第44話
三人でまた天才ハッカーのところへ行く日が来た。
天才ハッカーの屋敷を外から見た時と、中に入った時の落差があまりにも大きかった。前回来た時もそう感じたが、今回はなぜかその印象が強かった。
時田と村岡は、調べて欲しいこととそれに関するデータを書いた用紙を、天才ハッカーに渡した。天才ハッカーは二枚の用紙をブックスタンドに置いた。天才ハッカーはブックスタンドに置かれた用紙を見ながら、パソコンのキーボード上で指を動かした。
「この部屋のコンピューターやインターネット関係の設備にしても、家の設備にしてもすごいと思うけど、相当費用がかかったのだろうな。ホワイトハッカーの話はとても信じられないような話だけど、ホワイトハッカーサーバーがもしあるとすれば、とてつもない費用がかかるのだろうな」
天才ハッカーの素早い指の動きを、感心して眺めながら、村岡が言った。
「世界には一握りの超富裕層の人がいる。超富裕層というのは、少なくても数千億円の資産を保有している人たちだ。この家の設備もホワイトハッカーサーバーも超富裕層が出し合っている基金のようなものから出ている。ブラックハッカーが計画しているコンピュータウイルスを一番恐れているのは、超富裕層の人々だ。超富裕層の資産のかなりの部分が、今は、電子化されている。ブラックハッカーがウイルスのプログラミングに成功することができたら、金融資産のほとんどを失ってしまうのではいか、と超富裕層の人々は、恐れている。それで彼らは、資金を出し合って、ホワイトハッカー基金をつくった。基金に集められた資金は膨大な額だ。だから、ホワイトハッカーサーバーのような巨額の費用を要するシステムを立ち上げることができた」
「それでは、超富裕層は、ブラックハッカーのウイルスとホワイトハッカーサーバーの存在を信じているの?」
「それはわからない。おそらく彼らは、投資というよりも、保険の感覚でいるのだと思う」
「超富裕層は、保険に大金を払うことができるのか」
「数千億の資産だからね。我々の感覚とは違う」
「新型コロナウイルスで、経済活動が停滞しているよね。飲食店などは大変な状況だよね。映画館が休館している。ライブ会場もコンサートホールも閉館。超富裕層はどうなのだろうか」
「超富裕層は、小金持ちとは全然違う。小金持ちは、経営している会社や工場が傾いて、貯金を失ってしまう。ギャッンブルに夢中になって、全財産を失ってしまう。詐欺に騙されて、全財産を失ってしまう。保証人になって、全財産を失ってしまう。そのような次元では全くない。ローンなど無関係で購入した豪邸と一生贅沢を尽くしても使い切れない貯金がある。そのような安定した土台の上にいる。株券を多く所有しているが、ほとんどが優良株。彼らがリスクを負って購入している株は彼らの資産のほんの一部に過ぎない。だから新型コロナウイルスによる経済危機にあっても、彼らは安泰なのだろう」
少し間をおいて村岡が、話し始めた。
「全米各地で起きているデモが、衰えるどころか、勢いを増しているような気がするよね。ヨーロパ各地でもデモが起きているよね。言葉にして言っている人はいないけど、中には人種問題だけではなく、格差の問題にも不満を持っている人がいるのではないかなと思ってしまうよ。世界の資産のかなりの部分が、一握りの超富裕層の手中にある。今はスマホがある。SNSがある。知りたい情報が、一瞬のうちに世界中に広がってしまう。今この世界に、厳然と存在している富の格差。狭まっていくどころかますます広がっている。かつては中流階級と言われた人々は、下流老人に向かっていく自分の姿を、現実味をもって恐れながら見るようになっている」
時田が言った。
「ブラックハッカーの中には、超富裕層に反発している者もいるのかな?」
「明らかにいるだろな。初めからそういう目的で、ブラックハッカーになった者が少なからずいると思うよ。彼らは広がるばかりの超富裕層との間の格差が許せない。そう思っている者が多いと思う。自分たちにはどうすることもできないと、人生のほとんどをほぼ諦めて歩んできた彼らが、ブラックハッカーの存在を知った時、まずそう考えたのは自然の成り行きだろうな」
「ホワイトハッカーはどう思っているの。実際やっていることは、超富裕層を支えているとみられても仕方がないと思うけど」
「ホワイトハッカーはパラサイトかもしれない。でも魂まで売り渡していない。ブラックハッカーが、つくろうとしているウイルスは、驚嘆すべきものだと思うよ。彼らのプログラミンの能力は、並外れたものだと思うよ。でも、彼らには財力が限られている。そのため結局彼らが作ったものは、破壊しかもたらさない。でもホワイトハッカーには、信じられないほどの巨額の財力がある。そしてホワイトハッカーは、実質的に世界中のインターネットのインフラを、ハード面でもソフト面でも掌握している。危機的な状況は、ブラックハッカーのウイルス以外もありうる。まず、すぐ思いつくのが自然災害だ。地球温暖化で、予測不能の自然災害が増えつつある。地球的規模のネット障害を、引き起こす自然災害が発生するかもしれない。地球規模で、信じられない程強力な電磁波を、発生させるような自然災害とか。地球規模で停電が起こったらどうなるだろうか。世界中のサーバーはどうなってしまうだろうか。そういうことも想定してホワイトハッカーはシステムを構築している。だからどんなことが起ころうとも、地球が滅びるようなことがなければ、崩壊した世界中のサーバーを復元するだけの能力が、ホワイトハッカーサーバーにはある。ホワイハッカーの中にはブラックハッカーのように、超富裕層との間の格差に、憤りを感じている者もいると思う。でも、ホワイトハッカーは、インフラの壊滅的な崩壊を望んでいない。崩壊したインフラを復元させることに、使命感を持っている。インフラの崩壊という事態が生じて、超富裕層の電子化された金融資産が、ホワイトハッカーサーバーでしか復元できない事態になった時、ホワイトハッカーの超富裕層に対する優位な立場が生じることになるかもしれない。しかし、ホワイトサッカーは、その優位な立場を悪用しない。超富裕層と新たな契約を交わすことを考えている」
