第4想定 第9話
安針台公園を後にした俺たちは電車に揺られていた。
俺の隣には舞香。
そしてその反対側には高田が座り、さっき貰ったばかりの紙袋の中身を漁っている。
「ほら、宗太郎、見て」
高田は紙袋から興奮気味に帽子を取り出すとそれを頭にかぶって見せた。その帽子の額部分には『DD107 IKAZUCHI』とアーチ状に刺繍されている。
さらには代表的な艦型のイラストが印刷された下敷き。
行動中の護衛艦や航空機が印刷されたクリアファイルやブロマイド。
そして自衛官採用に関する複数のパンフレット。母ちゃんはきっとこれを渡すのが大きな目的だったんだろうな。
車内放送が流れた。
だるそうで適当な発音だ。
「次が下りる駅だよ」
取り巻きがそう教えてくれた。
おいおい、さっきので駅名を聞き取れたのかよ。
やがて電車の速度も落ちていき、ホームで停車するとチャイムと同時にドアが開いた。
俺たちはホームに降り立つ。
他の乗客は階段を上っていく。
しかし取り巻き立ちはその流れに乗ることなく、まるで次の電車を待つかのように黄色い線の前に立っている。
彼女たちに耳を傾けるとどこかで聞いた事のあるような会話をしていた。
それはここには書けない文章だ。パロディどころかパクりになってしまう。
「……言っておくが、そのシーンはアニメじゃなくて原作のエロゲだからな?」
「知ってるよ」
「18歳未満は遊んじゃいけないゲームだからな?」
「というかなんでエロゲって分かったのよ」
「そのエロゲをプレイしたことがあるからだ」
「宗太郎も18歳未満じゃん」
「俺はいいんだよ」
姉ちゃんのエロゲを借りてるだけだからな。
ふと気づくと舞香と高田が蔑むような眼で俺を見ていた。
「……おい、なんだよ」
「……このムッツリ」
「……ヘンタイ」
別にあのエロゲは変な作品じゃないからな。
そもそもあのエロゲは単純にエロを楽しむものではなく、主人公の人生のエンディングを楽しむものだからな。そこを間違えてはいけない。
だから俺を変態扱いするんじゃねぇ。
変態というのはヤンデレが出てくるものであればスカトロ系であろうとプレイするような奴の事を言うんだぞ。まぁ俺たちの原作者の事なんだけどな。
俺を軽蔑する舞香と高田。
助けを求めようと取り巻きたちに視線を送る。
「それ、普通にセクハラなんだけど」
「舞香ちゃん、もっとマトモな奴と付き合ったら?」
なんだとこいつら。
わざわざ聖地に来てまでエロゲのワンシーンの再現をしていた奴らとは思えない言い草だ。なんならそのシーンの続きを再現してやろうか?
はしゃぎまわる取り巻きたちと共に高田はホームを散策しに行った。
俺と舞香はその場に取り残される。
久しぶりの2人きりの時間。
そして修学旅行で初めての時間だった。
もちろん舞香は俺の腕に爪を立てている。
人間の皮膚は意外と強度があるものだけどそろそろ限界かもしれない。俺の腕はまだら模様に赤くなっていて、そろそろ本当に破れるかもしれない。
次のクリスマスに猫用の爪とぎでもプレゼントしようか。
いや、猫が爪とぎをするのは爪を鋭くするためのものだ。これ以上爪が鋭くなったら困る。舞香には他のものをプレゼントすることにしよう。
アニオタの取り巻きたちも気が済んだようだ。
駅構内の散策を終えた俺たちは彼女たちに引きつられるまま駅の外に出てきた。俺は聖地巡礼といった事をしたことはないけども、好きな人にとっては好きなのだろう。
彼女たちの熱意に感心していると携帯電話が着信を告げた。
こんな真っ昼間に電話を掛けてくるなんて誰だろうか。
アラームを鳴らしながら振動している携帯電話をポケットから引っ張り出すと、画面には見慣れた名前が表示されていた。
今は修学旅行中なんだぞ。
その事はちゃんと伝えていたし、申請書類も提出していたじゃないか。
「すまん、ちょっとトイレに行ってくる」
俺はそう断って自由行動の班から離れて駅の中に戻った。
彼女たちに宣言した通りにトイレの中に入ってみる。
都合が良かった。
「トイレの中に誰もいませんよ、っと」
俺は念のために個室に入って扉を閉める。
そして携帯電話のタッチパネルに表示されている応答ボタンを押した。
『宗太郎、ヤンデレ事件だ』
「……俺は修学旅行に来ているんだけど」
『休暇申請の書類は貰ってないぞ』
「俺はちゃんと提出したぞ!?」
『その話はあとだ』
ちくしょう。
書類はどこで止まっているんだ。
基地に帰ったら決裁を止めている奴をとっちめてやる。
『現在地はどこだ?』
「東京の西国分寺駅の前にいる」
『ちょうどいい。事件現場はその駅の構内だ』
俺はなんてツイていないんだ。
修学旅行中にヤンデレ事件の現場近くで自由行動をしていただなんて。
最も不運なタイミングで最も不運な場所に居合わせるだなんて。
ジョン・マクレーンもびっくりだ。
しかし近くでヤンデレ事件が発生しているのであれば見逃すわけにはいかない。
「東京のSSTは来るのか?」
『この事件は宮崎のほうで巻き取った。今回は宗太郎単独での対ヤンデレ鎮圧作戦だ』
「了解。単独のほうがやりやすい」
