第三章 バルバリタ劇場、怪幕
第33話 【メルテル視点】サムライへの思い
修道院の薬草園──。
「メルテル。……メルテル!」
「ハ、ハイ」
マザー・ローザに声をかけられて我に返った。
「水溜りが出来ていますよ? そこにはもう撒かなくてよいのでは?」
「えっ? あ、あわわわ……っ!」
朝の水撒きをしていたのだけれど、気づけば足元が水浸しになっていて慌てた。
「どうしたのです? 最近ぼーっとしていることがありますね。顔も赤いですよ?」
「顔がっ!? そそそ、そうですか?」
思わず手で頬を隠す。その様子にマザー・ローザもそばで見ていたお姉様たちも笑った。
「古代龍の脅威が去って五日。やっと春らしくなってきましたからね」
「は、はい。そうですね」
「それにしても、今日は本当に暖かいですね、マザー」
お姉様が額の汗をぬぐって空を見上げる。ここ数日、みんな腕まくりをして畑仕事などをしていた。
「ええ、本当に。せっかくのポカポカ陽気ですし、今日はベッドのシーツも天日に干しましょうか」
「それは名案です、マザー。太陽の光をたくさん吸ったベッドで眠るのは心地いいですから」
「では、薬草園の手入れが終わったら皆でシーツを運び出しましょう。そうだ、忘れずに客室のシーツもね。ええと……、メルテル、客室を頼めますか?」
「はい、マザー」
薬草園での仕事を終え、わたしは離れへと向かった──。
最近ぼーっとしている。自覚していたのだけれど、それは春のせいではなかった。
ここの所、気がつけばずっとあの方のことを考えている。
あの方と最初に会ったのは、シエンナに近い森の中だった。馬車に乗せてくれたルデリーノさんに無理矢理、森の中に連れ込まれたのだ。
道側は馬車で隠されて見えず、誰か通っても助けは呼べなかった。そんな状況で押し倒されると、身体に跨られて胸元に手をかけられて……。恐怖に身を縮こまらせていた時に、森の中から現れたのがあの方だった。
光を吸い込むような漆黒の髪に力強いダークブラウンの瞳、切れ長の目……。
彼はわたしが知るエルーテ・ロンドの人間とも異なり、転生者でもあまり見ない顔立ちだった。
長い髪の毛を頭の後ろに紐で結わえ、
どこをとっても不思議な印象の人だった。
ソーガ・クロード……、わたしを助けてくれたのはそんな人。そして彼は、わたしが敬愛するティア様が命を犠牲にして転生させた人だった。
それを知った時はすごく動揺した。心が潰れたように締め付けられて……。わたしはまともにあの方の顔を見られなくなった。
『そなたも、俺が憎いか?』
そう訊かれて、「はい」と答えてしまった。あの方は正直だなと笑って頷いていたっけ……。
けれど、やっぱりこのままでは良くないと思いなおして、次の日の朝に謝ろうと思った。
あの方とわだかまりを残すのは嫌だったし、実際にクロード様は何も悪くないのだ。
──客室のシーツを抱えて、わたしは最後の一部屋の前に立った。ここは、あの日にクロード様がいた部屋。
そっと開ける。当たり前だけれど、今は誰もいない。
あの日の朝も、戸を何度かノックしたけれど返事がなかった。だから悪いなと思いつつ、少し扉を開けた。
クロード様は彼らしく背をまっすぐに伸ばしてベッドに座っていた。その姿を一目見て、わたしは息を呑んだ。時が止まったように感じられた。
窓は閉め切られて、部屋は薄暗く静寂に包まれていた。闇の中で、けれどクロード様のその姿は凛とした佇まいで、まるで偉大な聖人に似た何かを感じさせた。
聖都にて、わたしは多くの修道士や聖人の方々と会ってきた。その中には普段はあまりお会いできないようなとても高貴で、名だたる方々もいた。そんな方々と同じような空気を一瞬、クロード様に感じたのだ。
けれど、すぐに聖職者たちが纏う雰囲気とも違っていると分かった。
荘厳さや威光……。そんな華やかで堂々としたものとはまた別の、深閑とした佇まい。
その瞳は遠くを、普段は人が見ようとしない深淵の底を、ただ心静かに見つめているようだった。
彼がわたしに気づくまで、わたしは声をかけることもできずにその姿を見つめていた。
クロード様を思う時にまず思い出すのは、あの日の姿だ。言葉にするのは難しいけれど、もう少しだけ一緒にいたいなと思うようになった。
ティア様への崇敬の念が消えたわけではない。けれど、クロード様に対する憎しみは消え去っている。もしかしたら一生抱えなければならない気持ちだとも思っていたのに……。
それを自覚したのは五日前……。そんなわたしの一生が古代龍によって
古代龍を前にわたしは、わたしたちは命を落とす運命だったのかもしれない。それを救ってくれたのは、またあの方だった。
『大事ないか?』
そう声をかけられた時、泣きたくなるくらいに嬉しかった。
『メルテル殿。色々と世話になった。達者で』
そう言われた時、泣きたくなるくらいに悲しかった。
彼はでも、古代龍を前にして平然と笑っていた。
どうして何事もないように、笑っているのですか……?
わたしたちに向けた笑顔からゆっくりとイスドレイクへ向かい合うその顔は、あの日の朝に見たものと同じように思えた。
それを見て、わたしはぞくりと身震いした。
彼は死ぬ。もうこれでお別れなんだ。
そう自覚してしまった時、心が凍り付いたように声さえ出せなくなった。けれど叫びたかった。
嫌です! こんなところでお別れなんて、嫌……!
憎む相手にそんなことを思うはずがない。彼が今も生きていることが嬉しくて仕方ないんだから……。
あの日以来、クロード様とはお会できていないけれど、今度また会えたら、改めてありがとうと言おう。
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