常磐色の君

ねぇ

第1話

太陽が燦々と輝いている。

空が、深い緑色の山と対照的にどうも明るくて、その眩しさに目を細める。

「はぁ...」

やっと着いた。大きく伸びをして、なんとなく詰めていた息をほう、と澄んだ空気へ逃す。

母方の実家は、田んぼやら山がその辺にあるのが珍しくないところにあった。随分と長い間車に乗っていたため全身が凝り固まっている。おばあちゃん家は好きだが移動は嫌いだ、といつもと同じ感想を胸の内で呟いて荷物をひっ掴み、自分のそれを勝手知ったる屋内に運び入れた。




近場の山には神社があって、幼少の頃から私はそこに行くのがとても好きだった。お祭りがあったり初詣で賑わったりするし、誰もいない時もある。

私は特に、人がいない時のそこが好きだった。

上手く言葉に出来ないのだけれど、なんとなく懐かしくて、落ち着くのだ。

荷解きを終えて一息ついたあと、私は早速この神社に来ていた。特に理由はない。強いて言うなら足が向いたのと、一年前と変わってはいないだろうか、とふと思ったからである。


賽銭箱に五円玉を投げ込み、両手を合わせる。

「来年はここに来れませんので、今年は多分いつもより遊びに来ると思います」

いつもは特に何も考えてはいないけれど、今年は小さい報告があって、それを、居るのかわからないやしろの主に向かってぽつりと呟いた。

「それは本当か」

...上から声が降ってきた。

気の所為かもしれない、と思ったけれど一応上を向いてみる。

「!」

有り得ない、とそう思った。

目を擦ってみる。やっぱり"それ"は変わらずそこに居た。

「本当か、と聞いている」

"それ"は少し不機嫌な様子で私の返事を催促した。

怒らせてしまって帰れなくなったらどうしよう、という考えが頭をぎり、私は急いではいと答えた。

ふと空気が動いた。

風が髪を擽り、ワンピースが膨らむ。

"それ"が付けていた顔布がひらりと捲れた。

「あ...」

ふるり、と小さな震えが身体を走った。

その震えが恐れからか、興奮からか、緊張からか私には分からなかったけれど、心臓のあたりが心許なく揺れている。

「何故、来れなくなるのだ」

布越しにあの深緑の目がじいっとこちらを見ているような気がして、私は無意識にワンピースの裾をつまんだ。

「受験なんです」

「受験」

それは私の言葉を反芻した。

「はい」

「ふむ、時折それの成功を祈りにここ来る者がおるな。そなたはそれを祈らぬのか?」

私の目の前に降りてきて、"それ"は尋ねた。

「まさか」

「それはまた何故だ」

白い着物がワンピースに当たる。けれどその質量は感じられなくて、やはりこれは奇妙なことなのだな、と頭の片隅でどこか他人事のようにそう思った。

「ここに祈ったとして、貴方様は叶えて下さるのですか?」

「いいや」

「やっぱり」

何だか可笑しくなってしまって頬が緩む。

見えなかったけれど、目の前の"それ"も笑ったような気がした。

「あの、」

ワンピースの裾を握り締めながら、思い切って尋ねてみる。

「お名前は」

すると"それ"は面食らったように一瞬固まってから、はは、とさも可笑しげに笑った。

「そうだな...くすのきとでも呼ぶがよい」

「樟様」

「うむ」

そう言って樟様は満足気に頷いた。

「私の名前は...」

楓佳ふうか、と私が声に出す前に樟様はその人差し指を口元に当てた。

「名は、簡単に教えてはならぬものだ」

「...わかりました」

諭すような声に私も頷く他なかった。

でも、それでは何だか不公平である。私には呼ぶ名があるのに、向こうには無いではないか。

「では樟様、私に名前を付けてください」

「名前を」

「はい」

樟様は少し考える素振りをしてから口を開いた。

しかしな、名付けるとは契るという事だぞ」

「契る」

「縛るとも言える」

「そうなんですね」

「それでも、いのか」

「はい」

あっさり頷いた私に少々面食らったのか樟様は少し黙って、それから観念したかのように小さく溜息をついた。

「..."すず"」

「え?」

「幼少の折によく身に付けていただろう」

どうやら私が小さい頃から樟様はここに居るらしい。まあ、当然と言っちゃあ当然だろうけれども、何だか擽ったいような、落ち着かない心地がした。

「よくご存知ですね」

「すずがここによく来ていたのだろう」

