第五回 十四人の刺客

 明義屋忠吉は、猪口を傾けていた。夜須城下弁分町にある、料亭・秀松。その奥の一間である。

 独りだった。目の前には、酒肴を乗せた一人分の膳が置かれているだけだ。

 深江藩を出て、二十日余り。忠吉は、その殆どを厳重に警備されたこの一間で過ごし、この部屋から手の者を指図して仇である平山清記を探っていたのである。

 内住郡代官の嫡子にして、建花寺流の師範代。剣も使うが、頭も切れる。密偵からの報告を聞く限り、こちらの探索にも勘付いているかもしれないという予感はあった。


(飲み過ぎはいけないが、ついつい飲んでしまうな)


 忠吉は空になった猪口に、再び酒を満たした。夏の終わりとは言え、蒸すような夜だ。中庭の障子は開け放たれているが、風が入ってくる気配は無い。

 この暑さが、酒を旨くする。また猪口を一息で呷ると、思わず喉が鳴った。流石は秀松だ。下野で随一の料亭である。深江にも、これほど隅々にまで行き届いた店はない。

 元々、酒は好きではなかった。すぐに酔ってしまうし、翌日は頭が痛い。下戸なのだ。故になるべく飲まないようにしていたのだが、三十路を迎えて急に旨いと思えるようになった。


(あんたに似てきたのかもしれないね……)


 杉崎孫兵衛。あの男が死んだとの報告を受けた時、忠吉は来るべき時が来てしまったと、思ったものだった。

 十五年前。忠吉は、三谷左近太みつや さこんたという名の浪人だった時に出会った。

 父親は尾張藩士であったが、上役が行った不正をなすりつけられて切腹すると、左近太は浪人となり江戸へ流れた。そこで出会ったのが、杉崎だった。十六歳で何も知らなかった自分に、浪人として生きる知恵を授けてくれた。共に暮らし、危ない橋も共に渡った。そして師弟と呼べる間柄は、いつしか身も心も杉崎に捧げる関係になっていた。

 しかし十年ほど前、忠吉は深江藩滞在中に、役者のような美貌を書物問屋の一人娘に見初められ、入り婿にならないか? と誘われた。

 忠吉は、その誘いを拒否した。浪人とは言えども士分を捨てたくは無かったし、それ以上に杉崎の傍を離れたくなかった。愛していた。杉崎の女になっていたのだ。

 しかし、その杉崎が、


「ここらでお別れだ」


 と、言い放って入り婿になるよう命じた。

 浪人として生きるより、士分を捨てても書物問屋として生きる方が、幸せに決まっている。こんな幸運な事は無いのだと、背中を押したのだ。

 左近太はなおも固辞したが、杉崎も負けじと言い募った。


「お前は若いのだ。自分の人生を歩み直せ。それにお前に何かあれば、俺はいつでも駆けつける。俺に何かあれば、お前が助けてくれ。この誓約がある限り、俺達はいつまでも繋がっている」


 そこまで言われ、もう断りようがなかった。自分に向ける心に、胸が熱くなったのだ。忠吉と名を変えたのはそのすぐ後で、間もなくして杉崎は深江藩から消えた。

 この十年、忠吉は死ぬ気で働いた。そして、深江藩に書物を納入し、夜須藩に銭を貸すまでに身代を大きくした。これほどの成長は、奇跡に近い。杉崎を守る為には、銭と力が必要だった。

 勿論それだけではない。


「浪人だった男に、商売が出来るはずがない」


 そんな周囲からの侮りを、黙らせる為でもあった。

 そうした日々の中で、忠吉は密偵を雇って、杉崎の動向を時折調べさせていた。杉崎が徒党を組み、悪党になっていく様を聞かされる度に、どうにかしてやりたいと思った。実際に、何度か店の用心棒として雇いたいと書状をしたためたが、杉崎が店に現れる事は一度としてなかった。

 今回の訃報は、動向を調べさせていた密偵によってもたらされたものだった。

 驚きは無かった。ただ悲しく、そして怒りが込み上げた。

 忠吉はすぐに立ち上がると、家族には何も言わずに夜須藩へと向かった。明義屋の主人たる地位も、財産も家族も捨てる覚悟をしての旅立ちだった。安寧の生活を手放す事に、後悔は無いわけではなかったが、迷いだけは無かった。お互いに何かあれば、助けに駆け付ける。二人だけの誓約を果たす為なら、命も惜しくは無い。そして、この誓約を果たせた時に始めて、心から〔明義屋忠吉〕になる事が出来る。


