その声を

いと

第1話

最近、夢を見る。



辺りは暗闇で、何も見えない。


手も足も動かすことができない。


ただふわふわと漂っている。


それがなんだか、心地良い。



そんな夢をしばしば見るのである。

あまりに心地良いので、このままでいたいだなんて思うことだってある。何かが憂鬱で、こんな夢を見るのだろうか。


「おはよ!」


紗弥サヤが白米を口いっぱいに詰め込みながら言う。暗めの茶色で鎖骨の下まである髪を一つに綺麗にまとめ、グレーのスーツを着て、既にいつでも仕事に行けるような格好だ。


「おはよう。ほんと朝からよく食べるな。」


「朝のエネルギー量で1日が決まるんだよ!あと朝ごはんって響きが好き!」


「なんだそれ。食べ過ぎて腹きつくなるぞ。」


「最近ちょっと痩せたから大丈夫!」


紗弥は時計をチラッと見ると、急いで食べ終え、食器をシンクへ置く。


「じゃあ、私行ってくるから!遅刻しないようにね!」


「ん。いってらっしゃい。」


紗弥がバタバタと家を飛び出すと、とたんに静寂な室内になる。忙しない奴だな、と笑いながら納豆をかき混ぜた。



俺は紗弥と大学で出会い、2年前に結婚した。それから俺の転勤で、半年前に2人でここへやってきた。前の地よりは田舎だが、不便とは感じない。小さなアパートで、共働きで暮らしている。それなりに幸せだ。


だが、新しい勤務先では、周りとなかなか馴染めず少し浮いている。また、何も知らないことをいいことに、「これが普通の量だ」と最初から大量の仕事を押し付けられる。その間上司や同僚はゆっくりお茶をしている。俺は気が強い方ではないので、何も言えずにひたすら仕事をしているのだ。


仕事から逃げ出したいと思い始めた時くらいから、あの心地良い夢を見るようになった。心が少し病んでしまったのだろうか。夢占いでもしてみようかと思いながら、今日も仕事へ向かう。



「おはようございます」


「あ、おはよー」


「おはようございまーす」


あちこちで挨拶が交わされる。俺もひと通り挨拶を済ませ、席につく。


暖大ハルタさん!おはよーございます!」


「あ、うん、おはよう。」


「コーヒー入れました!どうぞ!あとチョコレート、いりますか?甘いものは頭が冴えるんですよー!」


「あ、ありがとう。コーヒーだけもらうね。」


忘れてた。会社で浮いている原因の1つに、この子がいた。俺より5つ年下の24歳。2年目の事務員、野中さん。可愛くて会社で人気者の彼女が俺にだけぐいぐい来るので、妬ましく思われている。俺が結婚してるの知ってるし、ただでさえ浮いているのに…勘弁してほしい。10分ほど話してやっと満足したのか、自分の仕事に戻っていった。


「森山、今日も彼女ぐいぐいだったな。」


「なんで俺なんだよ…勘弁してくれ。」


彼は唯一会社で気兼ねなく話せる同僚、佐々木。同じタイミングで別の支社から異動してきた。入社のタイミングも同じで彼のことは前から知っていた。仕事は俺の100倍できる。

