第四回 弟たち①

 熱燗を二本空けたところで、やっと身体が温まってきた。

 栄生帯刀は空になった盃を置くと、ごろりと横になった。宴席があっているのか、景気のいい声が遠くで聞こえる。それは喧しいというほどではなく、むしろ心地よいと感じるから不思議だった。

 深川西永代町ふかがわにしえいたいちょうにある、料亭〔徳田家とくだや〕。その離れの一室である。

 離れと言っても五畳一間で、取ってつけたような床の間には、誰のものとも知れない山水図の掛け軸が飾られているだけである。

 それでも徳田家は、深川では名の知れた店だった。料亭番付では西の関脇に位置付けられ、酒も料理も申し分なく代金も良心的である。

 しかし、帯刀がこの店で最後にお代を払った事は、もう十年も前の事だ。そんな事が許されるのも、この店が江戸に於ける帯刀の家であり、婿のような存在だからだ。

 徳田家の主人である富蔵の一人娘の〔おせん〕が、帯刀の女房なのだ。一応正室は若宮庄にいるので、立場的には側室なのだが、おせんはそれを拒んで市井の人間であり続けている。

 帯刀は、おせんに心底惚れていた。それは帯刀が放蕩無頼を気取っていた若い頃、同じく放蕩無頼を気取っていたおせんを、鉄砲洲の破落戸から守った事が縁だった。破落戸に絡まれていたおせんは、簪を片手に気丈にも啖呵を切っていた。


「股座に毛が生えたばかりのチンピラ風情にどうこうされるほど、お安いおせん様じゃないよ」


 まるでやくざのような口上に、帯刀は心を奪われた。しかし相手は鉄砲洲を縄張りとするやくざ。それでは退かず、あわやという所に帯刀が飛び込んだのだ。

 しかし、おせんは礼を言うどころか、


「あんたが来なくても、あんなチンピラなんざ屁でもなかったのさ」


 と、悪態をついてみせた。それがまた、帯刀の心を掴んだのだ。今から十年前。帯刀が二十五、おせんが十七の時だった。

 それ以来、帯刀を身分を隠してこの店に通い詰めた。男女の関係になったのは出会って一年がたった頃。その時に、夜須の藩主家である事を明かした。正室は既に迎えていたので無理だが、側室としてならと富蔵に申し出たが、それを断ったのはおせんだった。


「自分は武家の娘ではないし、真っ平御免だよ」


 だと。しかし、惚れた男をみすみす手放す気も無いと。帯刀は、おせんに更に惚れた。武家の娘にはない、御侠おきゃんな性格が好きだったのだ。

 結局、おせんは側室ではなく江戸の女房となった。今では二人の息子にも恵まれて、当のおせんは徳田家の若女将として、子供を育てながらも店を切り盛りしている。

 そのおせんの声が、離れまで響いている。どうやら板場に顔を出して、料理を早く出せと急かしているようだ。こうした御侠な性格は、放蕩娘から更生した今でも変わらない。


(俺もおせんに急かされりゃ、妙案の一つぐらい浮かぶかねぇ)


 と、仰向けだった帯刀は、横向きになると火鉢に手を伸ばして近くに寄せた。

 今朝、鉄砲洲の本湊町にある阿波屋が、盗賊に襲われた。店の者を殆ど殺すような残忍な畜生働きで、生き残ったのは、阿波屋嘉兵衛が玉のように可愛がっていた孫娘の一人だけ。蔵の銭は全て盗まれ、火盗改や町奉行の追跡も難なく振り切っている。

 今も公儀の捕吏が下手人を追って江都八百八町を駆け回っているが、捕縛される事はないだろうし、捕縛されても困る。

 下手人は、犬山梅岳。いや、梅岳に命じられた御手先役の平山清記と穴水主税介の兄弟なのだ。

 二人と梅岳が使う目尾組の忍びが組み、阿波屋を襲った。そう断言出来るほどの自信があるのは、嘉兵衛が最も信頼していた凄腕の用心棒が、頭蓋から腹部に掛けて両断されていたという話を聞いたからであった。

 念真流に伝わる秘奥、落鳳。どんな太刀なのか実際に見た事はないが、それを受けた者の亡骸は目にした事がある。美しく脳天から両断されていた。あれは、清記の父・悌蔵によるものだったと思う。

 落凰を使ったのは、弟の主税介だろう。清記とは何度か言葉を交わしたが、盗賊らしからぬ殺し方をするような浅はかな男には思えない。それに比べて、弟は些か慎重さに欠ける所がある。よく言えば果敢だが、清記ほどの思慮深さは感じない。おそらく、用心棒の腕が思った以上で、落鳳を使わざる得なかったのだろう。

 兎にも角にも、これは梅岳の命令によるものだ。全ては抜け荷をしていた痕跡、夜須藩と抜け荷を繋ぐ糸を消し去る事が目的。阿波屋は、夜須藩の抜け荷の実務を請け負っていたのだ。


(もう少し早くに動いておれば……)


