第35話
アパートの自分の部屋に戻ってから、しばらくの間、二人の会話が私の脳裏の中に残っていた。しかし、その会話の残響はやがて徐々に消えていき、脳裏に沈黙が響いていた。
私の脳裏に浮かんできたことは、17歳の頃まで住んでいた家を見に行った時のことだった。なぜ、家の周辺にある広大な畑の一部に立っていた叔父叔母たちの家が、影も形もなかったのか。広大な畑はよく管理されて良い状態になっている。誰が畑を管理しているのか。家の表札を見た時、父と母の名前が書かれていた。図書館に行って、2010年の新聞の縮刷版を見ると、父と母が崖から車ごと落ちて亡くなった記事があった。
2020年の私の身体にある意志が、50年後の2070年の時代にある私の身体に移って、再び、2020年の私の身体に戻ってきた。
私は依然として、安アパートの部屋に住んでいて、派遣の仕事で清掃員の仕事をしている。新型コロナウイルスの無症状感染者か軽症感染者を受け入れるホテルの部屋の清掃と消毒の仕事である。
私の住まいと仕事は変わっていない。ただ時田と私の組に、村岡が加わっただけだ。
翌日仕事が入らなかったので、最初に図書館に行って、2010年度版の新聞の縮刷版を見た。両親が崖から車ごと転落した事実は変わっていなかった。次に登記所に行って、登記簿を閲覧した。17歳頃まで私が住んでいた家の所有者の氏名は父のものであった。次に役所に行って、戸籍謄本を申請した。私の両親の欄には父と母の名前があった。そして2010年に亡くなっていることが記録されていた。
17歳の頃まで私が住んでいた家と、県道を跨いで、斜向かいにあるコンビニに入った。おにぎりとペットボトルのお茶を買って、窓際のカウンター席に座って、家の玄関を観察した。おにぎりを食べ終えて、ペットボトルのお茶を飲み終えて、しばらくすると、家の玄関に人影が近寄っていくのが見えた。20代に見える女性は玄関の扉の鍵を出して、玄関の扉を開けて家の中に入っていった。
コンビニを出て、県道を横切って、家の玄関前まで行った。家の周りの広大な畑の一部に立っていたはずの叔父叔母たちの家は影も形もなかった。ただ広大な畑が広がっていた。畑はよく管理されているのがわかった。
玄関の表札を見た。父と母の名前が書かれてあった。玄関の呼び鈴のボタンを押した。数分間待ったが、何十分も経ったような長さだった。何の反応もなかった。もう一度ボタンを押した。数分間待ったが、やはり何の反応がなかった。
扉に手をかけると、中から鍵がかかっていないことがわかった。扉を開けて、声をかけた。何度も声をかけた。声をかけるたびに声をさらに大きくしていった。何度声をかけても何の反応もなかった。
玄関には私が17歳の頃使っていたスリッパが、スリッパ入れにあった。スリッパに履き替えた。家の中は全て前回の時と同じように、私が17歳の頃住んでいた時と同じものが置いてあった。家の中を隈なく見て回ったが、誰もいる様子がなかった。
居間のテーブルの上にテレビのリモコンが置いてあった。リモコンを手に取ろうとしたが、差し出した手を引っ込めた。
玄関でスリッパを脱いで靴に履き替えた。玄関の扉を開けると、純白の太陽の光が流れ込んできた。
玄関から外に出ると、純白の太陽の光が、私の体全体を照らした。雲がほとんど見えないほどの青空が、信じられないほど美しく輝いていた。これほどに透き通ったような美しい青色の空を見たことがあるだろうか。空の空気が澄み渡って、何の濁りもない大気の中を、純白の光が降り注いでいる。
いつもこの時間に上空を飛んでいるはずの飛行機のジェット音が全く聞こえない。そういえば国際便が9割ほど運休しているとあるニュース番組で報道があった記憶がある。
県道を走る車が、いつもよりもずっと少ないように思える。歩道を歩いている自分の靴音がよく聞こえる。何を話してるのか内容は分からないが、道路を隔てて反対側の歩道を歩いている二人組の会話の響きが、普通は車の騒音で消されてしまうのに聞こえてくる。
歩道を歩いていると、いつもは、道路を走る車から漂ってくる空気、エンジン音、車体と空気が生み出す摩擦音が身体に響いてくる。でも、今そういうものから自由になっているような気分だ。
新型コロナウイルスの感染防止のため、人々はできるだけ家にいることを強いられている。
旅に出ることができない。コンサート会場に行くことができない。演劇劇場に行くことができない。映画館に行くことができない。スポーツ観戦に行くことができない。レストランに行くことができない。テーマパークに行くことができない。人々はもっぱら家にいて、テレビを見たり、ネット配信の映画やドラマを見たりしている。外食に行けないので、テイクアウトの食事を家で食べたりしている。
空の青さが信じられないくらい綺麗だ。空気が信じられないくらい澄んでいる。鳥のさえずりが今まで以上に美しく響いている。
私は家のことをしばらく考えるのをやめようかと思った。家のことよりも、時田と村岡の会話の内容の方が気になっていた。明日の仕事の後の雑談がなぜか待ち遠しくなってしまった。
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