暖な気候に恵まれ水害から解放され農作物の育ちやすい豊かな土地へと変化していった。

 今では過去の衰退は嘘のように繫栄している。

 これもすべて女神様の結界のおかげだった。


「いきなりそれを受け入れることは、大神官様と国王様の約束を聖女が勝手に破棄することになります。自分の勝手な判断でこの国の民を路頭に迷わすことはできません。結界がもし崩壊すれば、悲しむのは国民です」


 女神の結界を張る代わりに、聖女はその命を徐々に削られていく。

 しかし、その寿命は短く潰えるということはなくどちらかといえば平均年齢の50歳を大きく上回るまで生きるだろうとも言われていた。

 いってみればこの国が富み栄える代わりに、王妃は健康を犠牲として差し出すことで結界は維持される。

 そんなシステムだった。

 しかし王太子はそんなことはどうでもいいと首を振ってさらに呆れたような顔をする。


「女神様なんてこの世にいないよ」

「は……?」


 唐突すぎるその返事にカトリーナの目は点になる。

 と、同時に例え婚約者であっても自分の信じる神を侮辱することは許さないと、憮然とした顔をしてみせた。


「君は面白い女性だ。いつもそう思うが、古い考えに縛られていて今の新しい現実についていけてない。女神なんてものはいない。この国に張られた結界は神なんてものを必要としていない。ただ君が苦しむだけのそれだけのシステムでしかないんだ」

「いえ、貴方。何を言われているの……?」


 カトリーナは一瞬だけ婚約者の頭の中身を心配してしまった。

 今は冬の季節で結界のおかげで暖かくなってるとはいえ、雪もちらほら降るし、凍結だってする。

 王宮のどこかで廊下を歩く際に凍った何かを踏みつけて転倒し、頭を打ったのかもしれないと危惧した。


 もしそうなら、彼のことを責めるどころか早く治療しなければならない。

 女神から与えられている聖女の力で回復魔法をかけることは、たやすいことだった。

 もし自分の心配が正しくて、怪我か何かで一時的に彼の頭の中が混乱しているのだとしたら、それは責められない。

 早く治療して元の彼に戻ってもらわないと、王国の先行きも不安になる。

 そう思ったのだが……。


「僕はこう見えても十五歳だ。宮廷魔導師から魔法の何かを教わることも多い。世界には神結界に守られて成功を手にする国がそれなりにあると聞いた。実際に調べてみたんだ」

「はあ、それでどうだったのですか」


 どうやら自分の危惧は全く必要がなかったらしい。

 王太子ルディはいたって健康そうにペラペラと女神が存在しない証明を語り始めた。

 正直そんなことはどうでも良かったし、信仰は人それぞれで国そのものが認めているのだから、聖女としては否定はできないけれど、本心は女神様はいてもいなくてもどちらでもよかった。

 信仰を押し付けることはできないし、無理強いするようならそれは争いにも発展する。


 そんなことをするのは愚か者のすることだと考えていた。

 大事なのは信じる心それだけなのだから。


「簡単だよ。国の周りには確かに結界が張られている。しかしそれはどこかの誰かによる力かもしれない。そう考えたら女神がいるかどうかもどうでもよくなった。その誰かを探し出して、継続させればいい。聖女なんて必要ない。その誰かがどこにいるかはもう分かっている」

「まさかとは思いますけど、私の父親がそうしているとか考えていらっしゃいませんよね?」

「そのまさかを考えているが?」

「……」


 これはちょっと面倒な展開になってきたとカトリーナは考え始めていた。

 背筋をいやな汗が滑り落ていくのを感じながら、いくつかのこれからを思案してみる。

 しかし、そのどれもがいい方向にはまとまらない。

 そうこうするうちに、彼はさっさと承諾しないカトリーナに苛立ちを感じ始めているように見えた。


 幼い頃から王太子ルディはこう決めつけたらなかなかそれを譲らない性格だ。

 間違っていても正しいように変えてしまう。

 それも王族の権力で。


 どこまでもわがままで自分勝手で恐れることを知らない愚かな男。

 それが彼の本性。

 そしてなんとなく、この考えは彼自身のものではないようだ気がしてきた。

 嫌な予感がして、尋ねるのも嫌だけれど真相を確かめなければと思いその事を口にしてみる。


「殿下? その考えに至ったのはお一人でなさったのですか?」

「一人で? いいや、宮廷魔導師のフレンヌと一緒に考えたが。それがどうかしたか?」

「ああ……いいえ、何でもありません」


 嫌な予感は的中した。

 恐れていた名前が出てきてしまった。

 カトリーナは唖然として続く言葉を出せなくなっていた。


「フレンヌは良い女性だ。賢いし、健康で、魔法の道にも長けている。美しく、僕を常に一番に考えることのできる、模範的な淑女でもある。僕が言いたいことの意味が分かるか?」

「つまるところ、フレンヌと。あの幼馴染と結婚したいということですね」

「どうした? なぜそんな悲しそうな顔するんだ、生まれた時から僕ら三人は幼馴染だったじゃないか」


 横になって立ち上がれないまま、その顔が暗く曇ってしまったカトリーナを見て、全く理解ができないとルディは心配する素振りする見せなかった。

 せめて大丈夫か、どこか悪いのか、気分が悪いのなら医者を呼ぼうか?

