転章

天才の剣①

「つまらんなぁ」


 奥寺東馬は、思わず言葉に出してしまっていた。

 その日は朝から雨で、東馬は戸を叩く雨音に耳を傾けながら、日がな一日、城前町にある屋敷の自室でゴロゴロと過ごしていた。


「何がつまらないのですか?」


 志月が障子の陰から顔を出したので、東馬は身をむっくりと起こした。


「いやな、実につまらんと思うてな」

「だから、何がつまらないのです、兄上」


 志月の口調は、相変わらず抑揚の無いものだった。静かで、沈んでいて、冷たい。だからと言って、機嫌は悪いわけではないという事は、兄だからわかる。普段からこうなのだ。本当に機嫌が悪い時は、口を開こうとはしない。

 今日はいつもの男装ではなく、女物の着物だった。ここ最近、男装をするのは竹刀を握る時だけになっている。少しずつだが、志月も変わりつつあるのだろう。


「清記だよ、清記」

「平山様が何か?」

「江戸だろう? だからな」

「藩命ですもの。江戸での剣術修行は、必ずや平山様の血肉となりましょう」

「頭ではわかってんだよ。でもなぁ」

「道場に出られたらどうです? うかうかしていると、平山様に抜かれますよ」


 そう言われ、東馬は大きな溜息を吐いた。

 確かに道場に出れば気も晴れようが、そんな気にもなれない。


「寂しいのですか?」

「俺はつまらんと言っているのだ。寂しいのはお前ではないのか?」


 志月が頬を赤らめたかと思うと、口を真一文字にして鋭い視線を向けた。


「嫌な事を言わないでください」

「へへ」


 志月が部屋を出て行くと、東馬は再び身を横たえた。

 志月が珍しく、いや自分が知る限り、初めて男に惚れている。それは兄として喜ばしい事だった。しかも、相手はあの清記である。我が妹ながら、何とも男を見る目があるではないかと、褒めてやりたい。

 清記は善い男だ。武士としても剣客としても、並ぶべくもないものを有している。あの男ならば、義弟となるに何の異論もない。


(しかし……)


 清記の剣。まるで昨日の事のように鮮明に思い出され、それだけでも身震いがする。

 もう何年前か。曩祖八幡宮建立五百年を祝う、大祭の奉納試合。二回戦で、東馬は清記と対戦した。竹刀で、素面素籠手。命の危険は無いというのに、真剣の切っ先を突き付けられたように、東馬は肌が粟立った。

 底冷えのするような寒さを、清記が放つ気から感じたのだ。竹刀での試合だというのに、抜き身で、命のやり取りをしているかのような気分に襲われた。

 あの剣には、生半可な修行では到達する事が出来ないだろう。そして、その過程で多くの人を斬っているはずだ。


(俺は目が覚めたな、清記の剣で)


 幼少の頃から剣に秀で、天才などと呼ばれてきた。大抵の者には勝てると思っていたし、事実そうだった。真剣で人も斬った。だから、天狗になっていたのだろう。

 恐怖だった。清記の剣に感じたものは。穏やかに、悠然と構えてはいるが、放つ気は剣呑なもので、それは本人も気付かない、全身から滲み出たものだった。

 圧倒されていた。戦慄したとも言っていい。しかし、試合には勝った。無我夢中で放った一撃が、清記の小手を奪ったのだ。

 正直、どう動いたのか記憶に無い。勝ったのは、運が良かっただけだったと思うし、その実感も無かった。だから、試合後に反対を押し切って、長い武者修行の旅に出た。全ては自分に恐怖を与えた、清記の剣に実力で勝つ、その為だった。

 江戸では名だたる道場で稽古を重ね、また旅もして剣を磨いた。幾多の修羅場を重ね、両手では足りないほどの人も斬った。

 血で手は穢したが、無暗な殺生はしなかった。相手は賊が殆どで、中には剣客とも真剣で立ち合ったが、それはお互いが納得済だった。

 今なら清記に勝てる。そう思って帰国したが、まさか好敵手が妹と恋仲になるとは思いもしなかった。


(しかし、それはそれでいい)


 清記は友になった。そして、いずれは義弟となる。これ以上にない相手で、大切にしてきた妹を安心して嫁がせる事が出来る。

 これも運命なのだと、東馬は思った。


◆◇◆◇◆◇◆◇


 翌日は晴れた。

 藍を溶いたような、見事な晴れ空だ。しかし晴れたと言え、たとえ雨が降ろうが矢弾が降ろうが、東馬の一日は変わらない。未だ家督を継いでいない東馬には何もやる事が無いのだ。

 毎日ふらふらと風の吹くままに暮らしているが、今日は清記に教えられて始めた釣りをしに、一人で出掛けていた。

 場所は波瀬川の中流域で、此処では鯉や鮒、鰻、カジカ追河オイカワなどが釣れる。これは清記に聞いた話で、東馬は未だ魚種の見分けが上手くつかない。

 清記に誘われてから釣りを好きになったが、まだまだ素人だ。一人での釣行ちょうこうで釣り上げたのは、鮒の二匹だけである。

 家人達が起き出すよりも早くに屋敷を出て、今は昼前だろう。下女に作らせた握り飯は既に平らげている。

 これまでの釣果は、鯉が一匹。そして、名も知れぬ魚が二匹連れている。自分としては中々の釣果だ。

 東馬は、竿を引いて餌を付け直した。遠くで、鳶が鳴いている。昨日とは違って、穏やかな天気だった。雨の影響で川は濁ってはいるが、釣りをするのにも問題は無い。

 再び、竿を立てる。浮きが立ち、すっと沈んでいく。暫く待つ。ひと呼吸。あと、ひとつ。

 魚信アタリ。右手に振動が伝わった瞬間に、竿を引いた。川面がざわつく。現れたのは、綺麗な鮒だった。


(よしよし)


 今日はどうも調子がいい。竿を立てている太公望の姿が多いが、連れているのはどうやら自分だけのようだ。

 釣りは面白い。剣の立ち合いと同じだ。親父も政事などにかまけず、釣りで楽しめばいいのだ。


(釣りは、政事よりも楽しいもんよ)


 父の大和はまだ隠居する気配もなく、むしろ意気軒昂で執政府での政事遊戯に耽っている。

 君側の奸たる犬山梅岳を倒し、藩政改革をしようというのだ。梅岳の悪名は聞いているし、親父には是非とも気張って欲しいとは思うが、それ以上の感情は無い。

 政事に、興味がないのだ。どうせ藩政改革に成功しても、時が経てば腐敗し、今度は親父が奸臣と呼ばれるようになる。人間の歴史はその繰り返しであり、そう思うと馬鹿馬鹿しくなってしまうのだ。

 いずれ家督を継がなければならない。その事を考えると、憂鬱で気が重たくなる。幸い下に弟がいる。いっその事、家督を譲るのもいいかもしれない。


(俺は、こうして好きに生きる方が性に合っている)


 東馬は軽く溜息を吐いて、竿を再び立てた。

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