ここを祭事以外で訪れる者はあまりいないというのに、と呆れたような声音で樟様はそう言った。

「だって」

ワンピースから手を離し、一瞬のうちに身体を巡った勢いのままに樟様の御衣装の袖をそっと掴んでみる。

「ここが好きなんですから、仕方ないじゃないですか」

「ほう」

珍しい人間もいたものだ、と言って樟様は笑った。やっぱり表情は布に隠れて見えないのだけれど、何となくそんな気がした。


「今年は2週間ほど居ます」

帰り際にそういえば、と思い出したように言ってみると「短いな」といういらえがあった。

「ここ数年は大体そんな感じだったと思いますが」

「何故だ」

どうやら樟様は理由を知らないと気が済まないタイプらしい。

「夏休み、中高生は忙しくなるんですよ。部活とかあるので」

「難儀だな」

「樟様のお忙しい時というのはいつなんですか?」

「忙しい時」

まさか自分が聞かれるとは思っていなかったらしく、樟様は暫く考える素振りを見せた。...考えてから答える質問なのだろうか、これは。

「そうだな...神無月と祭りのある時、すずがここに来る時はする事がある」

「そうですか」

樟様は存外お暇らしい。

「では、失礼します。また明日」

「うむ。わかってはいると思うがすず、この事は口外するでないぞ」

「はい」

木漏れ日が色を纏う時間になっている。どうやら思ったよりも長くここに居てしまったらしい。

鳥居をくぐる。

ざわり、と木の葉を揺らす風が吹いた。

振り返ると、樟様は呆れたように笑って小さく手を振ってくれた。




「...すず、そなたはここに毎日足を運ぶが飽きはしないのか」

管理人さんが掃除してくれたであろう、ここにひとつしかないベンチに腰掛けて読書をしていた私に樟様はそう尋ねた。

「飽きてたら来てませんよ」

本に栞を挟み、ぱたりと閉じてここの主の質問に答えた。

「そういうものか」

「はい」

初日以降、樟様の布の向こうのお顔が見えることは無かったけれど、やはり私は何となく樟様の表情がわかってしまうような気がして、それが妙に楽しくて嬉しかった。

それでふと気にかかっていたことを口にしてみる。

「ちなみに樟様、初日に私は図らずも御尊顔を拝してしまったのですけれども、大丈夫なんですか?」

「不味い事でもあるのか」

「それを聞いているんですよ」

この様子では特に無いらしい。良かった。

ほう、と安堵の溜息をつく。

「特に無いだろうな」

「何で抽象的なんですか?」

「見た者がそう居ないからだな」

「そうでしょうね...」

見せないための顔布なのだ。当然だろう。

「では、何か理由があって?」

「...強いて言うなれば、我等の顔を見るというのはそなたらにとって良くない事らしいから、であるが」

「そうだったんですか」

そんなの最早理由が無いも同然である。というか、私たち人間への配慮ではないか。

「意外か」

「まあ、はい」

何で分かったんだろう。失礼に思われてたらどうしよう。背筋を微かに緊張が走った。

「そう顔に書いてあった」

さも可笑しげにそう言って、樟様は初日ぶりに声に出して笑った。

「...びっくりしました」

「うむ、そうであろうな。然し出雲や伊勢であればこうはゆかぬ故、気を付けるがよい」

「そういうものなんですか」

「そういうものだ」

それは"樟様の強さ"の問題なのだろうか。それとも、彼らにも得手不得手というものが存在するのだろうか。

「伝聞調だという事は、何かあった訳では無いんですね」

話を逸らすために前の話を続けてみる。

「そうだな」

樟様は私の意図を察してか前の話題にさほど興味が無かったのか、あっさりそう答えた。

「何だ、また見たいのか」

「!?」

樟様はさも何でもないようにそう言ったが、それは私がちらと考えていたことであった為、びくりと肩が跳ねる。

「すずは分かり易いな」

「そんなつもりは無いのですけれども」

平静を装ってそう答える。

「そうであろうな」

愉快そうに言って樟様は顔布を外した。

深緑の目がじいとこちらを見る。

「すず」

「はい」

「少し暑そうだが」

「暑くない人はいないと思います」

いくら田舎の山の中とはいえ夏は夏。日本の高温多湿の夏を舐めてはいけない。防虫対策をバッチリしたけれど虫刺されとお肌に当たる紫外線が気になるお年頃なので薄手のカーディガンを1枚羽織っているのが暑そうだと思われたのだろうか。

