ミモザの悲しい旅 第1話
葉っぱちゃん
第1話
ああ、鈴虫が鳴いている。
ミモザはかすれた鈴虫の鳴き声を、夢の中でとらえていた。もうすぐ命が絶えようとしているのか、澄んだ鳴き声ではなく、雑音の混ざったような声だった。その声は、ミモザの不安をかきたて、少しずつ目が覚めていきそうになる。だが、まだ夜はあけていない。ミモザは不安をねじ伏せ、また、浅い眠りに入っていった。
耳の中には、鈴虫の鳴き声が、時々入り込んでくる。別れた息子の陽一が、鈴虫の籠を持ち上げて覗き込んでいる姿を見て、ミモザは夢だと気付き、起き上がった。夜は明け始めていた。陽一が仏教系の大学に入って、しばらくは元気に寮生活を送っていたが、夏休みに帰ってから鬱状態になり、大学を休学したということを、仲人が告げにきた。ミモザは、田代竜道と恋に落ち、婚家に陽一を置いたまま飛び出してしまったことを、今となっては悔いていた。
ミモザはベッドを下り、パジャマを脱いで部屋着に着替えた。梳きほぐしていた髪の毛を持ち上げ、アップにしてピンで留めていった。身支度が整うと、透けるような白い足をスリッパに入れ、ダイニングキッチンへと向かって行った。早く起きすぎたせいで、母も父もまだ起きて来ていなかった。ミモザは薬缶の水を取り替え、朝の紅茶の支度を始めた。
竜道との逃避行がたった一週間で破局したとき、泣いて帰って行くところは、父母の所しかなかった。「必ずもう一度出直して迎えに来るから、今は実家に帰っていてくれ」という竜道に、人目を忍んで喫茶店の隅の席で泣きくずれ、喫茶店を出て竜道と別れたあと、日の沈むのを待って実家の門を叩いてから、もう二年の歳月が過ぎていた。
竜道は元のさやに納まり、逃避行の一部始終を妻に吐かされたらしく、妻からミモザにかかってきた詰問口調の電話では、ミモザが有馬温泉に泊まった最初の晩、怖がって夜通し竜道にしがみ付いて眠ったと言う細部まで、怒りに任せてしゃべりまくり「間違いないでしょう。あなたは竜道にもて遊ばれただけよ。七日間のこと、全部私に吐いたからね。二度と竜道に近づくな!」と言って、一方的に電話を切ったのだった。
妻からの再々の電話による詰問で、竜道が、ミモザとの愛の行為を逐一妻に教えたと知ってから、ミモザの心は冷めていった。いくら入り婿の身分であっても、妻の詰問に答えなければ許してもらえないほど妻が怖い存在であっても、ミモザとの愛を守る気さえあれば、絶対に口を割らないということができるはずだ。最低限、心の片隅に、鍵をかけた四角い想い出の箱を持ち続けていてくれさえすれば、生活のために、お金を得るために、妻の元に帰って行った竜道を、まだ慕いつづけていたかも知れない。竜道がそんな人であったとは、思いも寄らないことだった。
ミモザは、カップに紅茶を注ぎ、レモンを添えて、ゆっくりと飲んだ。夢ではかなく消えた陽一の顔が、暗くはなく、若者らしく真剣な顔であったのが、ほんの少しだけミモザを安堵させた。ミモザが婚家を飛び出したときは、陽一はまだ高校二年になったばかりだった。竜道の運転する車の助手席で硬くなって前方を見つめるだけのミモザの目にも、満開の桜の薄紅色がふんわりと染み込んできた。あの桜の色が心をやわらげ、こちこちの気持がとけて、ふっと竜道の横顔を見つめたことを思い出す。真剣な顔で山道を運転している竜道の顔は、頼りがいがある顔そのものに見えた。この人に付いて行けば心配することはないと思ったことが、全くその反対の結果に終った。ミモザは今では諦めの気持に支配されている。
物思いに沈みがちな朝の紅茶のひととき、出窓に置かれた観葉植物や、母の趣味のドライフラワーの花々を眺めながら、竜道が自分を連れ出した真の気持はどこにあったのだろうと、答えの出ない道を思考が行き来するのが常だった。
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