おまけにスタイル抜群でイケメンだ。彼は時間が空くと、俺の仕事をこっそり手伝ってくれている。


「あれ、本気でお前狙ってんのかな。略奪愛に燃えるってやつ?」


「そしたら、いよいよ俺の居場所なくなるわ。」


「俺、お前いなくなったらココ辞めるよ?お前いないと無理だもん、こんなとこ。私一生ついてくカラ!」


佐々木がふざけて俺にくっつく。


「お前まで勘弁してくれよ…笑」


まぁでも俺はお前のおかげでこの会社にいられる。恥ずかしいので一生言わないが。




今日も押し付けられた仕事を必死でこなし、帰路につく。


「はぁ。疲れた…」


ため息をつきながら俯いたその時、ドンッと誰かとぶつかった。


「あっ、すみません。」


「ごめんなさいっ。」


緑のニット帽を被り、黒縁のメガネをかけた、おとなしそうな女性がさっと謝り、そそくさと去っていった。ふと下を見ると、ハンカチが。ベタすぎる。


「あっ…」


もう遅かった。彼女は角を曲がったようで、姿が見えなかった。どうしようか考えて、とりあえず明日の朝会社近くの交番に届けることにした。



その日の夜、また夢を見た。


また、あの、心地良い夢。


ふわふわ。ふわふわ。


ただただ、漂う。


ああ、もう少し。もう少しだけ。


そんな願いを夢にこめた刹那、



胸がぐっと苦しくなった。




「おかしいな…」


俺は朝食を食べながら、昨日の夢のことをずっと考えていた。


「何が?」


紗弥が言う。今日は俺が早く起きたので、朝食のタイミングが一緒だ。


「いや、最近心地いい同じ夢を何度も見るんだけど、昨日はちょっと変わっちゃってさ…。」


「へぇ〜。同じ夢見るってすごいね!てか私なんか夢なんてすぐ忘れちゃうよ!あ、でもこの間めちゃくちゃホラーな夢見たわ!」


「ホラーって…どんな夢だった?」


「んとね…んー、あんま覚えてないけど、人形がぐわってきてさ!」


「ホラー感伝わんねー笑」


紗弥と話していると、悩みや考え事もどうでもよくなってしまう。


「あ、やば!今日ゴミの日じゃん!まとめてない!急がなきゃ!」


今日も紗弥は慌しく朝食を食べ終え、キッチンへ向かった。


「ありがとう。皿洗いやっとく。」


「素敵な旦那様!ありがとう!」


俺も朝食を終え、キッチンへ向かった。




交番へ昨日のハンカチを届けるため、いつもより少し早く家を出た。会社へは電車で通っている。駅を出てしばらく歩くと、声をかけられた。



「あのっ、すみません…」


「あっ!昨日の…!」


昨日ぶつかった彼女だった。昨日と同じニット帽を被っていたので、すぐにわかった。こんな偶然あるのか。


「すみません、昨日、ハンカチ落としちゃったみたいで、探してたんですけど、偶然あなたを見かけたので、あの…」


「よかった。これ、交番に届けようとしてたんだ。」


カバンからハンカチを取り出し、彼女へ手渡す。


「あ、ありがとうございますっ…」


ハンカチを持ちながら、彼女は静止した。


「あっ…あのっ、何かお礼がしたいんですけど…」


「えっ?いや、そんな、気を遣わないでください!会社に行くついでにって思っただけですから」


「そ、そうですか…。…いや、でもっ、どうか、お願いします!」


「いや、ほんとに大丈夫ですって!」


「お時間とらせませんので!お願いします!お願いします!」


彼女は顔を真っ赤にしながら、何度も頭を下げる。俺が悪いことをしているみたいで、周囲の視線がとても気になった。


「うぅ…じ、じゃあ、お昼でも…」


彼女は顔がぱぁっと明るくなり、心から喜んでいるようだった。


「あ、ありがとうございます!よろしくお願いします!」


よろしくって何だ。困ったな。でも断ることもできないので、とりあえず連絡先を交換した。



そして、午前の業務が終わった。


「森山、メシ行こうぜ。今日はラーメ」


「悪い。今日ちょっと用事あるんだ。」


「あ?用事?メシ時に?なんかあったの?」


「いや、たいした用じゃない。とにかくラーメンは明日な。」


「えー、じゃあ俺ぼっち飯じゃん!そんなのつらいー!置いてくなー!」


俺は笑いながら謝り、そそくさと会社を出た。すると、彼女から電話が。


「もしもし」


「あっ、もしもし、あの、三谷です。」


「どうも。これからどこに向かえばいいですか?」


俺は指定された喫茶店へ向かった。会社から歩いて5分ほどの距離だ。彼女は喫茶店の前で待っていた。


「お忙しいのに、すみません」


「いや、大丈夫だよ。とりあえず入りましょう。」


初めて入る喫茶店で、照明は薄暗く、落ち着いた雰囲気である。女性客が多く、そこそこ混雑していた。俺達は窓側の席に座った。大きな窓から会社が見える。


「ここ、サンドイッチがおいしいんです。このランチセットがオススメです。」


「よく来るんですね。じゃあそれにしようかな。」


ランチを頼み、待つ間、お互いの話になった。


「森山さんは、お仕事は何をされてるんですか?」


「普通にサラリーマンやってます。三谷さんは?」


「私は画家をやってます。」


「画家!?すごいですね!どんな絵を描くんですか?」


