親心②
七つの鐘が鳴りだした頃、大和は城前町の屋敷に戻った。
鞍上の大和は長屋門の前で下馬すると、屋敷を出ようとする清記と行き違った。
「これは、奥寺様」
清記は朴訥とした感じで、頭を下げる。礼儀正しい所作を崩さず、武士として鍛え抜かれた体躯を持つ男だが、その瞳には何人も踏み込ませない黒い光を湛えている。
清記が抱えた宿運を考えれば無理もない事であるが、その黒い光にどうにか抗おうとしている所がある。そこが、この青年を好ましいと思う所以だった。
「稽古の帰りか?」
「はっ。御家人衆の熱に感化されたのか、私まで夢中になってしまい、ついつい遅くなってしまいました」
「それはありがたい事だ。お前にも、よい修行になっている事だろう」
清記が、小さくも力強く頷いた。
「人は誰かに教える事で、更に成長するものよ。色々気付かされる事も多い」
「はい」
清記が返事をして立ち去ろうとしたが、大和は呼び止めた。
「志月は、相変わらずか?」
その問いに、清記は苦笑いで応えるだけだった。
(あのお転婆め、まだ清記を認めぬのか)
清記と別れ、屋敷の奥に戻りながら大和は内心で呟いた。
剣の道に生きるというのなら、負けた事も受け入れるべきなのだ。そうは思っても、気持ちばっかりはどうにもならないし、何をしても志月を可愛く思ってしまう。
志月は次女だった。長女は亡き妻に厳しく育てられ、そこそこの身分の家に嫁いでいる。志月は、大和が自由に育てた。志月が八つの時に妻が病で死んだのだ。厳しい母親の
同年代の娘が、茶の湯や琴などの稽古に励む中、志月は木剣を振っていた。それが悪影響を及ぼしたのか、同年代の女友達がいない寡黙な女になってしまったが、剣では今や一刀流小関道場の高弟の一人に目されるまでに成長した。
廻国修行に出ている東馬などは、志月が男であったのなら自分は敵わなかったであろう、と言う始末である。
そんな男勝りに育った志月にも、縁談話が舞い込む事もある。
しかし当の志月は、
「自分より強くなければ嫁に行きませぬ」
と、言う。
実際に、二人ほど立ち合った者がいるが、志月に歯牙にもかけられずに敗れている。
その志月が、清記に負けた。しかも、剣も使わずに敗れるという、完膚なきまでの敗北だった。その時、大和の脳裏には、
「自分より強くなければ嫁に行きませぬ」
という、志月の言葉が蘇った。その事に、志月は気付いているのだろうか。一度聞いてみたいが、あの娘は深山の巌のように黙ってしまうだろう。黙ったまま、あの細く鋭い目で見つめられると、流石の父親でも何も言えなくなるのだ。
(まぁ、いつかは気付いてくれるだろう)
自室に戻り近習に裃を解いてもらっていると、その志月が現れた。
「どうした、志月」
志月は、女の恰好をしていた。道場での稽古以外は男装をしていないのだが、ここ最近は毎日小関道場へ足を運ぶので、男装が普段の恰好になっていた。
「お客様でございます」
「はて、来客の予定があったかな?」
大和は近習に問いかけると、慌てて顔を横にした。
「どなたかな?」
「内住郡代官様にございます」
志月は、何の抑揚もつけずに答えた。我が娘ながら、今の心情が読めない。
「ほう。それはなんとも。清記殿の父御であられるぞ、志月」
「存じておりますわ、父上。しかし、如何なさいますか? 突然の来訪です。お断りも出来ますが」
「馬鹿を申すでないわ。そうさの、道場にお通ししろ。それと、百目蝋燭を灯して酒も用意させよ。よいな?」
志月が目を伏せて、退出した。素直になればどんなに楽な事か。しかし、それが出来ない志月も、また可愛いのだ。
◆◇◆◇◆◇◆◇
道場に入ると、小さな老爺が振り返って破顔した。笑っているが、眼の奥では笑っていない。それは何となくわかった。
「これはこれは、平山殿。お待たせして申し訳ない」
