第一章 祝福の鐘は丑三つ時に鳴る(8)

 無人の校舎を、ずぶ濡れの少女と剣を携えながら駆け抜ける。

「ほんとにいたんだ」

 不意に、天束が呟いた。

「あれ、プール男でしょ?」

「は?」

 知らない呼称を出されたが、今はそれについて詳しく問いただしている時間はない。

「ってか、おねえちゃんって何?」

「説明すると長いけども……」

「長そうだねー、確かに」

 天束はやけに楽しそうだった。

 背後から迫ってくるヒタヒタという足音を感じながら、俺が向かったのはトイレだった。

『無駄です!』

 絶望した使者の声が、脳裏に響く。

『プールの水だけではないのです! 一度力を取り戻せば、水を扱える場所ならどこでも魔人は能力を使用することができます。その場所には豊富な水があるでしょう、しかも逃げ場のない密室です!』

「それ、どうやって喋ってんだよ」

『あなたの手にある剣を介して繋がっています。追いつかれたら終わりですよ、弟くん』

 俺が天束の手を引きながら飛び込んだのは、女子トイレだった。奥から二番目の個室へと天束をぶち込み、自分も入って後ろ手に扉を閉める。

「はっ────」

 後ずさりした天束が、どさっと蓋がしまった便座に尻もちをつく。それと同時に、迫っていた足音がぴたりとトイレの前で止まった。

「無駄なんだがなあ」

 水の魔人が、使者と同じことを言う。ひた、と吸いつくような足音。手洗い場の蛇口が自然に開いた音。

「ここは、好条件。──【第八】より《奏》する」

 水音。

「【水龍】の《蹂躙する舌》として《捧》ぐ」

 足元に冷たい感触が当たる。俺たちが隠れている個室の床が、浸水していた。天束が小さな悲鳴を上げて、両足を便座の上に避難させる。しかし水位はみるみる上がり、あっという間に俺の腰まで浸水が進んでいた。

「このまま君たちを呑み込んでしまおうと思う。もちろん大事な『元凶』を殺したら葉桜様の怒りを買うから、溺れさせるのはそっちの子だけ」

 軽やかに嗤う男の声が、トイレに響いた。

「俺の『条件』は、この学校の生徒を溺れさせることだ。なぁに、死んでからプールに浮かべておけばどこで溺れたかなんて分からんだろ」

 その瞬間、脳裏に使者の声が響いた。

『【聖櫃】として──《融合》する』

 あまつかりようの体に纏わりつくように水が這う。俺が手にしていた剣が、勝手に動いた。俺の意思とは関係なく、銀色の切っ先が俺の方へと向く。自分で自分の喉を狙うような体勢になった。

『【聖櫃】の【所有者】──より《逸脱》し──その頸を【一閃】する』

 試験監督が業を煮やし始めたのだろうなと勘付いた。

「聞こえてる?」

 俺が尋ねると、剣の動きがぴたりと止まった。

『……もう待てません。あなたを排除して、彼女を守ります』

「その前に質問させて。異能や魔法がこっちの人々に『ある』と認識されれば、それらの異形がこちらの世界でも顕現するんだよな」

『そ、その通りです。人々の噂が大きければ大きいほど、そのイメージを広く強く認識されればされるほど、私たちはこの世界に大きな力を作用させることができます』

 使者の声が、耳の奥に響く。

『先ほど、葉桜様はこの学校の敷地内に〈門〉を開きました。つまりこの学校の中においては、人々の噂によって知れ渡った者たちが顕現できるということです』

 噂が大きければ大きいほど、魔人たちの力は強くなる。

 だとしたら──

「天束」

 水の檻に包まれそうになっている天束に、俺は尋ねた。

「俺の代わりに、あれを倒してくれないか?」

「はあ?」

 あまつかりようが一笑した。

「頭沸いてんの!? 無理無理、馬鹿じゃん無理に決まってるじゃん!」

 水の魔人には聞こえないような小声だったが、俺の脳裏に直接声を届けている使者には問題なく聞こえたらしい。

『あなた、何をする気です?』

「俺は何もしない。使者、さっきまでの説明に偽りはないな? 噂が広く認識されている異形が、より大きな力を得るっていう」

『え、ええ、その通りですが……』

「天束、さっきプールで浮かんでいたよな。天束は一度死んだはずだ、だからあの魔人を倒せる」

「ちょっ、待って笈川くん、さっきから君は何を言って──」

 広く認識されている方が強い。

 だとしたら、日本中の誰もが知っている『異形』ならどうだ?

