第五話 広がる祟り

 小春の部屋。

 つまり隣を訪ねてみると、天井に染みが出来ていた。

 小さな染みだ。

 以前からあったもののようにも見えるが、彼女いわく、入居当日はなかったという。


「あと、夜になると音がするんだよ。うなるような音、布がこすれるような音。それから……赤ん坊の泣き声」

「想像したくないな」


 俺の部屋よりも、よほどろくでもない。

 一人でいるときに赤ん坊の夜泣よなきなんて聞こえたら、俺は失神してしまうかも知れない。


「あと、これ」


 言いながら、小春は上着の袖をまくった。


「なんだよ、それ……」

「ちょ」


 現れたものを見て、俺は咄嗟とっさに、彼女の細腕を掴んでしまう。

 小春の右腕。

 そこには。

 まるでなにものかに噛みつかれたようなあざが、浮かんでいたのだ。

 人? いや、もっと荒ぶるナニカの咬合痕こうごうこん

 なんて、なんて痛ましく……


「きりたん?」


 痛ましく――美味そうなんだ。


「えーっと……ちょっと、目が怖いんだけど……?」

「あ、ああ。すまん」


 慌てて手を離し、そっぽを向く。

 なにを考えているんだ俺は。

 いくらなんでも不謹慎すぎる。

 頭痛がして頭を押さえていると、彼女がしみじみとした言葉を吐き出した。


「でも、本当だったんだねぇ」

「なにが」

「おじちゃんの言ってたこと。この怪異は、感染するってやつ」

「…………」


 頭を意識的に切り替える。

 なるほど、確かにそうだろう。

 幽霊屋敷で起きていたこと。

 俺の部屋で起きたこと。

 そしていま、小春の部屋で起きたこと。

 実に嫌な連想ゲームは、俺に気づかなくてもいい知見ちけんを与えた。


「……小春、おまえ、楠木くすのきって女の先輩に、心当たりあるか」

「なんで知ってるの?」


 彼女は驚いたような顔で告げる。


「二十六人の七人ミサキ、木下ちゃんの友達って、そのひとだよ」

「おまえ……先輩を友達呼びするんじゃあない」

「だってー」


 様式美ようしきびを重要視したのは解るので、それ以上ふくれっ面の彼女を問い詰めはしなかった。

 だが、繋がった。

 こんなところでも、繋がってしまった。


 やはり、この恐ろしいなにかは、少しずつ感染を続けていたのだ。

 まるですそに付いたすすが、歩き回るたび畳へと落ちるように。

 紙の上に、一滴の赤いインクをたらすように。


 じわり、じわりと広がって――


「おまえは、平気なのか?」

「なにが?」

「これとか、赤ちゃんの泣き声とか。俺だったら、耐えられない」

「あー」


 彼女はなんとも言えない表情で口を開け。

 一度閉じて。

 ゆっくと、開く。


「きりたんは、怖がりだなぁ」

「…………」

「あたしは、少し嬉しいかもしれないね」

「そんなにオカルトが好きなのかよ。呆れるな」

「えっへっへ……ねえ、きりたん。怖い話って、忘れられないでしょう?」


 そうだ。

 だから、俺は子どもの頃からおまえが苦手で。


「うん。だからあたし、思ったんだ。怖い話を語って聞かせれば、恐ろしい目に遭うたびきりたんは、あたしのことを思い出すんじゃないかって」

「小春……」

「きりたん」


 彼女が。

 はにかむように笑って、言った。


「あたしのこと、いつまでも覚えていてね……?」


 小首を傾げたことで、彼女の全身を彩るアクセサリーが、キラキラと光って揺れた。



§§



 どうせ晩飯も一緒に食うのだからという理由で、俺たちは買い出しに出かけた。

 徒歩十五分ほどの距離にあるスーパーマーケットにである。


「小春、なにが食べたい」

「ステーキ! マッシュポテト! グレービーソースで! あと、帰りにDVD借りていきたいし、ポップコーンとコーラも!」

「太るぞおまえ」

「やぐらしかねー! 太らんもん! いまだって毎日稽古けいこしてるもん!」

「はいはい」


 なんて、他愛のない会話をしながら、適当に買い物をする。

 車があれば、業務用スーパーへ行くのだが、駐車場がないので俺は車を持っていない。

 同じ理由で小春も運転の用意がない。

 だから、少し割高でも、近場のスーパーに寄るしかないわけだ。


「車っていえばさ、永崎ながさきに来てからこの三年間、きりたんは観光とかした?」

「いや、ぜんぜん」


