第45話
天才ハッカーとの出会いは、まるでSF映画でも見ているような経験であった。10年前の過去と50年後の未来をタイムスリップしたことが、このような変化をもたらしたのだろうか。天才ハッカーにしても、彼が話したホワイトハッカーのことにしてもとても信じられないようなことだ。ロボット犬に直に触れたことは、驚くべき経験だった。あのようなものが開発できるとは、ホワイトハッカーとは、何という存在なのだろうか。
テレビ番組を見るともう『私の街の風景』は別の街の内容になっていた。私は、アパートの部屋に戻るとすぐにテレビをつけた。ニュース番組が、テレビの画面に映し出された。」アメリカのデモの様子が、報道されていた。全米に広がっているデモは衰える様子がなかった。
テレビのニュースを見ながら、ふと思うことがあった。ホワイトハッカーと彼らが自分たちのことを言っているのは、不味くはないかと思った。ホワイトハッカーのホワイトを彼らは自分たちが良いハッカーであるという意味で使っている。ブラックハッカーは悪いハッカーで、ブラックを悪いという意味で使っている。これはブラックリストとホワイトリストという用語の使い方から来ているのだろうか。
“Black lives matter” のうねりの中で、このホワイトとブラックの使い方も問題になってしまうのだろうか。
この天才ハッカーの存在は、タイムスリップ以前は、その存在すら知らなかった。でも、もともとは存在していなかったのではないかと思ってしまう。もともと存在していなかった人がタイムスリップによって存在する。もしかしたら、時田も村岡も存在していなかったのに存在しているのかもしれない。それがタイムスリップという現象によって存在するようになったのかもしれない。そんなことまでも考えてしまう。タイムスリップによって、ある人の存在の有無に変化が起きてしまう。もしこのような現象が起こるとするなら、バタフライエフェクトどころではなくなってしまうのではないだろうか。こういうことを考えると、タイプスリップという現象は矛盾そのものではないだろうかと思ってしまう。
今、私が、2020年の世界に存在している。天才ハッカーは実際に存在している。時田も村岡ももちろん存在している。これが今私にとっての現実である。タイムスリップなど実際には起こってはいなかった。私が今までには経験したことのないような質の夢を見たのだ。これまでの常識から言ったら、とても夢とは言えないような夢である。夢でなかったら、タイムスリップのような現象が起きたことになってしまう。だが、タイムスリップのような現象が起こるはずはない。連鎖反応が爆発的に起きて世界がめちゃくちゃになってしまう。
タイムスリップのように思われた現象以前の私に関する状況と、私の現実の状況との違いはどういうことだろか?私の記憶に何らかの異変があったと思うしかない。37兆とも60兆とも言われる人間の細胞の一部である脳の細胞も、他の細胞と同じように、60億の DNA配列の情報を保持している。そして、他の細胞と同じDNA配列を保持している。初期化された状態の受精卵細胞から分裂する段階で、脳細胞であることのスイッチを入れられた。脳細胞が決定的に他の細胞と違うのは、脳細胞同士が、お互いに信号を送り合って、記憶という深遠な珠玉の作業を行っていることだ。私たちの記憶は、過去の無数の出来事を、分子レベルの精密で緻密な関連性によって、繋ぎ合せることによって、純白の太陽の光のように輝いている。
記憶システムは、時間と一心同体になっている。過去の出来事を基礎として、一つ一つの出来事を積み重ねながら、現在が存在している。おそらく私の記憶システムが何らかの機能障害を起こしてしまったのだろう。タイムスリップのように思われた現象以前の記憶が、現在の状態と関連性を持っていないのは、そのためかもしれない。私の記憶システムが、何らかの要因があって、障害をきたしてしまった。このことで私の抱く疑問が解決するのではないだろうか。しかし。それでも、どうしても一つだけ不可解なことが一つある。
私がコンビニの中に入って、窓際のカウンター席に座って、私が17歳の頃まで住んでいた家を観察していた時、家の玄関に近づいてきた女性だ。彼女は鍵を出して、玄関の扉を開けると、中に入っていった。私はコンビニを出て行き、玄関の前まで来た。玄関のチャイムのボタンを押したが何の反応もなかった。もう一度押したが何の反応もなかった。扉は中から鍵がかかっていなかった。扉を開けて声をかけたが、何の反応もなかった。家中見たが誰もいなかった。裏の扉は中から鍵がかかっていた。窓も全て鍵がかかっていた。このことだけが気がかりである。何か幻覚でも見たのであろうか。同じ幻覚を繰り返して見るものだろうか。
新型コロナウイルスは、日常の生活様式を根底から変えてしまった。今まで当たり前と思っていたことが、当たり前ではなくなってしまった。友達で集まって、雑談を楽しむ。ライブ会場で熱気の中、音楽のリズムに合わせて体を動かす。スタジアムでスポーツ観戦をしながら、声高々に応援する。
当たり前だと思っていた日常の生活が、当たり前ではなくなった。映画やテレビのフィクションの世界で見るような場面が、日常生活の平穏な景色を塗り替えてしまった。
一流の有名演奏家が、満席の会場で演奏をすることができなくなってしまった。舞台俳優が人気の作品を満席の劇場で演ずることができなくなってしまった。興行成績を塗り替えるような、大ヒット作の映画が、映画館の座席を全て埋め尽くすことができなくなってしまった。
10万分の1ミリくらいの極小の、細胞を持たない物体が、世界中の日常の風景を、根底から塗り替えてしまった。
10万分の1ミリくらいの大きさの極小の物体であっても、3万文字とも4万文字とも言われるほどのDNA配列を持っている。そのDNA配列の一部は、どのアミノ酸を使って、何のたんぱく質を作るのか、という情報をもとに増殖を繰り返す。そしてDNA配列のそれ以外の部分の情報。かつてはジャンクDNAと言われていた部分。もしかしたら、この部分に世界の日常風景を塗り替えてしまうような、老獪な情報が書かれているのではないかと思ってしまう。
新型コロナウイルスという極小の物体の中に、たんぱく質製造に関する情報以外の情報が書かれていて、その情報が、世界の日常生活の風景を塗り替えてしまうとするなら、私のような一個人の記憶の一部を、塗り替えてしまことなど、取るに足りないことなのかもしれないと思ってしまう。
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