たしかに俺たちは特殊部隊だ。
初めて会う連中とは軽い打ち合わせだけである程度の作戦行動は可能だろう。しかし完璧な作戦行動は困難だ。想定していない味方の動作や想定されていない俺の動作によって部隊の連携に混乱が生じる。そしてその一瞬の混乱が部隊の損害、最悪の場合は作戦失敗に繋がってしまう。
下手に東京の部隊と合同作戦を実施するよりも俺単独で活動したほうが確実だし気も楽だ。
もっとも東京の部隊を展開させたほうが確実なんだけどな。
しかし管轄地域は違うとはいえ俺もSST隊員だから事情は察することができる。きっと東京のSSTも予算が少なくて隊員やヘリをポンポン動かすことができないのだろう。
『増援で警視庁。それと近くの愛情保安官が向かっている』
「機動隊か?」
『いや、一般隊員だ。戦闘能力は皆無に等しい』
武装は5発装填のリボルバーだけか。
専門訓練を受けていない一般隊員がその程度の武装でヤンデレと戦うには無理がある。せいぜい威嚇射撃に使用する程度だろう。
『彼女には警視庁と合同で民間人の避難誘導をしてもらう』
手にはいつものUSPが出現した。
予備弾倉をポケットにねじ込み、銃口のサプレッサーを取り外す。この状況下であれば隠密行動の必要性はないし、発砲音で周囲に異常を知らせることができる。
スライドを引っ張って手を放す。
いつも通りの軽快な音を立てながらスライドが前進して初弾が薬室に送り込まれた。念のためにスライドを少しだけ引いて弾丸が正常に送り込まれていることを確認する。いわゆるプレスチェックだ。
『俺が作戦全体の指揮を執る。現場の指揮は宗太郎が執れ』
「了解。これよりヤンデレ鎮圧作戦を開始する」
作戦の開始を宣言すると俺は駅構内へと向かって走り出した。
どうやら改札口前は問題がないようだ。
この西国分寺駅の改札口前は北口と南口に分かれる通路みたいなものだ。この場所から見通して騒ぎが起こっていないのであれば見落とすことはないだろう。
ヤンデレ事件が発生しているとすればホームのどこかだろう。
この状況下ではお行儀よく切符を買っている暇はない。
自動改札を飛び越えて強行突破する。
普段から武装障害走の訓練をしている俺にとって自動改札は障害物にはならなかった。
しかしここで問題が発生。
西国分寺駅って路線が上下に2つもあるのかよ。
宮崎の鉄道網を見習えよ。
駅なんて財光寺駅みたいな構造で十分なんだ。
俺は立ち止まって電光掲示板を見比べる。
いったい俺はどっちを選べばいいんだ。
背後から駅員が駆け寄ってくる。
それも当然。俺はダイナミックに自動改札を突破したのだから悪質な無賃乗車と勘違いされたのだろう。
まったく仕事熱心なやつだ。
殺すには惜しい。
弾薬ももったいない。
俺はその駅員の肘関節を外す程度にとどめておいた。
絶叫する駅員。
他の駅員たちは無賃乗車の取り押さえよりも同僚の救護を優先するだろう。しかも脱臼なんて一般人には治せない。これで駅員の足止めは完璧だ。
さて、俺は上と下のどちらの路線に行けばいいんだ。
作戦行動においては数秒の遅れが作戦失敗につながる。
こうやって選択肢を選んでいる時間さえもどかしい。
確率は半分。
しかし外れを引いてしまっては時間を大きく失ってしまう。数秒どころの話ではない。頑張っても十数秒は喪失してしまう。
いったいどっちを選べばいいんだ。
ふと俺の脳裏にアニメの映像が映った。
ゆらりゆらりと階段を下りてくる少女。
それはここ西国分寺駅が聖地となったエロゲのワンシーンだ。
階段を下りてくるということは下の路線に違いない。
しかしこの状況でそのワンシーンを信じてもいいのだろうか。
ヤンデレ事件が下の路線で発生しているという確証はない。
しかし不思議と俺はそれを信じていた。
この状況であの映像が脳裏をよぎったのは神様か何かのお告げだろう。
別に俺は神様なんてものを信じてはいない。
しかし不思議と何かに導かれているような気がした。
もしもこれで違っていたらその神様とやらをぶっ殺してやる。
駅構内に電車の通過を知らせる放送が流れる。
これはまずい。
もしもヤンデレが人を電車に突き落として轢殺するつもり、もしくは飛び込もうとしているのであればこれから通過する電車ほど都合のよいものはない。
俺は電光掲示板で電車が通過するホームを確認すると他の利用客をかき分けて目的の場所へと掛けていく。
階段を下りホームに到達すると、そこも人でごった返していた。
これだから東京は嫌なんだよ。
しかし状況は一刻を争っている。乗客たちをかき分けている暇はない。
俺は黄色い点字ブロックの外側の空間を突っ走る。
通常時なら危険な行為だが、危険ではない作戦現場なんてないのだ。
俺のバランス感覚であれば足を踏み外すことはない。
この危険な状況下で自分を信じて走っていく。
「!」
体に重い衝撃。
ホームを走ってきた他の乗客と衝突してしまった。
いくら俺のバランス感覚でもその衝撃には耐えることができず、俺は線路へと落下してしまった。
鳴り響く警笛。
その方向を見ると電車が勢いよく突っ込んできていた。
やべぇ!