大和は辞を低くすると、悌蔵も恐縮して頭を下げた。
奥寺家と平山家では同じ大組ではあるが、その中でも家格の上下はあった。奥寺家は、大譜代という大組の最上位であり、平山家はその一つ下である譜代である。大和は細かい家格は気にもしないし、年長である悌蔵に尊大な態度を取るつもりもないが、相手がこうして気を使ってくる事は多々あった。
「いやはや、突然押しかけてこちらこそ申し訳ございませぬ。こんな酒まで出していただき」
「なんのなんの」
大和は、酒肴が用意された膳を挟んで悌蔵と向かい合った。四方には、暗い道場を照らす百目蝋燭である。
「しかし、奥寺様。道場で酒とは乙な趣向でございますなぁ。ここに連れて来られた時には、腕試しでもするのかと驚きましたぞ」
「ふふ。ここでなら盗み聞かれる心配もないと思いましてな。道場の真ん中なら、忍ぶ場所もなく、外からは聞こえもしない」
「ほう、何ぞご心配な事でも?」
「いいや、用心深いだけですよ」
と、大和は銚子を差し出し、悌蔵がそれを盃を受けた。
大和は悌蔵を信用している。藩の刺客である御手先として、誰との付き合いも等間隔なのだ。ここだけの話と言えば、ちゃんと胸に仕舞い梅岳に耳打ちする事もない。それは長年の付き合いで、確信した事だった。
「流石は、奥寺様。中老たる者はこうでなければなりませぬなぁ。ですが、よい道場でございますの。何やら、気というものが、まだ漂っているように思えます」
「それは、平山殿のご子息が連日猛稽古をしてくださっているからですよ」
「愚息はお役に立っておりますかの?」
「それは、もう。私も何度か稽古をつけていただいたが、眠っていた私の剣を目覚めさせられた心地です」
「今回の件といい、指南役にしてくれた事といい、愚息に目を掛けてくださって、何と御礼をしていいのやら」
そう言うと、悌蔵は膳をずらして深々と平伏した。
今回の件。それは夜臼村での一件だろう。十日ほど前、清記は口原郡夜臼村の郊外で十三人の浪人を斬っている。夜須藩では浪人の流入を禁止し、身元引受人のいない浪人は斬っても罪にならない、それどころか手打ちにする事が奨励されている。勿論、元和・寛永の頃ならいざ知らず、当世で浪人狩りをするような者はいない。例え浪人がいたとしても、見て見ぬ振りである。そうした夜須で、清記が十三人を斬った。その後始末を、大和は梅岳に頼まれたのだ。
「悌蔵の倅が、浪人を十三人ばかり斬った。これを表沙汰にならぬよう、内々に処理してくれないか? 儂の名を出さずにの」
説明は、これしかなかった。何故斬ったかわからないが、梅岳が大和に頼んだところを見ると、きっとお役目に関わる事ではないのだろう。御手先役として斬ったのなら、大和に頼まれずとも粛々と処理するはず。それをしないというのは、この殺しが私事であり、平山清記という名を表に出さぬ為ではないのか。
ともあれ、大和は内々に処理をした。口原郡の代官・
「お前が頼むのなら、何も言うまい」
と、正崎は受け入れてくれた。そうした大和の骨折りを梅岳にでも聞いて訪ねたのだろう。
「礼には及びませぬぞ、平山殿。前途有望な若者を助けるのは、先達の務めですから。それに、悌蔵殿は長く御家を支えてこられたお方です。このぐらいは何とも」
「そう言うてくださると助かります。これは些少ではございますが」
悌蔵はそう言って、懐から袱紗の包みを取り出した。
「受け取れませぬな」
「いや、しかし。大変なお骨折りをさせ、これぐらいは」
「平山殿。私は清記殿を助けられるのならばと、喜んでしたのです。見返りなど、何もいりませぬ。どうしてもと言うのなら、代わりに十三人を斬った経緯を教えてくだされ。私はそれで十分」
大和の申し出に悌蔵は苦笑したが、少し考える表情をした後に、膝を叩いた。
「よいでしょう。全て始末がついた事でもあるし」