「そうなのか」

「はい、夏ですから」

私の答えにそうか、と納得しているようなしていないような声音で頷いて樟様は地に足をつけ、私の隣に腰掛けた。

「とはいえ人は脆い。頬が赤いという事は少々熱が篭もったのだろう。水を飲め」

そう言いながら頬を指さされる。

「あの、」

言い出しながら、膝から滑り落ちそうになった本を慌てて捕まえた。

「顔、赤かったんですか」

「今も赤い」

なるほど言われてみればそんな気がしてくる。私は慌てて鞄から水筒を取り出して、冷たい水を喉に流した。美味しい。

樟様は隣でただじっと見ていた。

「樟様は暑くないのですか」

「うむ」

まあそうでないとそんな格好はしないだろうな、と納得し私は水筒を鞄に仕舞った。

樟様はその一部始終をやはり黙ってじっと見ていた。

「まだ赤いが」

暫く私の顔を眺めた後に、火照りを確かめるように手を頬に当て、樟様はそう呟いた。

「まだ赤いですか」

常磐色を見つめ返す。

成程人間にとって良くないかもしれないと樟様が言った意味が分かった気がした。

「更に赤くなった」

「本当ですか」

「嘘はかぬ」

「それは、...そうで御座いましょうね」

何しろ彼らは嘘を吐く必要が無いから。

「水でも浴びたらどうだ」

「浴びる水がどこにあるんですか」

この辺りは小川も湧き水もないというのに。私の問いを受けて樟様は無言で手水舎を指差した。

「あそこに」

「...樟様、あれはお清めをするための水であって涼むための水じゃないんですよ」

呆れてそう返すと樟様は一瞬目を見開いた後「知っている」と言った。知っていたら驚きはしないと思うのだけれど。私は敢えてそこは追及せずそうですかと返した。

樟様が指先をすっと下に向けると水盤すいばんは口の広くて浅い器になった。温泉が湧いていれば足湯が出来そうである。

「...すごいですね......」

「これで涼めるだろう」

確かに足先で水と戯れるには最適な形にはなったけれども、

「これ、戻るんですか」

「当たり前だ。気にせず涼め」

その赤い頬が何とかなるまでだ。そう言って樟様は私の頬をするりと撫で、笑った。

眩しい笑顔だった。




10日はあっという間に過ぎていった。

「明日の朝、帰るんです」

「そうか。息災でな」

「はい」

たった10日、されど10日。私は一緒に過ごした樟様と離れ難く感じていた。

何となく、ここを出ていけばもう二度と会えなくなってしまうような気がして鳥居の外に踏み出せない。

「また、会えますか?」

殆ど縋るようにそう尋ねると、樟様は目元を緩ませて、勿論と答えた。

本当かもしれないし、優しい嘘なのかもしれないけれど、また会えると言ってくれた樟様の言葉が嬉しくて少しだけ胸が軽くなる。

「...では、また」

「うむ」

鳥居の外に踏み出す。

樟様の姿はやっぱり見えなくなってしまった。






それから、受験が終わって大学に入り、毎日忙しく過ごしていく中で私はあの神社を訪れる機会を持てずにいた。

行っても会えないかもしれない。それが怖くて足が向かなかったというのもある。


社会人になって、結婚して家庭を持ち、祖母を見送って。気付けば子供は巣立っていく歳になっていて、その後は夫と2人で静かに暮らし、孫が生まれ、母を見送り、ずっと一緒に過ごしてきた夫を見送り、そして...