「新たな契約とはどういうものなの?」
村岡がすかさず聞いた。
「極めて単純なことなのだけど、超富裕層とはたとえどんなに贅沢しても使い切れない資産を保有している階層だが、使い切れないお金の半分を、下流老人へと向かっている中流階層と増えるばかりで減ることのない貧困者に分配することを契約させる」
「超富裕層はそのような契約に本当に署名するのだろうか」
「ブラックハッカーのウイルスによる金融資産の電子データのサーバーとバッックアップサーバーの崩壊の場合は、ブラックハッカーの出方次第だろうが、自然災害によるインフラ崩壊の時は間違いなくするでしょう」
パソコンデスクでキーボードを打ちながら、超富裕層とブラックハッカーとホワイトハッカーの説明をしていた天才ハッカーの足元には、ロボット犬が伏せの状態でじっとしていた。前回の時もロボット犬は同じように、天才ハッカーの足元で伏せをしてじっとしていた。ゴールデンレトリーバーのロボット犬は、何も知らされていなければ、誰でも本物の犬だと思うだろう。窓から差し込んでくる太陽の純白の光を浴びて、黄金色に輝いている毛並み。息づかいとともにかすかに動く背中と尻尾。いつか映画で見たことのあるような飼い主と犬との光景だ。
時田と村岡に用紙を渡している天才ハッカーに、私は尋ねた。
「このロボット犬はサーバーと繋がっているの?」
「いや、データはすべて本体の中に保存される」
「先日に会っただけなのに、俺たちのことを一人一人区別して、認知しているけど、いったい何人くらいの人を覚えることができるの?」
「本物の犬がどれくらいの人を覚えらえるか知らないけれど、多分本物の犬と同じくらい覚えられると思うよ」
「それって相当の記憶容量が必要になると思うけど、クラウドのようなサーバーなしで、どのようにして実現しているの?」
「DNA配列を使ったデータ保存の方法を使っている」
「 DNA配列によるデータ保存のことを初めて聞いたときは、信じられなかったけど、このような形で実現しているものがあるのか。このロボット犬は何で動いているの。やはり電気かな?」
天才ハッカーに渡された用紙を見ながら、時田が尋ねた。
「そう電気だよ。大容量のリチウム電池が使われている。保存された電気が少なくなってくると、近くのコンセントを見つけて、自分から充電するようになっている。足の肉球の部分に充電のためのアダプターが収納されている。受電するときプラグの部分が自動的に出てくる。本物の犬のように実際に食物を食べて、エネルギー源にできるようなロボット犬を作れたらいいだろうと思うけど、そのようなことは現在の技術ではとても無理だからね。結局、自分で充電する方法に収まったわけ」
「DNA配列の保存は、エネルギー源が、電気に思えないのだけど」
「DNA配列の保存に関しては、炭水化物やタンパク質に変わる物質を定期的に投入しなくてはならない」
「それはどれくらいの間隔?」
「月に一回くらいかな」
「電気に比べれば遥かに長期間保つか」
「この点で、やはり食物をエネルギーにできるタイプを最終的に作りたいと思う」
「やはり、クラウドではダメなの?」
「そういうことも考えたけど、クラウドにした場合、通信障害が起きたとき大変だと思った。大型犬のロボット犬が暴走したら、大変なことになってしまう」
「でもここまでのものをよく作ったね。実際初めて見た時本物の犬だと普通に思っていたから。ロボット犬ということを知らされなかったら、今でも本物の犬だと思っていたかもしれない。ただ匂いがないとか、毛が全然抜けないとか、奇妙に感じていたかもしれないけど」
「ホワイトハッカー間で、結構ロボット犬を作りたいと思っているものがいて、お互い知恵を出し合って、総力戦で作り上げた」
「それは世界中でこのようなロボット犬が他にもあるのか」
「そう、ホワイトハッカーの中でロボット犬が欲しいと思っている数だけある。まあ犬種はさまざまだけど。共通しているのは、自分たちが飼っていた犬と全く同じ犬のロボットを作ったということ。犬種も性格も全く同じ。いわばコピー犬だね。本物の犬はいくら同じように育てても完全に同じ犬にはできないよね。性格だけ見ても、完全に同じ犬にはできない。かなり似ているように見えてもどこが違う。それが自然の不思議であり、素晴らしさかもしれない。ロボット犬は完璧なコピー犬になっている。それは以前飼っていた犬のすべての記録を、ホワイトハッカーが結集して開発したAIを使って、分析して開発したものだ」
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