俺は線路からの脱出を試みる。
しかし間に合わない。
運転士の青ざめた表情がよく見える。
グモッチュイーン。
【SOTARO IS DEAD】
『宗太郎の死亡を確認。残りライフ2つ』
姪乃浜が呆れたように宣告する。
『まさかとは思ったが……』
「危険じゃない現場なんてねぇよ」
俺たちは危険に晒されることを覚悟して現場に出動している。
そしてその危険な状況を乗り越えるために俺たちは毎日地獄のような訓練を積んでいる。
『その気持ちは分かるが、ヤンデレに接触する前に死亡してどうするんだ』
それはさすがに俺だってもったいない事をしたと思っている。
せめて死亡するならばヤンデレと戦って死亡したかった。なんだよ現場に急行している最中に線路に転落して電車にはねられるなんて。ライフが3つもあるから平気なんて言わないけど、記録に残るのだからそんなマヌケな事は御免だ。
『今回の作戦での主力部隊は宗太郎ただひとりだ。応援に地元の愛情保安官や警視庁が向かっているが戦闘能力は宗太郎には到底及ばない』
それも当然だ。
投入される任務も訓練内容も俺と連中じゃ全く違う。
俺の階級は愛情保安庁でも最も低い三等愛情保安士だ。秘密組織ではない公の機関で言うと巡査や二等陸士といった下っ端と階級は同じ。
今回の作戦全体の指揮は姪乃浜が執る。そして現場での指揮は姪乃浜の直属の部下である俺が執らなければならない。そもそもヤンデレ鎮圧作戦なんて俺たちの専門分野だしな。
『ホームは人で溢れかえっている。転落事故に会わないように慎重に移動しろ』
【CONTINUE】
生き返った俺は階段を駆け下りてホームをかき分ける。
走ってくる他の客に注意しながらひたすら人混みを進んでいく。
「邪魔だどけ!」
「!?」
どこからか怒鳴り声が聞こえてきた。
ヤンデレが暴れているのだろうか。
俺は周囲を警戒する。
「そこのお前だよ!」
その怒鳴っていたのは三脚にカメラを乗せた人物だった。
いわゆる鉄道ファン。
さらに言うならば撮り鉄。
彼は俺の存在が気に食わない様子だ。
「サメが見えねぇだろ!」
カメラを構えた鉄道ファンが再び叫んだ。
太いタラコのような唇。
のっぺりとしたカエルのような顔面に青々としたヒゲ。
彼の荷物から察するに今日の撮影に相当な準備をしたのだろう。
俺は詳しくないが電車にはさまざまな形式がある。EF66やキハ40という暗号名のような物から、東急5000系や日比谷線3000系といったような路線名を冠した物までさまざまだ。といってもこれらは名前をどこかで聞いたことがあるだけで、それらがどんな列車なのかは分からないけどな。
とにかく彼は今日のワンショットに全力を捧げてきたはずだ。
彼の努力に敬意を表して左手でも掲げてやろうか。
しかし残念なことに今の俺は自転車に乗っていないしニューヨーク出身でもない。
サメだかマッコウクジラだか知らんが、野次馬の存在が任務に支障が出るならば排除するだけだ。
「すっこんでろ! 青ガエルのタラコ野郎!」
その代わりに俺は走りながら奴らに2発の銃弾をプレゼントしてやった。銃口から飛び出した2発の弾丸は俺に怒鳴りつけてきた男の左右の下肢に着弾した。
自分に何が起こったのか分からなかったのだろう。
しかし奴は弾丸によって骨を粉砕されて立ち続けることができなくなった。高価そうなカメラを乗せた三脚を道連れにその場に倒れ込んだ。
ようやく状況を把握できたのだろうか。
男は電車の轟音にも負けないような声量で叫ぶ。
「痛いよー!」
撃たれたくらいでメソメソ泣くんじゃねぇ!
電車にひかれるよりもマシだろ!