───





「おばあちゃん...」

病院の一室、枕元に立っている孫娘が不安げな顔で祖母を見つめていた。

祖母の命の火が消えかかっているのだ。

病室は思い沈黙に包まれていた。


17になる孫に力なくほほ笑みかける。

不意に自分が17であったときの不思議な夏が脳裏をぎった。あの不思議なお方にもう二度と会うことはかなわかったけれど。お元気なのだろうか。

笑みがこぼれる。

思えば色々なことがあった。

ああ、良い人生であったと老婆は振り返る。

彼女は満たされていた。


ふと老婆は違和感を覚えた。

照明の具合が木漏れ日のそれと似ているのである。

冷房のそれとは違う、涼やかな風が頬を撫でる。水の流れる音か彼方で聞こえる。


私は確かにこの感覚を覚えている。

確信を持って掌を見ると、そこにあったのはしわくちゃの手ではなく若い頃の、まだ家事を知らぬ手であった。

あたりを見渡す。自分がいるのは真っ白な病室ではなく、木々に囲まれた、ひどく懐かしい思い出の場所─あのやしろの前だった。

いつまでも色褪せなかったこの場所での記憶、17の夏の出会い。


「少々早かったのではないか」

「そうですか?私は満足しましたよ」

あの頃と全く変わらない姿で"それ"は私を出迎えた。

「...樟様。約束、守ってくれてありがとうございます」

「なに、安い御用だ。何度目だと思っている」

「何度目でしょうか」

「まだ指で数えられるぞ」

「そうでしたか」

導かれるままに拝殿の屋根に上り、そこに並んで腰掛ける。

暫くの間、風の音に耳を傾けた。

「...樟様」

「何だ」

「また、待っていただけますか」

私の問いに樟様は苦笑した。

「無論、と言いたいところではあるが...難しいやもしれぬ」

「どうしてですか?」

不思議に思ってそう尋ねると、樟様は寂しそうに笑って、それから目を伏せた。

「......人がな...もうらぬのだ」

「...!」

守る者、信ずる者の居ない土地神は最早居ないも同然だからな。と樟様は小さな声でそう零した。

「じゃあ樟様、」

そっと大きな手の上に自分のそれを重ねる。

「今度は私と一緒に来てみますか?」

「そなたと共に、と」

「はい」

両手でその大きい手を包み、しかと頷く。

「もっと一緒に過ごせますよ」

最高だと思いませんか?そう尋ねてみると樟様は面食らった顔をしていたが頬を緩ませてそうやもしれぬな、と答えた。

「そなたはいつも思いもよらぬことを言い出すな」

「そうでもないと思いますが...」

「はは、それはそなたが思っているだけだろう」

おかしそうに笑って、樟様はもう片方の手を持ち上げて私の手を包み返した。

「そなたと共にならばひとの一生を何度も過ごすのも悪くないやもしれぬ」

「まあ!...樟様、次も、その後もずうっと一緒のお積もりだったんですか?」

「...そなたは違うのか?」

心做しか拗ねたような表情で樟様は私に尋ねる。

「まさか!......ずっと、御一緒出来るなんて思ってもなかったので...樟様がそう思っていらっしゃったのが、とても、嬉しくて」

いつの間にか目から零れ落ちてしまっていた涙をそっと拭いつつ、樟様は微笑みながら私の話に耳を傾けてくれた。

時間の流れがそこには存在しておらず、私と樟様は過去の空白を埋めるように今まであったことを共有していった。...話していたのは主に私だったけれど。


ちらと視界の端に映った指先が透けていて、もう49日も経ってしまったことを知る。

「行かなくちゃいけないみたいです」

「そのようだな」

樟様は頷いた。

「行きましょう、樟様」

先に立ち上がって樟様に手を差し出すと、その手を取って樟様は苦笑した。

「...手を差し伸べてやるべきそなたに手を差し伸べられるのは妙な気分だな」

「お嫌でした...?」

「そうだと思うか?」

「ふふ、いいえ」

傲慢だと思われるだろうか。でもそれにしては彼の表情は幸福の色に染まり過ぎている。

「しかし...どのようにして行くのだ?今まで幾度もそなたを見送ったが解ったためしがない」

「身を任せるんですよ。目を閉じて...」

暫し互いの瞳を見詰め合ってから両の手をしっかりと握り合い、瞼を閉じる。

空気に溶けてゆくような感覚を覚える。

指先にほんのり熱が灯る。

幸福とはこのことをいうのだろうか。


─ねえ、樟様

─何だ

─大好きです


─..."すず"

─はい

─私もだ

─......!





─────






祖母の墓は、本人たっての希望で地神を祀っている社がある山にある墓地に置かれた。


その年の秋だったか、台風の影響でその山で土砂崩れがあり、山の一部が塞がれてしまったと親族の知らせで耳にした。

あの社自体がどうなったかまでは知らないけれど、そこへ繋がる道も潰れてしまったらしい。


あそこへは、もう誰も足を踏み入れられなくなったのだとか。

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