古代ローマの晩餐会
ローマでは、百年ほど前から少子化問題を抱えていた。
乳幼児の死亡率が高く、五歳を迎えるまでに半数近くの子が亡くなっていく状況。
それなのに、上流階級の間では私生活を楽しむため、子どもを望まない者たちが多くいたのだ。
人口を維持するためには、一人の女性が五人以上の子を産む必要があると言われている。
元老院であるアントニウスにとって、少子化問題は悩みの種であった。
冗談交じりにアティアに結婚の話を持ち掛けたが、少し本気である。
そのことを感じ取ったアティアは、困惑し、大げさに怒ってみせていた。
三人の様子を見ていたフラウィアが、ユリウスと共にやって来て、アティアを窘める。
「アティア。お父様とアントニウス様のお話のお邪魔をしてはいけないわ」
「……ごめんなさい。その、私、一足先に宿に戻りたくて――」
「えっ? 今から模擬海戦が始まりますよ。今日の一番の見せ場なのに、帰ってしまわれるのですか?」
ユリウスが勿体ないと言わんばかりに、アティアに声をかける。
「えぇ。あのぅ、私、体調が……」
(これ以上、あんな残酷な試合を見せられたら、私は失神してしまうかもしれない)
アティアの戸惑う様子を見て、セネカが助け船を出す。
「祭りは、まだまだこれからだが、仕方がない。夕食は、アントニウス邸に招かれているが、体調が悪ければ宿でゆっくりしていなさい」
「ありがとうございます、お父様」
アティアは、心底ホッとした。
「アントニウス様、今日はこれで失礼致します。晩餐に出席できなくて申し訳ございません」
「なぁに、構わんよ」
にっこり笑ってそう言うと、アントニウスは大きなお腹をグイっと突き出して(アティアの分は、私が食べてやろう)と言わんばかりにお腹を撫でまわした。
アティアは、そんなアントニウスのユーモアのある優しさが大好きだった。
「ゴーディー! 来てくれ!!」
セネカが、みんなから少し離れた場所にいた若者を呼ぶ。
声をかけられた若者が、セネカの前に
「セネカ様、ご用件は?」
「すまないが、アティアを宿に連れて行ってくれ」
「お父様、私は一人で大丈夫よ。宿は、すぐそこだわ」
「アティア、先ほどの剣闘試合で興奮している者たちが、街のあちこちにおる。お前に万が一の事があっては、母上の体にも障るだろう。ゴーディーと共に帰りなさい」
「そうね…… わかったわ」
アティアは、素直にセネカの言葉に従った。
「ゴーディー、一緒に行きましょう」
「はい、かしこまりました」
ゴーディーと呼ばれた端正な顔立ちの少年は、アティアの少し後ろを歩く。
闘技場から離れ、みんなの姿が見えなくなると、アティアは立ち止まった。
後ろを向き、ゴーディーを待つ。
そして二人は、並んで歩き始めた。
「アティア、晩餐に行かずにすんで良かったな」
普段は奴隷としての立場をわきまえ敬語で話すゴーディーだが、アティアと二人だけのときは、まるで兄弟のように砕けて会話をする。
「そうなの。私、ローマの上流階級の晩餐って大っ嫌い! どうして寝っ転がって、手掴みで料理を食べるの? 美味しい料理ほど食べ残しを床に落とすとか、お腹いっぱいになったら、奴隷に孔雀の羽で口の中をグリグリしてもらって、吐いて、また食べて、また吐いて、またまた食べるなんて―― うぇ~、考えただけでもぞっとするわ」
裕福なローマ人にとって、夕食は一日のうちの最大行事である。
ゆったりした服装で長椅子に横になり、ひたすら食べ、飲みまくる。
元老院クラスの晩餐となると、腕の良い料理人を抱え大盤振る舞い。
前菜のオリーブも、豪華な器に用意される。
子牛のローストに羊のガルム焼き、ウニの詰め物をした雌豚の乳房などの主菜を堪能したあと、デザートには高山から取って来た雪で作られたシャーベットやチーズケーキが並んだ。
これだけ沢山食べてワインを飲めば、当然トイレにだって行きたくなる。
しかし、食事中のゲップやおならは認められていたが、トイレに立つことはマナー違反とされ、奴隷の持つ尿瓶に用を足さなければならなかった。
「あはははは。俺たち奴隷は、ご馳走を目の前にしても食べることができず唾を飲み込むばかりだが、食べる方も大変ってわけだ」
「父も母も、あの作法には慣れないって言っていたわ。そういえば、アントニウス邸のフレスコ画に、面白い夕食のマナーが書かれていると聞いたけれど……」
つまらなそうな様子を見せてはいけない。
人妻をぶしつけに見つめてはいけない。
品のない会話は避けなくてはいけない。
短気になったり、他人を傷つけることは口にしてはいけない。
これが守れないならば、自宅に帰れ!
ゴーディーがすらすらと答えた。
「どうして知っているの?」
「前にセネカ様のお伴で見たんだ。過去に、何か困った事でもあったんだろうなって思って見てたら、覚えてしまったよ。それにしても、苦手な晩餐会に招かれて、セネカ様もお気の毒だなぁ」
「そうね、今夜はぐったりして帰ってくるわね。ところで、アントニウス様とユリウス様って、親子なのにあまり似ていないと思わない?」
「そうかぁ? 似てるとおもうけどな」
「う~ん。顔とか声は似ていると思うけれど、雰囲気が違うの。なんていうのかな……うまく、言葉にできないや。アントニウス様は好きよ。でも、ユリウス様は、苦手だわ」
ゴーディーが立ち止まって、アティアの顔を覗き込んだ。
「へぇ。アティアがそんな風に言うなんて、珍しいな」
「……なんか、怖い」
ゴーディーに聞こえないように呟く。
なぜ怖いと感じるのか。その理由は、自分でもわからない。
ただ、ユリウスの側にいると、空気が重く感じた。
何かが纏わりつくような、暗闇に囚われるような感覚が襲ってきて、とにかく彼が怖かった。
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