第2話
夏が始まる。
蝉の産声が聞こえる。
お金を持たない子どもの僕たちは、タピオカ屋を冷やかしに行ったり、ショッピングモールで涼んだり、街を探索するくらいのことしか出来なかった。
裏路地にあるクラゲ専門店のペットショップは特に僕と紅葉のお気に入りだった。
ブゥゥゥンと機械音が店内に微かに響いている。
ネオン色に光りながら漂う海月は、居場所のない僕たちによく似ていた。
「私ね、今日の補講休んじゃった」
「いいんじゃない。無理して行かなくていいよ。僕は学校にすら行ってないし」
「私もしばらく保健室通い。やんなっちゃうわよね。女の子たちのキラキラって、本当はどろどろなのよ。ヘドロが常に溜まっていてね、あるとき一気に噴き出すの。誰かを膿に仕立て上げて、ポイって捨てるのが上手な子たちばかり。すると不思議なことに、まるで最初からいなかったみたいにされるの」
「ふぅん」
紅葉の言うことはいつも抽象的で、肝心な内容には触れないことが多かった。
彼女はいつも何かを諦めたような口調をしていて、そのくせ少しだけ何かを信じているみたいでもあった。
変なの。
僕は彼女の話に相槌を打ちながら、ぼぅっと海月を見ている時間が大好きだった。
彼女の呆れた淡白な物言いはとても好ましいものであったし、何より僕の世界に対する感性とよく似ていた。
周りが変わってくれると、優しくなってくれると、無駄に期待して、でもやっぱりそんな都合の良いことは起こらないんだって落ち込んで。
気が付いたら色んなものを一つずつ諦めていた。
苦しいと呼ばれる感情はずっと昔に隠してしまった。
自分の境遇を憐れむことが趣味で、特技で、僕と同じように可哀想な誰かはみんな仲間に思えた。
「僕はね。クラゲのことは海の月と書くと決めているんだ」
「へぇ、そうなの。……ね、他に違う書き方もあるの?」
「水の母って書かれることもある。だけど母さんとするにはちょっとだけ頼りないよね、クラゲはさ」
「確かに。ゆらゆら浮かんでいるだけだものね。何もしてくれなさそう。そこに居るだけで価値があるって思い込んでそうだし。面倒くさいわね。それより、あおはクラゲが好きなの?」
「僕はそこまで。兄さんが好きだったんだ。で、色んなことを教えてくれた。よく嘘を吐く人だから、何が本当だったのかは分からないけれど」
「チャーミングなお兄さんなのね」
「そうでもないよ」
僕の眉間に皺が寄ったことに気付いたのか、紅葉は慌てて謝罪してきた。
「あおくん、ごめんなさい。ちょっと深く踏み込んでしまったわね」
「いいよ、許してあげる。それにもう平気だから。過去はただの事実なだけだもんね」
紅葉の長い毛先が僕の頬を掠めた。
それはまるで慰められているかのようで、とても心地良かった。
「僕、紅葉のことはとても大切に想ってるからね」
ゆらゆら揺れる海月をぼんやりと視界に捉えながら、僕は紅葉の手を握った。
少しひんやりとして美しい指先だった。
「うっ、えっ……ひっく」
嗚咽しながら泣いてしまった彼女の前髪をぽんぽんと優しく叩いてやる。
背伸びしたふくらはぎが少し震えた。
僕たちの関係は夏が深まるに連れて、濃くなっていた。
「なんか、意外と積極的なのね」
「え?」
「いや、その。〜〜〜〜っ‼ なんでもないわ。それより、ほら。ちゃんと鑑賞しましょう?」
盛大に焦る彼女が世界で一番に好きだ。
良かった、僕のものになって。
「最近のあおは眼鏡をしていないのね」
しかし安堵したのも束の間の白昼夢だった。
ぽつりと、なんとはなしに紅葉がそう言った途端、僕の世界は崩壊した。
あまりにも呆気ない幕引きだった。
僕たちの関係はあくまでも脆弱な基盤の上に成立していたに過ぎないのだと痛感した。
「紅葉、僕は"あお"だよ?」
切なく顔を歪めて、嘆く僕を彼女は一蹴した。
「えぇ、知っているわ」
もう駄目だ。
只今をもち、幸福は終わりを告げた。
「そっかぁ。紅葉も同じなんだね」
「へ?」
「ううん。何でもないよ」
へらりと笑った僕の真意に彼女は気が付かないだろう。
それこそが何よりの大罪でもあった。
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