「出血している場所を直接押さえとけ!」
仲間と思われる撮り鉄にそう指示を飛ばして俺はヤンデレの元に走っていく。
止血法には負傷部位よりも心臓に近い場所を布で縛り上げる方法がある。しかし素人がやっても完全に縛り上げることができずに出血を止めることができない。素人が応急処置をするのであれば出血部位を直接押さえつけたほうがまだ効果がある。
それに俺は太い血管を外して射撃した。
応急処置が中途半端だとしても簡単には死亡しないはずだ。
本来の戦場では敵のひとりに致命傷を負わせて救護に出てきた敵兵を殺害するという戦術がある。しかしいまの状況では致命傷を与える必要はない。威嚇や見せしめという意味では目的を達成している。それに致命傷では周りが混乱して何をするか分からないが、軽傷であればそいつの救護に当たる心理的な負担も少ないはずだ。
雑踏に紛れて発砲音が聞こえた。
間違えるはずがない。
さっきの発砲音は38口径のスペシャル弾。
愛情保安庁の一般隊員、もしくは警察が装備している拳銃で使用されている弾薬だ。
そしてさっきの発砲は愛情保安官によるものだろう。警視庁や警察であれば発砲に至るまでに多くの手順があるが、愛情保安庁ならば比較的すぐに発砲することが多い。
俺は発砲地点に向かって移動を開始した。
その直後に再び発砲音が聞こえてきた。
だいたいの方角としては同じホームの反対側だろう。もしもホームが違っていたら危険を冒してでも線路を横断するしかない。さっき使用された拳銃はリロードに時間がかかるリボルバー拳銃。そして装弾数5発のうち2発は消費してしまった。わざわざ丁寧に階段を使って駆けつけている余裕はない。
人をかき分けて進んでいるうちにさらに2つの発砲音。
おいおい。
もう4発目だぞ。
ヤンデレ鎮圧作戦の専門訓練を受けていない一般隊員とはいえ発砲頻度が高すぎる。
隊員の練度が低いのか、それとも頻繁に発砲しなければならないほどにヤンデレが強敵なのだろうか。
応援で出動した隊員の残弾はあと1発。
これまでの発砲間隔と発砲地点からして俺が到達するまえに残弾がなくなってしまうだろう。ヤンデレがどのくらい銃器について知識を持っているか分からないが、一般的にリボルバー拳銃は6発装填の機種が有名だ。交戦中の隊員が最後の発砲をしたあとに架空の6発目が撃てるとハッタリを効かせられるだろうか。
無駄弾は撃ちたくないが仕方ない。
俺は上空に向けて数発の弾丸を放った。
周囲の乗客たちは何が起こったか分からなかった様子だった。しかしすぐ近くにいた乗客が叫んだ。普段は見るはずもない拳銃がすぐ近くにあり、その拳銃がたった先ほど乱射されたのだから。
あたり一面が大パニック。
しかし通り道ができたことはありがたい。
とうとう最後の発砲音が聞こえた。
もう応援要員の残弾はない。あとは上手くハッタリを効かせてくれと願うばかりだった。
しかし心配する必要はなくなった。俺の通り道ができたことで効率的に前進でき、そしてとうとうヤンデレへの射線が通った。つまり障害物もなくヤンデレに対して射撃することができるようになったのだ。
「姪乃浜、これよりヤンデレに接触する」
『了解。鎮圧を開始せよ』
応援で送り込まれた愛情保安官は女子隊員だった。
彼女へ襲い掛かろうとするヤンデレ。
俺は走りながらも確実にヤンデレへと射撃を加える。
交戦現場へと到着した俺は拳銃をヤンデレに指向したまま、2人の間に割って入り、腰を使って女子隊員を後退させる。そしてその場に横たわっていた男性を足で揺すってみた。しかしその男性は曲がってはいけない方向に曲がった頭部を不気味に揺らすだけで自発的に動くことはなかった。
「姪乃浜、ヤンデレと接触した」
『了解。状況を報告せよ』
「ヤンデレは女性。中学生または高校生と思われる。現場には死者が発生している」
『了解。死者の詳細を送れ』
「死者1名。男性。50代と思われる。頸椎を損傷している」
『了解。ヤンデレの鎮圧を開始せよ。おわり』
無線交信を終えた俺は応援として出動していた一般隊員に問いかける。
「怪我はないか? 俺は宮崎SSTの上岡宗太郎だ」
「ありがとう、私は横須賀所属の稲田つづみ」
横須賀であればここは管轄ではないはずだ。
きっと俺みたいに近くにいたから臨場させられたのだろう。
まったく俺たちはツイていない。
俺に至っては休暇申請を出していたのに呼び出されたんだからな。
「そうか、へロディアの娘は元気か?」
「……え?」
突然の質問に面を食らった様子だ。
俺はもう一度、質問の意図を分からせるようにゆっくりと質問した。
「へロディアの娘は元気か?」
「あ……胃カメラに腫瘍が映ってた」
「そいつはだいさんじだな」
よし、認証完了だ。
味方に見えても実は拳銃を凶器としたヤンデレだったということもある。
同じ管轄地域で顔なじみの隊員同士であれば必要はないが、完全に初対面の場合は念のために合言葉で仲間であることの確認をすることになっているのだ。
しかしすぐに対応する合言葉を返せなかったということを見ると入隊してから期間がそんなに経っていないのだろうか。
しかし新人だからといって現場に出さないわけにはいかない。現場を経験しなければいつまでも新人のままだ。俺は入隊して半年も経っていないが俺のほうが先輩だろう。仮にこいつのほうが経験は長くても練度や戦闘能力は明らかに俺の方が高い。今回のヤンデレ鎮圧任務は単独作戦でありながら、この新人の援護もしなければならないのか。