「遊ぼうか」

 俺は、言った。

 当惑する天束に、重ねて尋ねる。

「遊びましょ」

「はああー?」

 魔人の呆れたような声が聞こえる。

「おかしくなったのか? 何を言っているんだよ」

「《遊》びましょう」

 執拗に、俺は繰り返す。

 放課後の校舎に一人だけ残っていた少女。学校に現れた不審者に殺された。校舎のトイレに出没する。

 条件は合うのだ。今のあまつかりように。

 俺は、言った。

「【花子】さん、《遊》びましょう」

 天束がハッと目を見開く。

 名前を口にしただけで全てが伝わるのだから、やはり『彼女』の噂の浸透度は群を抜いている。

 半信半疑の表情で、しかし瞳の奥に何故か────好奇の光を滲ませながら。

「いいよ」

 天束は、嗤った。

「何して《遊》ぶ?」

 剣の柄にかかっていたリボンが、大きく揺れる。

 その瞬間、俺たちを包んでいた水の檻が霧散した。


   ***


「弟くん!」

 その声で、俺はハッと我に返った。

「開けてください、鍵!」

 ガンガンと個室の扉を外側から叩かれている。俺たちの体に侵食していた水は消失していた。床も完全に乾いていて、その場には一滴の雫もない。

「あなた、何をしたのですか。先ほど、涼さん自身から凄まじい魔力の気配が放たれたのです。正体不明の刹那的な魔力に、水の魔人は異世界へと強制送還されました」

 葉桜は支配者として異世界人たちを守らなければならない。正体不明の異形を前にして、葉桜は水の魔人を異世界に引き戻すしかなかったのだろう。

「ですが、あれは目の錯覚のようなものですね。あまりにも認識が強く持たれていたので、一瞬涼さん自身が異形の力を得たのかと思いました。何ですか、今の」

 使者の問いかけに、俺は「いや……」と間を置いて、

「都市伝説を実現させたら向こうの勝ちなら、その途中で別の都市伝説を重ねてしまうのはどうだろうって思ったんだけども……」 

「別の? 今のが?」

「今、俺と天束が実行した都市伝説は、自然に発生するんじゃなくて襲われる側がわざと化物を呼ぶための呪文?みたいなものを唱えなきゃいけないんだ。こっちの世界の人が呼ばないと発生しない都市伝説だから、葉桜も選ばなかったんだろうと思う。でも、こっちの世界でなら誰でも知ってるような話。プールの化物なんかよりもずっと」

 現在の出来事を別の都市伝説に上書きしたから、水の魔人は自分の都市伝説を再現できなくなった。

 使者は小さく嘆息した。

「〈門〉が閉じました。水の魔人が倒されたことで、葉桜様が自ら閉門したのかと」

 使者は滔々と語った。

「今日のことはほんの小手調べでしょう。さっき水の魔人が消えたのも、こちらの世界に対して警戒していたから、水の魔人も涼さんが本当に異能を持った化け物かどうか確かめずに、即座に魔力を解いてしまったのでしょう。しかし、葉桜様は何があっても自分の望みを叶える方です。この学校ごとあなたを異世界に引きずり込むまで、絶対に侵攻をやめません」

「だろうな」

 水の魔人は、本気であまつかりようを殺そうとしていた。このままだと葉桜は、本当に無関係の人間たちごとこちらの世界を征服するのだろう。

「葉桜様はこれから、異世界の力をこちらの世界の人々に認めさせるために、この学校を拠点として様々な怪奇現象を起こすはずです。今日の水の魔人のように、こちらの世界の人間たちを襲って噂を広めようとすることでしょう」

 学校の生徒たちに魔力や異能が広く認識されれば、葉桜が学校ごと異世界へと強制召喚してしまう。

「止められますか、弟くん」

 おいかわざくらの侵攻を、止めなければならない。

 俺の大事な姉を、そんな災厄にするわけにはいかない。

「でもそれを判断するのは、俺じゃないだろ」

 自棄気味に呟いてみたら、使者は「……そ」と妙に間を開けて言葉を紡いだ。

「そ、うですね。あなたは一度、異世界の魔人に勝ちました。二度目を信じてもいいのかもしれません」

「まどろっこしいな。俺の暗殺は延期ってことでいいんだよな?」

「……現時点では。あなたが、有用な限りは」

 本当にまどろっこしい。俺が嘆息すると、くいっと軽くブレザーの裾を引かれた。

「ねえ。説明してよ、いい加減」

 ずぶ濡れになった天束が、恨めしげにこちらを見上げている。

「説明してもいいのか?」

 扉の向こうの使者に尋ねると、「その前に開けてください」と扉を強く叩かれた。それもそうだ。扉の鍵を開けると、外開きの扉の向こうに使者が立っていた。

「……本当に、もう」

 子供の悪行に愛想を尽かすように、使者は嘆息した。


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試し読みは以上です。


続きは2021年12月24日(金)発売

『お姉ちゃんといっしょに異世界を支配して幸せな家庭を築きましょ?』でお楽しみください!


※本ページ内の文章は制作中のものです。製品版と一部異なる場合があります。

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