「そんな、たいしたものは描けないんですけど…人物画とか、風景画とか…その時の感情に任せて、いろいろ自由に描いてます。」


「すごいなぁ。展示とかもするんですか?」


「一度個展をやったことはあるんですけど…やっぱり壁が高くて…今はイラストとか似顔絵を描いたり、小さな展覧会に出させてもらったりしてます。」


「へぇ〜、やっぱすごいですね。」


「いえ…あの、森山さんは、今のお仕事は長いんですか?」


「まぁ、仕事的には長いんですけど、転勤で最近ここに来ました。だからあんまり土地勘なくて…」


しまった。余計なことを口走った。


「あっ、、じゃあ、私、ここ長いのでいろいろ案内しますよ!安いスーパーとか、良い病院とか、大事ですよね?」


食い気味でぐいぐいと提案された。うーん…この子…いや、別に、自意識過剰なわけではないけど、いやでも…俺のこと…


「ごめん、俺、結婚してるから、2人で、とかはちょっと…」


「あっ…そうです、よね、ごめんなさい…私1人で盛り上がっちゃって…バカだぁ…」


「いや、心遣いは嬉しいよ、ありがとう」


「…森山さんは優しいですね。とっても素敵な人です。」


「いや…そんなことないよ。三谷さんは思ったことをちゃんと言えるタイプなんだね。」


「いえっ…そんなことないです…でも森山さんには思わず気持ちを口に出してしまいます…」


三谷さんは、顔を赤らめた。


「あ、はは…そっか…」


この子意外と折れないしぐいぐいくるな。そんなことを思っていると、やっと料理が来た。


「おいしそうだ。早速、いただきます。」


俺は逃げるように食べることに集中した。



「今日は、ほんとにありがとうございました。」


「いえ、こちらこそ。ランチ、ごちそうさまです。」


「いえいえ!…あの、森山さん、もし良かったら、その、お友達になってくれませんか…?」


「友達?」


「はっ、はい…。私、友達があまりいなくて…。お願いしますっ…!」


勢いよく頭を下げられた。うーん…まぁ、友達になったところで連絡もそう取らないし、いっか。と、軽く考え返事をした。


「いいですよ。」


「…!ありがとうございます!また連絡します!じゃあ、また!」


今度はペコッと頭を下げ、走って俺の会社の反対側へ走っていった。…また連絡するって?じゃあまた?…困った。言い逃げされた気分になった。


会社に戻ると予想通り、佐々木の質問攻めにあったが、いろいろめんどくさかったので、銀行に用があったと適当に嘘をついて仕事に戻った。



仕事からの帰り道、三谷さんのことを紗弥に言おうかずっと迷っていた。基本的にモテない俺である。こんなことを経験するだなんて思っていない。こういう時どうするか、全く考えていなかったのだ。(野中さんは、俺のことを本気で好きだと思ってないので、特に気にしていなかった)

言ったら、紗弥はどう思うだろう?やっぱり悲しかったり苛立ったりするのだろうか。


「でも、隠しててもいいことない。言おう。」


家の前で小さく呟き、玄関のドアを開けた。


「ただいま」


「おかえり!ごめん、今日遅くなっちゃって、お総菜にしちゃった!」


紗弥は仕事ができ、職場もいい環境なので、いつも定時で帰る。だからいつもは家に着くのが俺より2時間ほど早い。


「いいよ、ありがとう。先に風呂入ってくる?」


「んー、だんちゃん先に入っていいよ!私洗濯取り込むから!」


「わかった。ありがとう。すぐ出るよ。」


「今日はお総菜なのでごゆっくり〜!」


紗弥は俺のことを"だんちゃん"と呼ぶ。大学の時からずっとそうだ。暖大の暖から来ている。こう呼ぶのは今も昔も紗弥だけだ。


2人とも風呂を済ませ、惣菜のコロッケを食べながら、俺は三谷さんのことを話した。


「あのさ、昨日今日ってちょっと困ったことがあってさ」


「困ったこと?どしたの?」


「昨日の仕事帰り、女の人とぶつかっちゃってさ。その時、その人がハンカチ落としたんだ。そのままにしとくのもなーって思って、今日の朝交番に届けようとしたんだ。」


「そうなんだ!ほっとけないとこ、だんちゃんぽいわー。」


「んで、今日の朝、駅で偶然その人に会って、ハンカチ渡したんだけど、お礼させてほしいって聞かなくてさ。人目も気になったし、昼飯おごってもらったんだ。」


「ええ〜!2人でランチしたの!?私という嫁がいながら…」


「ごめんって。断りきれなくて。それに、ちゃんと結婚してるって話したし。でも、友達になってほしいって言われて…。もう連絡するつもりないし、軽くいいよって言っちゃって…」


「うぅ…」


「でもほんとに俺は連絡するつもりないよ。だから困ってるって言った。」


「そうかあ。じゃあ…まぁ何か起こったわけでもないし…あ、でも怪しかったらすぐ聞くからね!」


「わかった。まぁ…その…」


「ん?何?」


「…とにかく、俺は絶対に浮気しない!」


「えー?何ためらったの!?ちょいー!」


俺は紗弥が好きだから、紗弥だけだから、だなんて、やっぱり言えなかった。



寝る直前に、一件のメッセージが入った。三谷さんからだった。


こんばんは。今日はありがとうございました。とても楽しかったです!またご飯行かせてください!