 それぐらいの気配りはできないのかと、カトリーナはこのままうつむいて泣いてしまいたいくらいだった。

 幼馴染がどうとか仲が良かったとかそんなことしか考えつかない彼が情けなかった。

 今すべき話題はそれではないのに。


「何でもありません、殿下。私が申し上げられることは婚約を破棄するにしても、王妃の座をあのフレンヌに譲るとしても、私の一存では何もできないということです」

「それはつまり、大神官の許可があれば従うということか?」

「お父様がそれを願うなら。女神様の神託が降りるのであれば、私に拒否権はありません」

「なら話は早い。大神官は昨日付で罷免した」

「……は? 何も冗談を言われているのですか……」

「冗談じゃない。神官長だったエイブスを新しく任命した。君の父親は今頃、国の外に出ているだろうな。まあもちろん、無理やりとはしていない。本人がそうしたいと言ったからそうしたまでだ」


 めちゃくちゃだ。

 やっていることも言っていることも何もかもがめちゃくちゃだ。

 そんなことをしたら一体誰がこの国を守るというのか。

 あまりにもバカバカしすぎて、笑いすらこみ上げてきてしまう。

 たった二十年で、その幸せを自分から。

 国の指導者たる王族がその手自ら、幸せを捨て去るなんて聞いたことがない。


「フレンヌは自分がいれば、結界は維持できると。そう言いましたか、もしかして……?」

「ああ、そう言った。だからお前を聖女から解放してやれる。どうだ? ありがたいことだろう?」

「そうですか。ありがたい、ね……フフフ」


 思わず失笑が漏れた。

 あのバカ女がそこまで己の魔法の才能に自惚れていたなんて。


「困りましたね。もう私に否定することはできないようです」

「そうだな。だからこれからは自由になってくれ。健康になりよその土地で素晴らしい夫を見つければいい。何もこの国に残ることはない」


 出て行け、か。

 それはそうよね。

 だって自分達は幸せになるために私を追い出そうとするのだから。

 出て行った方が命は安全かもしれない。

 カトリーナはふと、そんなことを考えてしまった。


「もし」


 と、震える声でカトリーナは可能性を模索する。


「もし私がいなくなった後に結界が崩壊してしまったどうなさるおつもりですか?」

「そのために、宮廷魔導師がいるのだろう? この二十年間、彼らは結界の仕組みを解明し、新たに構築する術を身につけている。何の問題もないよ。実際、この三ヶ月の間にある場所で実験をしてみたら、大成功だった」

 

 そっか。成功したんだ。

 それならもっと私が苦しむ理由も、悲しむ理由もなくなるじゃない。

 私は……この病に伏せる身から、自由になりたい。

 不本意にも聖女として国民のことを忘れ、自分のことだけを祈ってしまった。


 そのことを悟り、カトリーナは自分だけが良くなればそれでいいのか、と恥ずかしさで頬を赤くした。

 己の幸せだけを考えたことが浅ましかった。

 聖女なのに。

 その立場を一瞬でも忘れたことを猛省した。


「そういうことだ。早く出ていくといい……ジョゼフ殿は。君の父親は国境沿いのアルタの街で待つそうだ」

「出ていけって本当に言うのね。それがあなたの本心だってよく分かりました。殿下、幼馴染のフレンヌがそんなに大事なら、もう何もかも差し上げます。あなたとの恋愛ごっこはもう疲れました」

「恋愛ごっこというのか? 失礼なやつだ。お前のことを考えて行動してきたというのに」

「いいえ……もっとはっきり言うと、あなたには愛想が尽き果てました。もう二度とその顔見たくありません。出ていってください。私も出ていきますから」

「勝手にしろ!」


 その後どんなやり取りをしたかは、カトリーナは正直覚えていなかった。

 カトリーナもルディもそれまでの不満を出し尽くすかのように悪態をつき怒りを言葉にのせ憎しみを互いにぶつけ合ってそれから彼は部屋を出ていった。


 侍女たちと彼女を信じる神殿騎士たちに付き添われ、カトリーナが王宮を後にしたのはそれから間もなくだった。

 父親はこうなることを見越して、さっさと王国を見限ったのだろうとカトリーナにはなんとなく理解ができた。


「この後この国はどうなるのかしら」

「考えても仕方ないこともある。我々はこの国を去って新しいところでやり直そう。それが一番いい」


 アルタの街で合流した彼はそう言うと娘を連れて、二十年間住み慣れた国を後にした。

 聖女が去った後、イスタシアの国土は元通り荒廃したという。

 人心は新しい国王から離れてしまい、国を見捨てて脱出した人間も多いとカトリーナは聞いた。

 国王はルディから、親戚筋の大公の息子に代わったのだとか。


 女神様はイスタシアの国教から自分を外さない限り、結界は維持するお考えらしい。

 そう父親は言っていた。

 聖女の代わりに、フレンヌがその代理になって苦しんでいるというから、まあそういうことだったのだろう。

 愚かなバカが二人いて相応の罰を受けた。


 数年ぶりに自分の足で大地を踏みしめて歩ける歓びを噛み締めながら、カトリーナはそんなことを考えて、自分を小さくしかっていた。

 

 

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