あの人は……

 あの人は、私の主人だった。

 生まれた月日も近く、歳も近しかった。

 大した違いは無かった。

 だが、私とあの人は立場が違かった。

 私は惨めな使用人(メイド)。あの人はとある商家の一人息子。

 歳が近かろうとも、立場の大きな違いが私のことを惨めに感じさせる。

 だけど、小さな頃からあの人の下で支え、隣に立っていた私は心のどこかでは誇りだと思っていた。

 この誇りはあの人も知っています。

 歳を重ね、いつの日か私はあの人に対して誇りから愛へと変わっていた。

 窓辺で真剣に勉学を励むあの人。

 中庭で大粒の汗を流しながらも、手拭を渡す私に対して優しく微笑むあの人。

 時にはあの人が何かに失敗した時も、私はあの人と共に罪を償い、庇ったときだってあった。

 ある時には、野営をした時に護衛の者と離れ離れになった時も、私はあの人が体を壊さない様に小枝を集め、焚火をした時もありました。

 そんな、あの人の様々な表情が私の脳裏に焼き付いた。

 どんなに辛くとも、悲しくとも、あの人と共に入れることに安らぎを覚えていた。

 あの人が隣国の同じ年齢の貴族の息子に説教し、親から感謝の言葉と新たな流通先を手に入れていた。

 それだけではなく、様々な物に何かの等価交換と御恩と奉公が繰り返された。

 だが、誰も私に対して礼を言わない。あの人もだ。

 説教の為の言葉を考え、新たな情報を手に入れ、誰も気付かな周辺の些細な変化にさえも私は気付きあの人の耳元に入れた。

 のに、誰にも礼を言われなかった。

 使用人だからだろうか。それが当たり前だからだろうか。

 そんなある時でした。

 とある赤い木々に囲まれた国で、あの人が商談をこなした後、大きな木の下に呼ばれました。

 爛々と輝く秋の森の中で、あの人は口を開き、こう言ったのです。


「お前にはお世話になるね。当然、お前の寂しさや苦しみも分かっている。寂しさを人に分かって貰おうとして、顔色を変えているだけだが、お前は寂しい時も苦しい時も、誰よりも早く目を覚まし、顔を洗い顔に膏を塗って、微笑んでいると良い。寂しさは、人に分かって貰わなくても、どこか目に見えない所にいる誰かが、分かってくれるさ。それじゃあ、駄目かな? それに誰だって寂しい、と言う気持ちはあるよ」


 あの人は焔のように染まった木の下で燃え上がるように、そう言ってくれました。

 そのような、あの人に対して、私は……。


「いいえ、良いのです。貴方様が分かってくれるのでしたら、それでよろしいのです。私は貴方様を愛しております。他の誰であろうとも、この愛は深く燃えております。

 チェコやエプロたちは、ただ、貴方様について歩いて、貴方様が商談を成功させることのみ考えておるのです。

 それがどのような利益、不利益を生むのか分かって降りません。

 ですが、私は貴方様に離れることはありません。いえ、できません。

 貴方様がこの世から消えると言われれば、私もすぐに追いかけ消えます。

 生きていることができません。

 私には、いつも一人でこっそり考える時があるのです。それは貴方様が、あの何も考えていない者たちから離れて、商人としての生もやめ、つつましく田舎の端くれの青年として生きるとなるのでしたら私も付いて行き、貴方様を支え物静かな一生を長く暮らしてい事です。

 私の村には、まだ私の小さな家が残っております。年は取りましたがまだ若い父も母もおります。

 ずいぶん広い林檎畑もあります。秋の今頃には、一面、みごとなぶどうがたくさんなります。一生、安心して御暮しできます。私はいつまでも貴方様のおそばについて、御奉公申し上げたいと思っております。

 よい奥様を御貰いなさいまし」


 と、私が言うと、あの人は、薄く笑みを浮かべこう言ったのです。


「チェコやエプロは漁師だ。美しい葡萄の畑も無い。クラウスもリリックも貧しい漁師の家だ。あの人たちにも、そのような、一生安心して暮らせるような場所を僕は与えたい」


 そう小さくも低い独り言のように呟き、また赤い葉の成る木々の下を歩いて行ったのです。

 これが後にも先にも、あの人と、しんみりと御話できたのはあの一度きりでした。

 結局、私はあの人とと真に打ち解ける事は無かった。

 私はあの人を愛している。

 あの人が死ねば、私も一緒に死ぬのだ。

 あの人は誰のものではない。私のものだ。

 あの人が誰かの手に渡るのなら、私があの人を殺そう。

 父を捨て、母も捨て、生まれた大地も捨てて、私は今日もまた、あの人について歩いた。

 私はあの人の言う安息の場所を信じない。

 神も王も信じない。

 あの人が再び伝説として蘇るという噂も信じない。

 あの人が例え神にされようとも私はそのようなあの人を信じない。

 なんであの人が、商人の家の一人息子として生まれ、馬鹿な配下と貴族たちに囲まれ生きているのだろうか。

 あの人の万民の為の商人の話を聞いても、浅ましくも、欣喜雀躍としている。

 今にがっかりするのが、私のも分かること。

 己を高貴と述べるものを諫め、卑屈な者たちに無償な金を分け与える奉仕を、あの人は約束なされたが、世の中、そのように甘く言ってたまるものか。

 あの人は嘘つきです。

 いう事言う事、一から十まで出鱈目です。

 私はてんで信じられない。けれども、

 私は、あの人の美しさだけを信じている。

 あのような美しい人はこの世に無い。

 私はあの人の美しさを、努力を、純粋に愛している。

 それだけだ。

 私は、何の報酬も見返りも考えていない。

 あの人についてゆき、やがてあの人の言う安息の場所を作り、その時こそは、あっぱれ右大臣、左大臣になってやろうとも考えていない。そのようなさもしい根性は持ち合わせてはいない。

 私は、ただ、あの人から離れたくないだけ。

 ただ、あの人の傍にいて、あの人の声を聞き、あの人の姿を眺めていればそれでいいのです。

 そうして、出来ればあの人に商人の道などを辞してもらい、私と立った二人きりで一生長く生きて貰いたいのです。

 あぁ、そうなったらどれほど幸せなのでしょう。

 私は今、ここの、現世の喜びだけを信じる。

 来世や、いつ来るの分からない神の審判などに、期待なんてしてはいない。

 私のこの無償の奉仕純粋な愛情を、どうして受け取ってくれないのか。あぁ、あぁ!

 誰かあの人を殺してくださいまし!

 誰かあの人を殺してください!

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