そう言うと、悌蔵は小竹宿でのお役目から端を発した、明義屋忠吉の意趣返しである事を説明した。
「その明義屋というのは?」
「深江藩の商人でございますよ。どうも、杉崎という浪人の色子であったようで。男同士の愛情というのは、女に向けるものと違って、情念が深うございますな」
「深江藩の商人……。悌蔵殿、明義屋の稼業は?」
「書物問屋でしたかな? 深江藩にも納入している大きな店にございますよ」
「なんと」
深江藩の書物問屋。それは、今日の会議で梅岳が言っていた、夜須藩に対する非違を犯し、その償いに借金を棒引きした書物問屋の事ではないか。
「何か察しましたかな?」
「悌蔵殿。これは、全て誰かが仕組んだ事ではないのですかな?」
「さぁ。こうした偶然は時にある事でしょう。ただ、最初に清記が狙われていると、儂に知らせてくださったのは梅岳様。もしかすると、もしやするかもしれませんな」
悌蔵が、これ以上の追及を煙に巻くように一笑した。
梅岳は、杉崎の色子であった男が、夜須藩に金を貸している明義屋と知り、手の者を使って意趣返しをするよう唆し、清記に襲わせたのか? 或いは全ては偶然で、この好機を活かしたのか? どちらにせよ、これ以上考えるのは無意味な事だ。
「それで明義屋は?」
「愚息がわざと逃がしましてのう。明義屋が無腰だと知るや、刀を納めたというのですよ」
「それは何とも……」
「甘いとお思いでしょう?」
「いいや、私には好ましく思えますよ」
御手先役としては相応しくない行為かもしれないが、武士としては好ましい。そして、明義屋の意趣返しは私事である。甘いのかもしれないが、私事ならば見逃す事も許されようというものではないか。
「それは奥寺様らしい。しかし儂は清記に『いずれ、また襲ってくるぞ』と尋ねたんですがね、愚息め『襲って来ぬかもしれまれん』と屁理屈を言うたのです」
「それで、藩が動いたと?」
清記を襲った事を不問にする代わりに、夜須藩の借金を棒引きにし、もう二度と清記を襲わないと約束させた。その為に命を助けたとも考えられるし、一応の辻褄も合う
「いやいや、その辺の政事向きの話はさっぱり。しかし、儂は少し骨折りはいたしました、子の不始末は親の不始末。失敗の尻拭いも、親の務めなれば」
「なれば?」
そう訊くと、
真顔。大和は、思わず息を呑んだ。その目だ。碁石の黒をはめたような、どこまでも黒々とした目。洞穴のようにも思え、その中に吸い込まれそうな心地になる。
(暗い。底なしに暗い)
一体、どういう生を辿れは、こんな目になるのか。この目で標的を睨みつけ、死に至らしめてきたに違いない。その積み重ね、歩んできた
(この男は人間ではない)
異形だ。この男は、人間界に生まれた異形なのだと大和は実感した。そして、清記もいずれはこうなっていくのか。
(それは、余りにも惜しい)
清記は朴訥としているが、一本筋の通った好男子。武士らしい武士で、家人の中には清記を手本として憧れる者も少なくない。故に、闇に堕とすには勿体ない人材である。
しかし、それもまた清記の宿運なのか。御手先役という、秘密裏に働く藩の刺客。平山家はその家系だ。その事を知ったのは、中老になって数年後の事で、梅岳に聞かされた時は驚いた。内住郡代官・平山悌蔵と言えば、人生を謳歌する洒脱な老武士、清記はその父に従う青年剣客と思っていたからだ。
「そこまで言わせますかな、大和様は。いやはや、我が子に害を為した明義屋に
一転し、悌蔵が莞爾として笑った。
「罰ですか」
「ええ、ええ。明日ぐらいには、明義屋に罰が当たったという報が届くでしょうな」
清記が助けた命を、悌蔵が奪う。それが親心なのか、単なる尻拭いなのか、大和にはわからなかった。
〔転章 了〕
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