もう連絡しないって決めたんだ。俺はスルーして寝ることにした。




そして、またあの夢を見た。


心地良く、暗闇を、ふわり。ふわり。


しかし、心地良さはすぐに消えた。


違和感。


自分の世界に何か入り込んできたような。


少し恐怖にも似た違和感。


…恐怖。何がこわい?


暗闇。自分以外何もない。


こわいものは何もない。はずなのに。


恐怖という言葉がしっくりくる。


この日の夢は、俺を疲れさせた。




やっぱり、おかしい。何故夢が変わってしまったのか。また今日も嫌な夢になってしまうのか。何故。嫌だ。俺の、幸せを、奪わないでくれ…。


「どした?顔色悪いよ?」


紗弥が心配そうに顔を覗き込む。


「いや、昨日、あんまり眠れなかったんだ…」


夢のことばかり考えてしまい、無表情で会話をする。


「疲れが溜まってるのかな。あんま無理しないでね。」


「うん。」


疲れているから夢が変わったのか?それとも、環境の変化?心境?精神的な限界?

…もうこれ以上、変わってほしくない。



仕事は大変で浮いてはいるが、佐々木がいるし、限界という程ではない。

私生活も、紗弥と楽しくやっている。

何が原因なのか。

…もしかして、三谷さんのことだろうか。



「森ちゃん、どしたの。」


佐々木が声をかけてきた。

夢のことを考えすぎて、仕事が手についていなかったようだ。


「あぁ、いや、ちょっと寝不足で…。」


「なに、夫婦喧嘩でもした?あ、それとも遅くまで仲良ししたん?」


佐々木がニヤニヤと聞いてくる。


「ちげーよ。お前じゃあるまいし。」


「俺はたしかにイケメンでモテるが、しっかり節度ある人間だ。」


「自分で言うなよ…笑」



仕事が終わり、家に着く。

すると、スマホのメッセージ受信音が鳴った。


お疲れ様です。

もうご帰宅でしょうか?

実は、少し大きな展覧会で

絵を飾ることになりました。

良かったら、観に来てください。



…三谷さんだ。展覧会のURLが付いている。

見てみると、会社から近い場所らしい。


でも、連絡はしないと決めたんだ。

応援したい気持ちはあり、少し心苦しかったが、このメッセージもスルーすることにした。




また夢を見た。



ふわり。ふわり。


心地良いが、このまま続いてくれるか不安もある。



ふわり。



ふわり。



すると、やはり違和感が。


…誰かが入ってきている。


苦しい。苦しい。息が詰まる。


…ブクッ。


口から気泡が出てきた。


まるで、水の中にいるようだ。


…ブクッ。ブクブクッ…


息ができない。苦しい。



「…て………て……!」



誰かの声が聞こえる。女性の声だ。

誰だ?

何て言った?



苦しみながら、朝を迎えた。


「ちょ、だんちゃん大丈夫!?顔色悪いよ!?」


紗弥が心配する。紗弥の表情から察するに、余程顔色が悪いらしい。


「ちょっと体調悪いみたい。」


「熱はある?」


「うーん、微熱だと思う。」


「今日は会社休みなよ!ね?」


「うん…でも…」


「でもじゃない!たった一回の休みで居辛くなるような会社、辞めちゃっていいんだから!だから、ゆっくり休んで。」


「…わかった。ありがとう。」



俺は会社を休むことにした。

だが、恐怖で眠ることはできなかった。

しばらくして、佐々木からメッセージが入る。



俺が色々やっとくから、仕事のことは気にせずゆっくり休め。



本当にありがたい。佐々木がいてくれて良かった。今度お礼をしなくちゃ…。


…でもまずは眠れるようにならなければ。

あの声は誰の声だったのだろう。

聞き覚えのある声だった。

だが、声が小さすぎて、判別できなかった。

誰だろうか…。

母親、紗弥、野中さん、三谷さん…


そして、その声の主は、

何故俺の夢に入ってきたのだろう。

それに、あの水の中のような感覚…

俺はずっと、水の中を漂っていたのか…?