「明義屋様」


 襖の向こうで声がしたので、忠吉は猪口を置いて返事をした。自分の世話をしてくれる女中の声だった。


「内又田様がお越しになりました」

「どうぞ、入れてください」


 襖が開くと、筋骨たくましい中年の武士が入ってきた。

 内又田寅次郎うちまただ とらじろう。越州浪人で無外流の剣客である。明義屋の用心棒も務めていて、屋敷の近くで道場も経営している。

 今回の件で、唯一深江で声を掛けた男である。内又田に仇討ちの助太刀をして欲しいと頼むと、


「根無し草だった私を用心棒として雇ってくれただけでなく、道場を持たせてくださった明義屋殿の為ならば、お安い御用ですよ」


 と、その理由も聞かずに加勢を買って出てくれた。それから、助太刀に加える浪人の選別や指図役も、全てこの男に任せている。


「明義屋さん、平山の居所がわかりましたよ」


 内又田は、にこやかな笑みで言い放ち、忠吉の対面に座した。

 剣客ながら、笑顔が多い温和な男だった。それでいて腕も立つ。明義屋の用心棒を頼んでいるのも、その人柄ゆえの事だった。


「おお、それは確かですか」

「ええ、間違いはありません。ちゃんと、確認もしましたよ」


 百人町の別宅にいた清記が、突然姿を消したのは三日前だった。密偵の話では、建花寺村にも戻っていないし、剣術指南役を務める奥寺家にも姿を見せていないという。

 常々清記の行動には目を光らせ、隙を狙っていただけに、突然の失踪は虚を突かれた形になっていた。


「それで、平山は何処に?」

「城下の東、口原郡くちのはらぐん夜臼村ゆうすむらの外れに、廃寺がございましてな。そこに泊まり込んでおります」


 忠吉は、すかさず傍らに置いていた夜須藩内の地図を広げた。城下に置いた指先を、右へなぞる。口原郡の西の端に、夜臼という文字はあった。


「何故、そのような場所に?」

「それが、度々訪れているようなのです。平山の飯の世話をしているという、百姓の小男に聞いたのですが、半年に一度は訪れては、独りで修行をしているとか。私も、変装をして一目覗いたのですが、平山は抜き身を手に数刻ばかり正眼に構えておりました」

「我々を待ち構えてでしょうか?」


 すると、内又田は首を捻った。


「さて、どうでしょうか。しかし若い時は、あんな事でも無性に楽しいと思えるのですよ」

「そんなものが。私にはわかりませんなぁ」

「それが剣客の性なのですよ。私もそうでした」


 内又田は、今年で三十九になった。用心棒として雇ったのは、六年前。もし杉崎がいれば知り合う事はなかったはずだ。


「しかし、理由など大した事ではございますまい。平山を討つは、この機を置いて他はありませんぞ。罠があろうが無かろうが、十三名で押し込めば何とかなりましょう」


 助太刀に雇った浪人は、十二人。内又田を含めれば、十三人だ。多過ぎるかもしれないが、平山は杉崎とその手下を討つほどの手練れ。用心に越した事はない。だが――。


「十四名ですぞ、内又田さん。私も夜臼村へ行きますぞ」

「何を仰られる。明義屋さんはここにいて、平山の首を待っていればよいのです」

「いいや、これだけは引けません。もし命じるだけでございましたら、私は夜須になぞ来ませんよ。せめて、平山が息絶えるその時を見届けねば」


 すると、内又田は仕方がないという風に首を振った。


「では、隠れていてくださいよ。平山は、中々の使い手です。万が一もあり得ます」

「わかっております」

「それと、得物は持たぬ事。仮に明義屋さんだけになった時、あなたが無腰であれば、平山はあなたを斬りません。そんな男だと私は見ています」

「しかし、もしも襲って来た時は?」

「その時は念仏を唱えるのです。襲って来た平山を、例え鉄砲を持っていたとしても、明義屋さんは止められませんよ」


 悪い冗談だと思ったが、忠吉は内又田と声を合わせて笑い飛ばした。

 剣は得意ではない。浪人時代は、いつも杉崎に助けてもらっていたほどだ。


「では明義屋さん、決行は明日でよろしいですね」

「ええ」

「わかりました。それでは、私は残りの十二人に報せてまいります」


 内又田が出て行き忠吉は一人になると、再び猪口に酒を満たした。

 手に取る。猪口に注いだ酒の水面に、杉崎の鼻梁が通った白い顔が浮かんだ。

 忠吉は、顎に手をやった。剃り残した髭の、硬い感触が指の腹を刺した。

 杉崎の顔は昔のままだ。自分だけが、歳を取った。役者のような美貌を愛されたが、この十年の苦労でただの小父おじさんになってしまった。

 こんな醜い姿を、杉崎には見せたくない。しかし、それでも願う事は一つだった。


(もうすぐ、あんたの仇を討つ事が出来るよ)


 今夜は酔いの中で、かつて愛した男に逢えそうな気がした。


〔第五回 了〕

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