「今の状況は?」
稲田つづみに質問する。
俺が到着する前になにかやり取りがあったかもしれない。
状況を問いかけている最中にもヤンデレが掴みかかってきた。それを俺はいつもの流れで関節技を決めてアスファルトの上に引き倒す。
「私もついさっき来たばかりだから分からない」
「了解」
ということは到着してすぐ発砲したのだろうか。
俺は張り倒したヤンデレを引き起こす。
別に俺はヤンデレを逮捕しにきたわけではない。ヤンデレから事情を聞き出して鎮圧しなければならないのだ。地面に張り倒したまま質問しても答えてはくれないだろう。
ヤンデレを引き起こすと俺は適切な距離を取ってUSPを突きつけ、視線を逸らすことなく稲田つづみへと指示を出した。
「こいつは俺が相手をする。アンタは民間人の避難誘導をやってくれ」
「了解」
「残弾の確認を忘れるなよ」
「……え?」
稲田つづみは疑問の声を出したが、すぐにその意味を理解したようだ。
まったくこいつは危なっかしい。
俺は念押しとして言っただけだが、どうやら彼女はすっかり失念していたようだ。
残弾の把握ミスは命取りとなる。ましてや彼女の兵装はただでさえ装弾数が少ないリボルバー拳銃だ。
交戦中に弾切れに気付いたとしても状況によっては格闘戦に切り替えることができる。しかし彼女の仕草を見るにヤンデレとまともに組み合えるような練度には達していないだろう。
俺と稲田つづみの会話に隙を見つけたのだろう。
拳銃を指向されているにも関わらずヤンデレは距離を詰めてハイキックを仕掛けてきた。
しかしそれは十分に想定済みだ。
発砲するまでもない。
ヤンデレが放った蹴りを腕で防御。
その脚を巻き取って自由を奪い取る。
姿勢の制御を失った人間を張り倒すのは簡単な事だ。俺は再びヤンデレを地面に組み伏せると名前を問う。しかしヤンデレは名乗ることはなかった。仕方がない。できればやりたくはなかったが俺はヤンデレの全てのポケットを確認し、彼女の胸ポケットから生徒手帳を発見した。
「財光寺鷹音……空手部か」
贅沢な名前だ。
任務遂行のための情報を手に入れた俺はヤンデレの拘束を解いて引き起こすと、彼女の胸へと生徒手帳を放り投げた。身分証以外のページを確認してみたが、単調でしょうもない校則がうだうだと書き連ねてあるだけだ。
しかし空手部か。
任務が始まってこれまでにヤンデレは凶器を出現させていない。彼女からの攻撃といえばさっきのハイキックぐらいだ。他の可能性を排除するわけではないが彼女の身体自体が凶器というパターンだろうか。
さて、ここからどのように切り崩していこうか。
入手している情報は彼女の本名。
東京の地名は分からないが、都内の私立中学校の3年生。
そして空手部に所属しているという事だけだ。
とりあえず現場の状況から整理していこう。
現場での死者はここに転がっている男性だけ。
「ここで死んでいる男性は知り合いか?」
「そんなやつ知らない!」
SSTが出動するようなヤンデレ事件の犠牲者数にしてはかなり少ないほうだ。
稲田つづみが拳銃を乱射してヤンデレを牽制した効果もあるかもしれない。
しかし出動指令から現場到着までには時間がかかる。
そのタイムラグにおいて死者が1名だけとなるとヤンデレは周囲の人間を無差別に殺傷したのではなく意図してこの男性だけを殺害したのだろう。
しかしヤンデレはこの男性との面識を否定している。何かに腹を立てて通り魔的に殺傷したのであれば犠牲者が1名だけというのは腑に落ちない。
「それじゃあ、私は行くところがあるから」
「だめだ。まだ話は終わっていない」
ヤンデレは現場から立ち去ろうと動き出す。
その進路を妨害するように俺は彼女の前に立ちふさがった。
まだヤンデレ事案は解決していない。
それに俺の後ろの階段を上ったさきには規制線が張られていて、野次馬根性丸出しで集まった民間人でごった返しているだろう。そんな場所にヤンデレが出現してはさらに犠牲者が増えることは火を見るよりも明らかだ。
「邪魔をするなら倒す!」
「いいだろう。来い!」
正面に対峙した俺とヤンデレ。
USPを手にしたままファイティングポーズを取り格闘戦に備える。
俺たちはお互いに相手の出方をうかがった。
殺意に満ちているヤンデレの瞳にわずかな戸惑いが浮かんだ。
それも当然だろう。
彼女は空手という格闘技を嗜んでいる。
しかし俺が使っているのは格闘『技』ではなく格闘『術』だ。
スポーツである格闘技とは根本的に異なる。
キンタマを潰そうが眼球をくり抜こうが、そして相手を殺害しても反則ではない。格闘術においては生き残った者が勝者なのだ。
まぁさすがにこの状況でそこまでの事はしないけどな。
ヤンデレは殺意に燃えながらも戸惑っている。
これまでの空手経験の中で相手にしたのは同じ空手を学んでいる人間だけだったはずだ。
しかしこの現場で対峙しているのは空手使いではない俺だ。
俺とヤンデレではファイティングポーズが異なる。俺がどのような攻撃を仕掛けてくるか予想できずに様子見をしているのだろう。
………………。
俺は胸の前で構えていた腕をだらりと降ろした。
ヤンデレが攻撃の動作に入る。
かかった!