何かメッセージがあるに違いない。

「水」や「声」、「苦しい」等のワードで夢占いをしてみた。

心に余裕がないとか、トラブルに巻き込まれるとか…警告夢という結果が多かった。


これから、自分の身に何か起こるのだろうか…。


考えごとばかりしていると、気付けば夕方になっていた。


––ガチャ。


「ただいまぁ。」


紗弥が帰ってきた。


「おかえり。」


「具合、どう?」


「朝よりは良くなったよ。」


「そっか…。明日も無理しなくていいからね?」


「うん。」


夕食は、たまご粥を作ってくれた。

粥の温かさが、身体に染み渡った。

少し、体力が回復してきたように思う。



そして、風呂を済ませ、寝る支度をする。


ベッドに入ると、不安でいっぱいになった。


「今日はだんちゃんが寝られるまで、ぎゅってしててあげるよ。」


紗弥が俺を包み込む。

そして頭を撫でた。


不思議と安心した。

気持ちが満たされ、

だんだん眠くなってくる。



そして、またあの夢を見る。



ふわり。ふわり。



––ドクンッ。ドクンッ。



ふわふわ。ふわり。



––ドクンッ。ドクンッ。



「……!」



苦しい。息ができない。


俺は身体をばたつかせる。


ぶくぶくと、気泡が現れる。


「…て!………ん……て…!」


声だ。

昨日よりも少しはっきり聞こえる。


耳を澄ます。一体、誰の声だ…?


「…て!……ん………お………!」



…!

声の主がわかった。






声の主は………紗弥だ。




朝。


俺はベッドから起き、リビングへ向かう。



「おはよう。体調はどう?」


「……。」


「…だんちゃん?」


「最近、夜、俺に何かしてる?」


「え?なんにもしてないけど…。」


「寝相が悪くなったとか。」


「それも特に感じないけど…もしかして私、だんちゃんの上に乗っちゃってた!?」


「いや、知らないけど。俺、今日ソファで寝てみるから。あと、今日も休む。」



––バタンッ。


紗弥に苛立ちをぶつけてしまった。

悪夢の原因が紗弥かもしれないという可能性が頭によぎった瞬間、彼女に対して不信感を抱いてしまった。

紗弥は、隠れて俺に何かしているのか…?

何かを隠してる…?



「…いってくるね。」


小さな声が聞こえた。俺は返事をしなかった。


––ガチャ。


紗弥が仕事へ出て行ったようだ。



家にいると苛立ちや考え事が止まらない。

ふと、三谷さんの展覧会を思い出した。


「三谷さんの絵、観に行ってみるか…。」


俺は会場へ向かった。





会場に着くと、様々な絵が飾られており、人もそこそこ多かった。

三谷さんの絵を探す。



「…あった。」



夕焼け空の絵だった。

暖かい色の光が、山や街を優しく照らす、そんな絵だった。そして、どこか懐かしいような絵だった。


不思議と心が洗われ、穏やかな気持ちになった。


「あ、森山さん!来てくれたんですね!」


三谷さんが、俺を見つけて駆け寄ってきた。


「三谷さん。この絵、素敵ですね。心が落ち着くような絵です。」


「え、そんな…!ありがとうございます!…この絵は、私の希望でもあるんです。誰かの心の拠り所になるような、そんな暖かい絵を描きたかった。」


「三谷さんの心は綺麗で暖かいんですね。」


「いや、そんな…。…森山さん、どこか悪いんですか?顔色が…。」


「いや、大丈夫。君の絵を見て、元気を貰ったよ。ありがとう。」


…帰ろうとする足が止まる。後ろから、三谷さんが俺を抱き締めている。


「…すみません。でも、森山さんが心配で…。私、力になりますから、なんでも言ってください。」


「…ありがとう。連絡、無視してごめんね。今度は返事、するから。」


「…!はい!ありがとうございます!」


三谷さんと別れ、家に戻る。


「ハァ…。」


思わずため息をつく。


––ガチャ。


紗弥が帰ってきた。


「…ただいま。具合は大丈夫?」


「…うん。」


「そっか、良かった。…今日は何か食べられそう?」


「何も要らない。」


「…わかった。」


それから、紗弥との会話は無かった。



紗弥はベッドで、俺はソファで眠る。




そして、夢を見た。



ふわり。ふわり。



…今日は大丈夫だろう。



ふわり。ふわり。



「……ぐっ!…かっ…ハッ…。」


苦しい!苦しい!