 バスに路面電車、タクシーと、選ばなければ足はあるけど、貧乏学生には金がない。

 先に言ったとおり車もないのでお手上げだ。

 そう答えると、小春は少しもじもじとして。


「もし、もしもだよ。あたしが遊びに連れていって言ったら、きりたんはどうする?」

「どうもこうも、いまは余裕がないから――いや」


 言いかけた言葉を飲み込む。

 ……思い出したからだ。

 幽霊屋敷の騒動でうやむやになっていたが、本当はあの日、俺はこいつと買い物へ出かけるはずだった。

 小春に似合う服を探して、そのあと飲み会をする予定だった。

 俺は、彼女との約束を既に破っている。

 なら、もう少しぐらいは誠実に向き合うべきだろう。


「――いいぜ。どこへなりとも付き合ってやるよ。プレゼントのひとつだって買ってやる」

「ほ、ほんと!?」


 目を丸くする小春。

 そんなに驚くことかよ。


「驚くよ。きりたんって、面倒くさがりというか、あんまり遊ぶのも好きじゃなさそうだし。バイトとゼミがなかったらズッと引きこもってるし」


 それはそうだが、言い方があるだろう言い方が。


「で、どこに行きたいんだ?」

「永崎にはハートの石があるって言うじゃん?」


 ……あれか。

 観光名所になっている場所の、石垣や石畳に、ハートの形をした石が埋まっているという都市伝説。

 しかし、事実として存在しているらしく、ネット上にはよく写真が上がっている。


「眼鏡の形をした橋を歩いたり、大社たいしゃにお参りしたり、稲作いなさく山で夜景を見たり。グラバー・トーマス園にも行きたいし、鴻上天主堂こうがみてんしゅどうへ足を運んで、ステンドグラスを観覧したい。しってる? 鴻上天主堂って、あんなに歴史在る建物なのに、中で結婚式とか出来るんだって」


 彼女は、とても。

 とても楽しそうに、これからの展望を口にする。

 まるで夢を語るように。

 こんな他愛のない時間を、大切だといってくれているように。

 気がつけば、俺の口元もわずかにほころんでいた。


「いいな。鴻上天主堂。俺も、いっぺん見てみたいと思ってた」

「でしょー!」


 我が意を得たりと何度も頷く小春。

 鴻上天主堂。

 百八十年近い歴史を持ち、国宝にして文化財。

 白い漆喰しっくいで覆われた白亜はくあの聖堂。

 過酷な運命にさいなまれた、二十六人の聖人をとむらう場所。

 いろいろと思うところがあって、以前から興味はあったのだ。

 だから……という言い訳をして。

 俺は、幼馴染みの言葉を、すべて了承することにした。


「このゴタゴタが終わったら、きっと一緒に行こう」

「うん。約束だよ、きりたん」


 ゆびきりをするような甲斐性はなく。

 彼女が突き出した拳に、こちらもコツリと拳を合わせて返答する。

 そうして、俺たちは買い物を終えて。


「いっぱい買ったねー」

「買いすぎだろ」


 互いに、両手一杯のビニル袋を下げて、帰途につく。

 何事もない日常。

 平穏で、かけがえのないぬくもりに満ちた日々。


 小春がやってきてから、張り詰めていた俺の神経は、随分と癒やされていた。

 腐れ縁だ、悪友だとののしったところで、彼女はやはり大切な、気の置けない幼馴染みで。

 だから、たぶん。


 俺は、油断していたのである。


 一応の紳士的マナーとして、俺は車道側を歩いていた。

 万が一の時、小春を守れるようにだ。

 けれど――


「きりたんッ!」


 切羽詰せっぱつまった幼馴染みの声。

 俺の身体が、衝撃を受けて後方へと倒れていく。


 スローモーションの視界と。

 悲鳴のようなブレーキの音を聞き取る聴覚。


 こちらへと手を伸ばす小春が。

 ――直後、突っ込んできたとトラックに吹き飛ばされた。


「え――?」


 ドサリと、尻餅をついて。

 呆然とする俺の目の前に、コロコロと転がってくるのは、小春が身につけている指輪の一つ。

 破れてしまったビニール袋。散乱する荷物。

 クラクションを鳴らし続ける横転した車。

 そして。

 そして倒れたまま動かない幼馴染みの――


「小春ぅうううう!!」


 悲鳴を上げて彼女へと駆け寄ったとき。

 俺は、確かに。


 確かに――遠くで、犬の遠吠えを聞いた。

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