正拳突きを繰り出すヤンデレ。
予想通りの攻撃だ。
俺は彼女の拳を捌く。
そして腕を巻き取りながら彼女の顔面を掴み、脚を蹴って地面に倒した。
「キレのある良い正拳突きだ。しかし事前動作が大きすぎる。どのような攻撃が来るかバレバレだ」
職業病だろうか。
俺はこいつの監督でもなければコーチでもない。
しかし土俵は異なるとはいえ専門家としてどうしても指摘したかった。
それに俺の任務はヤンデレを張り倒すことではない。最終的にはヤンデレを落ち着かせてこの事件を鎮圧することだ。
この何気ない話からさらに会話を発展させて、彼女がヤンデレ化した手掛かりが掴めるかもしれない。
さて、ここからどのように話を展開させようか。
そのように考えていると無線が入った。
『稲田から宗太郎! 民間人が規制線を突破した!』
嘘だろ。
何をやっているんだ。
「人数は!?」
『1人! 女子高生だった!』
「了解!」
しかし突破されたものは仕方ない。
作戦はすべて予定通りに進むことは少ない。
「宮崎SSTより臨場中の各員。警視庁職員は避難誘導を続行、現場封鎖を厳にせよ。稲田つづみは突破した一般人を追跡しろ」
俺が現場部隊に指示を出している間にヤンデレは立ち上がった。
もちろん俺は彼女から目を離してはいない。
さてどうしようか。
現場に民間人が乱入するとなるとさらに面倒なことになる。
俺の任務はヤンデレを鎮圧することだ。その任務の中に民間人の安全確保は含まれていない。つまり乱入した民間人が怪我をしようが死亡しようが俺は咎められることはない。そもそもその任務は応援として臨場している警視庁や一般隊員のものだ。
それにしても規制線を突破して現場に乱入しようとするなんて、おそらくヒーローになれると勘違いした厨二病のバカに違いない。
もちろん任務を妨害しようものならば敵対行動として排除する。手錠があれば無傷で拘束することができるが、残念なことに今は手錠どころかプラスチック製の簡易手錠も携行していない。殺害せずに無力化するとすれば致命傷にならない部位に射撃を加えるか、もしくはどこかの関節を外して放置するか。
特殊部隊の任務は綺麗ごとだけでは済まない。
いずれにせよ規制線を突破したのだから仕方のないことだ。
「そこを通して!」
「俺を倒すことができたら通してやる」
背後からドタドタと階段を下りてくる音が聞こえる。
きっと規制線を突破した民間人だろう。
さらにその後ろからは民間人に制止を促す稲田つづみの声。
「鷹音!」
階段を下りてきた民間人がヤンデレの名前を叫ぶ。
それと同時にヤンデレは再び正拳突きを繰り出してきた。
俺はその腕を左手ではじくとそのまま巻き取って自由を奪う。そのまま左手を彼女の後頭部に差し込み前のめりに地面に組み伏せる。肘の自由を奪われたヤンデレは俺の左腕から抜け出すことはできない。
「止まれ!」
左腕でヤンデレを拘束したまま右手で威嚇射撃を行う。
もちろん民間人に怪我はさせない。跳弾しても被害が出ない場所に向けて数発の弾丸を放った。
耳をつんざく銃声。
弾丸に抉られたコンクリートが弾け飛ぶ。
普通の人が銃声を聞く機会なんてほとんどない。
その非日常を目の当たりにして怯んだようだ。
足を止めた民間人を稲田つづみが確保した。
「アンタ、こいつと知り合いか?」
「その子は私の妹なの」
「……そいつを離してやれ」
最初は戸惑った稲田だったがその民間人をそっと解放した。
そして俺もヤンデレの拘束を解いて立ち上がらせる。
「お姉ちゃん……」
ヤンデレはそう呟いた。
「ねぇお姉ちゃん、あんな奴との結婚なんてやめようよ」
俺は乱入してきた民間人に視線で問いかける。
「私は財光寺絢乃。正真正銘、その子の姉よ」
「結婚するのか?」
絢乃と名乗った女性は首肯した。
「それはめでたい事だ」
女子高生で結婚か。
たしかに現在の法律では女性は16歳から結婚が可能だ。
俺の周りでは結婚している女子高生はいない。しかし法律で可能と定められている以上、その最低年齢で結婚するやつがいてもおかしくはない。
しかし16歳で結婚か。
明治時代の法律では女性の結婚は満15歳に達した時からと定められていた。それから時代が進み昭和時代から満16歳から結婚が可能となったのだ。もしかしたら未来ではさらに法律が変わって結婚ができる年齢が高くなるかもしれないな。
「どうせパパたちに強制されたんでしょ!」
ヤンデレが吠える。
たしかに女性は満16歳から結婚が可能だ。しかし未成年が婚姻する場合は両親の同意が必要とされている。こうやって結婚の話が出てくるということはその条件もクリアしているのだろう。
しかし気がかりなのは彼女たちの苗字だ。
彼女たちは『財光寺』という大層に御立派な苗字を持っている。これは俺の偏見に過ぎないがおそらくそれなりの名家の出身なのかもしれない。
それならばその年齢で結婚ということは不思議なことではない。家系の存続のためか、それとも家柄同士の付き合いのためか。彼女には彼女なりの思いがあるのだろう。
「鷹音、これは違うの」
「違うって何が違うの!?」
「これは私の意志で決めたことなの」
そう断言する絢乃の声はどこまでも透明だった。
自らの家系を恨んだものでなければ、自身の運命を諦めたものでもない。
今回の結婚を自身で決断したと宣言するかのように堂々としたものだった。
「どうせそれだってパパたちの――」
「なに勝手なこと言ってるの!」
稲田つづみが叫んだ。
「お姉さんにはお姉さんの人生が――」
「お前に何が分かる!」
ヤンデレが怒鳴って稲田つづみを突き飛ばす。
彼女はホームの外側へとよろめき、線路に転落しそうになった。
マズい!
ヤンデレの相手をしている場合じゃない!