もうやめてくれ!!



「…て……だ………きて!」



「ハァ…ハァ…な、何なんだよ!?俺が何かしたか!?もう…やめてくれよ!!」



「ち……の……ま…て!」



言葉が変わった…?

会話ができるのか…?



「ハァ…お前は…ハァ…ハァ…紗弥なの…か…?」



「そ……よ!」



…そうだよ?そうだよって、言ったのか?



「紗弥……紗弥!!どこにいるんだ!?…ハァ…ハァ…紗弥!」



「だ………!……ちゃん!」



「紗弥!俺は…ここだ!ここにいる!」




やっと気付いた。

紗弥は俺を苦しめているんじゃない。

俺に何か伝えようとしているんだ。



「紗弥!ハァ…ハァ…紗弥……。」



息苦しさが限界まで来ている。

意識が朦朧とする。夢が…終わってしまう。



その時、遠くに弱い光を見つけた。

今にも消えてしまいそうな光だ。



「そこに…そこにいるのか!?」



身体を必死で動かし、光のもとへ向かう。

水のような抵抗を身体で感じ、まるで泳いでいるようだ。




「…んちゃん…だ…ちゃん!」



声が段々はっきり聞こえてくる。

俺の名前を呼んでいる。

もう少し…もう少しだ…




「だ…ちゃん…だんちゃん…おきて!」



その言葉をはっきり聞いた時、強い光が暗闇を吹き飛ばした。










……そうか。

思い出した。






君は…




私を生かそうとしているんだな…。





「あーあ。あと少しだったのに…残念です。」



背後で声が聞こえる。

振り返ると…夢の中に、三谷さんがいる。


三谷さんはニット帽とメガネを外す。

すると、茶色の髪が黒く変わり、腰ほどの長さまで一気に伸びた。


彼女は終始笑顔で、不気味さすら感じた。


「あなたは…誰なんですか?」


「私ですか?うーん、そうですねぇ。強いて言うなら…死神さんです。」


三谷さんがニコニコ話す。


「死神…?」


「はい。あなたは今、生死を彷徨っている状態で、もし私を選んでくれていれば、晴れてあの世の住民の仲間入りだったんですよぉ。惜しかったなぁ。」


「…そうでしたか。でも、すみません。妻が起きろって言うので、起きます。」


「…このままここに残れば、奥さんとずっと仲良く一緒にいられることもできるんですよ?」


「…そんなことしたら、妻が怒るので。」


私は、笑った。


「…そうですか。残念ですけど、仕方ないです。頑張って生きてくださいね。そのうち、またお会いしましょう。」


「ええ。では。」


強い光の源に手を伸ばした。





「…だんちゃん。生きてね。」











私は、目を覚ました。



「…!お父さん!お父さんが起きた!」



病院だ。室内が慌しい。



「お父さん、私がわかる!?」


「あぁ、わかるよ。ありがとうな…。」




1ヶ月後、



私は墓参りに来た。



桜が咲いている。いい天気だ。



目の前の墓。これは、妻の墓だ。



妻を病気で亡くしてから、もう20年経つ。



娘は立派に成長し、3ヶ月後に結婚式を控えている。



私は2ヶ月前、友人と趣味の川釣りに出かけていた。

その時、小さな男の子が川で溺れ、私は無我夢中で助けに向かったが、私も溺れてしまった。男の子は無事助かったが、私は長い間意識不明だったらしい。



「君が、連れ戻してくれたんだな…。私がそっちに行くには、まだ早いってことか。」



持ってきた花を供える。

そして、線香を立てる。



「家に帰った時、思い出したよ。夢の中で見たあの絵、君と一緒に行った展覧会で見た絵だ。あの絵が随分気に入って、ポストカードを買って家に飾ってたな。」



墓の前で、手を合わせる。



「…正直、夢の中は幸せだった。また紗弥と一緒に過ごすことができて。今でも、君が愛おしいよ。…でも、まだここで頑張れって言うんだろ。だから、もうひと踏ん張りするよ。そっちに行った時は、あの死神なんかじゃなくて、君が出迎えてくれよ。」



その時、小さなつむじ風が桜の花びらを巻き込み、私を一瞬包み込んだ。そして、そのまま花びらを連れて、遠くの空へ行ってしまった。




「…相変わらず、忙しない奴だな。」




春の陽射しが、私の濡れた頬を優しく暖めた。

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