人魚さんは人間の女を好むらしい

七戸寧子 / 栗饅頭

1

 目を開いても真っ暗だった。私は波の音に包まれていて、後頭部から踵にかけてじっとりと濡れた粒の感触があった。冷静に記憶のポケットをまさぐる。海水浴……というより美男美女ウォッチングを楽しんでいる最中に波にさらわれたのを最後に更新は途絶えていた。全く、私という女はちょっと退屈を晴らそうとしただけでこうなるのだ。


 重力に抗い、上体を起こしてみる。目の前に広がる黒い海。私は気絶しながら海を旅して、ここに流れ着いたのだと瞬時に悟る。


 生きててよかった。海水に足をすくわれた瞬間を思い出すだけで背筋が凍る。ほっと一息ついて身体を縦に伸ばした。砂や海水でザラザラのカピカピになった自慢の長髪を手ぐしでとかす。指に絡まり、引っ張られて、痛い。


 さて、ここはどこだろう。視界が真っ暗で何も分からない。左を見ても、真っ暗。右を見ても、真っ暗な中にガスマスクの人物。


「ハロー」


 ガスマスクの人物。私は思わず悲鳴をあげる。女の子らしい「きゃーっ!」という声は出ず、いつの間にか飲んでいた海水が喉奥から溢れてきてがぼがぼとえずく結果に終わった。


「キャン アイ アスク ユー サムシング?」


 ガスマスクの奥から聞こえる、くぐもったカタコト英語の方が余程女らしい声をしていた。綺麗な声だ。この異様な状況で、パニックになってもおかしくない私の意識を塗り替えられるくらいには美しい女声。


「お、おーけー」


 純日本人の私も、彼女(推定)に負けず劣らずのカタコト英語で返す。彼女は私と同じように下半身を前方に投げ出して座って、上体だけ起こしているらしかった。レインコートのようなものを着て、頭にはフードを被り、手袋をはめている。外見だけでは男が女かもわからない。


「アー ユー ヒューマン?」


「は?」


 思わず声が漏れた。正円の両目が私を睨んだ気がした。慌てて訂正する。


「い、いえす、あいむひゅーまん。おーけー?」


 まあいい、とでも言いたげに彼女は視線を手元に向ける。懐中電灯で何かを照らしてそれをまじまじと見つめる。


「……ニン シー チョンゴーレン マ?」


 ……なんだって? 急に知らない言葉で喋り始めた。答えられずにいると、彼女は見た目に似合わぬ可愛らしい動きで首を傾げた。そしてまた美しい声でカタコトを放つ。しかし、それは打って変わって聞きなれた響きだった。


「アナタ は ニホンジン ですか?」


 日本語が通じる。それだけのことが嬉しくて首を何回も縦に振った。彼女も首を縦に振って、手元の何かにメモを残す。手帳のようなものだろうか。


「Низаиза от ахонуи уотнох ин иерик енонан」


 え、え、え? 今度はなんて言ったの? およそ地球のものとは思えない言語が飛び出し、脳内を混乱が占める。それを見てか、彼女は口元を抑えるような動きを見せる。それが「あ、これ言っちゃダメなんだっけ」の動きなのか「くすくす、かわいい人」の動きなのか私にはわからなかった。


「……ヒトリゴト です」


 どうやらあの奇怪な発音の言葉が彼女の母国語らしい。日本語を喋れるならこちらとしてはなんでもいいのだが。


「ワタシ の コトバ わかります?」


「はい、お上手ですね」


「ニンゲン アイテ に つかった はじめて」


「ニンゲン相手、ですか」


 おかしなことを言う人だ。いや、そもそも人なのだろうか。私はガスマスクやレインコートの下の肌の色すら知らない。さっきの言葉の事もそうだ。そもそも、「Are you human?」という文を使う機会が世の中にどれくらいある?


「ええと、失礼ですが、あなたは……?」


「Одием-ам」


 その言葉じゃわからないよ。私の考えが伝わったのか、彼女はハッと肩を跳ねさせる。奇妙な感情ではあるが、それが可愛い。


「……みた ほうが はやい」


 彼女は懐中電灯で自分の脚の方を照らす。きらきらきら、とその光がスパンコールのように煌めく。細かい反射を作っているのは……鱗?


「ニホンゴ で いうと……」


 脚があるはずのその場所にあるのはなに? それはヒレ?


「ニンギョ です たしか」


 人魚。私は思わず悲鳴をあげる。女の子らしい「きゃーっ!」という声は出ず、いつの間にか飲んでいた海水が喉奥から溢れてきてがぼがぼとえずく結果に終わった。

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