俺は稲田つづみの手を掴むと、彼女をホームへと放り投げた。
しかしその反動で俺は線路へと転落してしまった。
駅構内に電車の警笛が鳴り響く。
稲田つづみの叫び声。
運転士の青ざめた表情がよく見える。
電車の運転士って同じ表情をするんだな。
グモッチュイーン。
【SOTARO IS DEAD】
『またお前か!』
いつもの形式ばった宣言ではない。
まるで鉄道ファンがニヤつきそうなセリフだ。
「稲田つづみを助けるためには他に選択肢はなかった」
『もう一度言うが、この作戦の主力は宗太郎だ。宗太郎が死亡したら稲田には対応できないぞ』
「部隊が違っていても彼女は仲間だ」
俺には仲間を見捨てることはできない。
まぁそれ以外にも理由はあるんだけどな。
『これを上にどうやって報告すればいいんだよ!』
無線越しに姪乃浜が頭を抱えているのが分かる。
ストレスを抱えているとハゲるぞ。
『ただでさえ宗太郎の死亡率の事で上から言われてるんだぞ』
「再現ビデオにして隊員教育に使えばいいんじゃないか?」
『愛情保安庁の離職率を高くしたいのか?』
俺たちが出動する現場は血が飛び散り死体が転がっている。
そんな再現ビデオで辞めるような奴なら現場に出さないほうがいい。パニックで動けなくなったら俺たちも困るし、なによりそいつ自身が死んでしまう。
俺たちの任務は綺麗ごとでは済まないのだ。
『まぁ、宗太郎が稲田を助けたいと思ったのは立派だしその気持ちも分かる』
なんだかんだ言いながら姪乃浜も同業者だな。
俺たちは仲間を見捨てない。
平気で仲間を見捨てるような奴には背中を預けられないのだ。
『今回はヤンデレを相手にしながら新入隊員の面倒も見らなければならない。2人分の仕事になるぞ』
「現場を経験しなければ新人はいつまで経っても新人のままだ。俺に任せろ」
【CONTINUE】
「お前に何が――」
ヤンデレが叫んでいるところに生き返った俺は彼女にとびかかった。
稲田つづみが突き飛ばされる前に俺はヤンデレを蹴り飛ばす。
不意打ちを受けたヤンデレはまともに防御することなく尻もちをついた。その直後、ホームを電車が通り過ぎる。
「他人の家庭を詮索するつもりはないが、その結婚は政略結婚か?」
「政略結婚?」
「家系を継ぐとかの理由があるんじゃないか?」
「え? 家系ってなに?」
「苗字を聞く限り、それなりの格式のある家柄に思うが?」
俺は真剣な表情で質問した。
しかし俺の質問の意図を理解した絢乃は笑って返した。
「ないない。だって私の苗字って『財光寺』だよ? そんなお寺なんて聞いた事ないし、どこのお寺だよって話よ」
「………………」
お前は日向市民を敵に回したぞ。
財光寺とは日向市にある寺の旧称だ。
さらに言うと俺が住んでいる地域の地名でもある。
まぁいい。
名誉日向市民である俺が許してやる。
その代わりに新婚旅行は日向市に来るといいだろう。
「……だそうだ」
俺はヤンデレに話を投げた。
ヤンデレが姉の結婚について「パパたちがどうのこうの」というものだから、そういう家柄だと勘違いしていた。
しかしこれが家柄によるものではないとすれば話は変わってくる。
絢乃が自ら説明する。
「鷹音、私は自分の意志で結婚するの」
「お姉ちゃん、私をひとりにしないでよ! お姉ちゃんがいないと何もできないの!」
おいおい、お前はもう中学生だろ。
どれだけシスコンを拗らせているんだ。
姉に執着するのはいい加減にしてそろそろ精神的に独立しろよな。
「ほら、小学生のときからお姉ちゃんが勉強を教えてくれたじゃない。テストの前だっていつも徹夜で教えてくれたじゃん」
ヤンデレが姉に縋りつく。
中学生とはいえまだまだ子供だな。
「私の取り柄って空手ぐらいしかないし……」
「他にもあるでしょう?」
泣きじゃくる妹を姉がなだめる。
絢乃の言う通りだ。
妹の魅力は他にもあるはずだ。
視認性が非常に高いとか。
「私にとってお姉ちゃんはヒーローだったの。勉強はいつも学年1位だし、お料理も洗濯も完璧だし、ピアノも弾けて茶道や生け花もできて、それにまだ高校生なのにプログラミングで企業して……」
「鷹音には鷹音にしかできないこともあるでしょう?」
「お姉ちゃんはいつも私を大事にしてくれたじゃん。これからも私と一緒に――」
「甘ったれるんじゃない!」
大人しそうだった絢乃が妹を一喝した。
それはこれまでの彼女とは思えない声色だった。
「……お姉ちゃんはそんな事言わない……お前は誰だ!」
再び狂暴化しそうだ。
俺は稲田つづみとアイコンタクト。
経験が浅いとはいえさすがに俺の意図が伝わったようだ。
俺たちは万が一の際に割って入るつもりで彼女たちの会話を見守る。
「お前は姉ちゃんの皮を被った別人だ! お前の中身は誰だ!」
「中の人などいない!」
再び絢乃が一喝。
まずいぞ。
今の状況でその発言は火に油を注ぐようなものだ。
俺の警戒状態はピークに達する。
しかし恐れていた事態には至らず、ヤンデレはただたじろいだだけだった。
「私は私よ。鷹音なら偽物じゃないって分かるでしょう?」
「……お姉ちゃん」
「結婚しても姉妹であることに変わりはないわ」
彼女の言う通りだ。
結婚したからといって姉妹であった事実が消えることはない。姉妹ではなくなることもない。結婚して苗字が変わっても過去と未来は変わらないのだ。
「それに結婚しても家を出て行くわけじゃないしね」
「え?」
「嫁入りするんじゃなくて、婿を貰うの」
「婿?」
「そう。だから私は結婚しても財光寺絢乃のまま。それに両親と同居する予定よ」
えぇ~!?