 後悔したのは、清記の顔を見た時だった。その時に、帯刀は梅岳が何をやろうとしているか悟った。隠すのではなく、消し去る手を打ったのだと。

 帯刀は、その事を嘉兵衛には伝えた。唯一、抜け荷に関わっていると確信を持てたのは、嘉兵衛だけだったのだ。しかし、あの男は拒絶した。守ってやるかあら協力しろとの言葉には、笑って相手にもされなかった。


「悪党には悪党の一分がある」


 それが、嘉兵衛の言い分だった。

 侍に守られるぐらいなら滅びる。そう言いたげだった表情を、よく覚えている。

 やはり、動くのが遅かったと思わざる得ない。密偵を数名動かしてはいたが、ここ数日は連絡がつかない。おそらく既にされているのだろう。全てが後手だった。女衒の稲荷の長吉も蘭学者の安川平蔵も、されてからその役割に気付いたほどだった。

 思った以上に強固な糸で結ばれた一党だった。それだけに、もっと早くにと思ってしまう。

 本腰を入れて探索をしようと所領の若宮庄を発ち江戸に入ったのが、去年の初夏である。抜け荷の存在を知ったのは、その少し前だった。

 報せてくれたのが、中老・奥寺大和だった。抜け荷の一件を突いて、梅岳を失脚させるとも言っていた。

 抜け荷は、耶蘇の布教と並ぶ大罪である。白日の下に晒されれば、取り潰しもあり得るほどだ。政事には関わらないと決めた自分が動いたのは、何も御家を思っての為だけではない。御家を壟断する奸臣・梅岳を排除する為、そしてようやく夜須に現れた希望の星とも呼べる、大和を手助けする為だった。


(それだけじゃねぇな)


 梅岳には何年経っても色褪せない、深い遺恨があった。二十歳の時に一度だけ、帯刀は藩主の座を望んだ事があった。政事を顧みない兄を悲観して、取って代ろうと執政府を動かそうとしたのだ。

 しかし、その動きは梅岳に事前に察知されて潰された。手を伸ばした重臣は解任・失脚し、片腕として信頼していた用人が、何者かに闇討ちをされた。落鳳の太刀筋を目にしたのも、この時だった。

 一連の企みに協力した者を粛清した上で、梅岳は堂々と若宮庄の陣屋に乗り込んできた。

 この時の梅岳の話は、他愛もないものだった。領内の民情や作柄について、そして生まれたばかりの我が子の事。そして、領主としての心構え。取りとめもない話であったが、梅岳があの時期に訪ねてくるという事だけで、そこに込められた意味と自らが敗北した事は容易にわかった。

 あの時の屈辱は忘れていない。いつか、あの男に吠え面をかかせてやろうと、虎視眈々と狙っていた。

 そんな時に、奥寺大和という男を知った。梅岳にへつらうぐらいの外連味はあるが、個人としての行いは清廉潔白。そして長い間、深江藩と領有権争いをしていた舎利蔵山の騒動では、夜須藩を勝利に導いた能力を持つ。

 会ってみると、実に愉快な男だった。歳は自分より十歳ほど上だが、友のようであり兄のような感覚を帯刀は覚えたのを強く覚えている。

 友であると思えるようになって三年目、藩の行く末を語り合った後で、


「共に戦ってくださいますか?」


 と、頭を下げられた。梅岳を倒そうと。その時、帯刀は腹を括った。

 江戸で抜け荷について探ろうと言い出したのは、帯刀だった。


「駄目だ、駄目。全く浮かばねぇ」


 帯刀は溜息を吐いて身を起こした。事態を打開するような策は、どうもこうも浮かびそうにない。

 そもそも、抜け荷にどれだけの人数が関わっているのか、その全貌が明らかになっていない。知っているとしても、江戸で取引を差配していた嘉兵衛と、全体を仕切っていた梅岳ぐらいなものだろう。長吉も安川も歯車に過ぎず、当人たちも全体の事を知ってはいなかったはずだ。

 江戸の裏に詳しい者にも当たってみたが、昨日今日会ったばかりの男に協力しようというもの好きはいない。

 やはり、梅岳は狡猾だ。そして、不利と見るや粛清を決める果断さも持ち合わせている。悪党ではあるが、その手腕は夜須では並ぶ者はいないだろう。


(俺も大和も、この件からは手を引くべきか……)


 後手に回り過ぎた。今から得られるものは殆ど無いだろうし、下手に動くと追っている自分達が追われる立場になりかねない。

 帯刀は酒を呷ると、むくっと立ち上がった。

 大和に諦めろと書状を書く。その前に酔いを醒まそうと思ったのだ。


「あんた、散歩かい?」


 長い廊下を歩いていると、お膳を自ら運ぶおせんとすれ違った。


「おう。酔い醒ましでね」

「そうな悠長な暇があったら、子供を見てやってくださいな」


 二人の子供は、家族で暮す母屋にいる。義父も義母も店に出ているので、夜は子守りの女中と三人だけになるのだ。


「その為の酔い醒ましさ。父ちゃんが酔いちくれたら、子供に会わせる顔がねぇからな」

「何を言ってんだが。ほら、とっとと行きなさいな」


 そう言って、おせんは帯刀を手で払った。若宮庄にいる正室は、決してこんな振る舞いはしない。床の間の人形のように感じる事がある。故に此処にいると、自分は生きているのだと実感するのだ。

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