婿入りだったのか。
しかも義両親と同居。
俺は結婚したことがないから分からないが嫁入りにせよ婿入りにせよ、義両親と同居なんていろいろと気を使うものだろう。彼女の旦那になる人に餞別としてピストルを渡したい。ムカつくことがあれば義父のハゲ頭に弾丸を撃ち込むといいだろう。囲碁を打っている最中に強襲し、至近距離で発砲すれば初心者でも外すことはないはずだ。
「鷹音は私がヒーローって言っていたでしょ? でも私にとっても鷹音はヒーローなの」
「え? 私は何も……」
「気弱な私をいじめてくる男子をいつもボコボコにしてくれたでしょう。鷹音は空手しか取り柄がないって言っていたけどさ、その空手でいつも私を守ってくれたじゃん」
たしかにこのヤンデレならそのくらいの事はやりそうだ。
格闘技経験者が一般人を殴るなんて褒められて事ではないが、誰かを守るために武力を行使するのは賞賛されるべき事だ。
「これから結婚する私がいうのも変だけど、婚約者ってあまり頼りにならなさそうなのよね。腕相撲だっていつも私の圧勝だし」
苦笑いしながら絢乃がそう言った。
おいおい、そんな奴を旦那にして大丈夫か?
なんなら俺が預かって鍛えてやってもいいぞ?
「面倒事が増えるけど、これからも私を守ってくれる?」
「……これからも一緒?」
「そう、これからも一緒」
ヤンデレ鎮圧作戦を俺と稲田つづみは共に改札を出る。
「ねぇ宗太郎」
「なんだ?」
「どうしてあの時私を庇ったの?」
「庇った?」
「ほら、ヤンデレに突き飛ばされて線路に落ちかけたときに私を助けてくれたじゃん」
あぁ、あの事か。
「別に深い意味はない」
「へぇ~」
本当に深い意味はない。
というか無意識に動いていた。
稲田という彼女の苗字。
それは俺が中学の吹奏楽部でお世話になった先輩の苗字と一緒だ。宮崎県と神奈川県だから親戚ではないと思うが、無意識に先輩の事を思い出していた。
姪乃浜に聞かれたときは「仲間だから助けた」と説明した。
しかしそれは建前だったのかもしれない。
「……本当に深い意味はなかった」
「もう分かったから」
詮索しようとしていた稲田つづみの質問をはぐらかした。
お世話になった先輩と同じ苗字だったからなんて彼女にとってはどうでもいいことだ。
それに俺は任務中にも関わらずそのような事を考えてしまった。そして目の前の脅威を無視して仲間を助けた。
俺たち特殊部隊はある程度の犠牲は覚悟している。犠牲を払ってでも任務を成功させる。
彼女が仲間だから助けたというのは嘘ではない。
しかし俺は目の前の脅威を無視し、民間人がいる状況にも関わらず稲田つづみに手を差し伸ばしていた。結果として俺は電車に轢かれて死亡したから生き返ることができたが、もしも大怪我にとどまっていたら稲田つづみだけでヤンデレの相手をしなければならなかったかもしれない。もしその状況であったら任務は失敗していただろう。
任務に私情を持ち込むなんて特殊部隊員として最もやってはならない事だ。
「……ありがとう」
「気にすることじゃない」
「でも意外だったなぁ」
「何がだ?」
「SSTの隊員って戦闘マシーンってわけじゃないんだね」
「戦闘マシーンじゃなくて変人の集まりだ」
露出癖の筋肉バカ。
男のキンタマを躊躇せずに握ったり蹴ったりする双子。
しょうもない理由で顔面パンチする鬼軍曹。
宮崎のSSTでこれなのだから、きっと他のSSTにも変なやつがいるのだろう。
「へぇ~、なにかドライな人たちしかいないと思ってた」
「ドライなやつには特殊部隊は務まらねぇよ」
俺たちの任務に私情を持ち込むことは御法度だ。しかし平気で仲間を見捨てるような奴も特殊部隊には向いていない。そのバランスを取ることが特殊部隊にとって難しいところでもある。
駅を出た俺たちは共に歩いていく。
目の前には一緒に自由行動をしている舞香たち。
……やべぇ
「……ねぇ、宗太郎」
「………………」
「宗太郎ってトイレに行っていたんだよねぇ?」
「……あぁ」
これはまずい。
舞香の事をすっかり忘れていた。
「なんで女子と一緒に戻ってきたの?」
「………………」
「ずいぶんと仲が良さそうだけど?」
「………………」
「その女、ダレ?」
どう説明しよう。
愛情保安庁の同僚だなんて言えない。
国家機密だなんてどうでもいい。
下手をすれば俺は殺されてしまう。
「……説明してやってくれないか?」
俺は稲田つづみに仕事を放り投げた。
こいつは作戦中に規制線を民間人に突破されるという失態を晒した。結果としてはその民間人がきっかけでヤンデレ鎮圧に至ったが、民間人の侵入を許すなんて始末書モノだ。
その失敗をここで挽回してもらおう。
「え~? 私の命の恩人、的な?」
「………………」
嘘だろ?
こいつはバカなのか?
それとも仕事を増やしたいのか?
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