第二五部「黒い点」第6話(第二五部最終話)

 この世界には多次元宇宙もパラレルワールドも存在しない。

 あると考えることで、無理矢理に何かを納得させたいがために、存在を確認することの不可能な世界線を想像する。それが何かは人それぞれだろう。そして、その考え方のユニークさがやがて〝五分前仮説〟や〝シミュレーション仮説〟を定着させていく。

 この世が希薄なものであると思えれば、そのほうが辛い現実を受け入れやすくなる。それは過去の歴史を見ても、何度も訪れている〝流れ〟に過ぎない。世の中の雰囲気が荒んでいくに連れて、その風潮は顕著になっていく。


 そして、やはり歴史は変わらなかった。

 牧田靖子は妊娠した。

 バタフライエフェクトは一つの思考実験的に広がったに過ぎない。

 一番驚いたのは医者のほうだろう。癌治療の記録を見れば妊娠など出来るはずがない。しかし靖子は事実として妊娠し、そのお腹の中には胎児が存在していた。

 〝子宮〟が生まれていた。

 その現実は受け入れるしかない。記録が間違っていたと判断するしかない。


 靖子も、もちろん夫の太一も子供は諦めていた。

 子供は不可能なはずだった。

 靖子の体調の変化も最初は想像妊娠の兆候かと思われたほど。それでも胎児の存在を明確にエコー画像で見せられれば、医者ですら妊娠を疑う理由はない。

 やがて産まれた子供は女の子。


 絵留と名付けられた。


 やがて幼い絵留に、蛇の姿をしたスズが取り憑く。


 そして絵留が七歳の時。


 母親の靖子は二人目を妊娠していた。

 妊娠八ヶ月。

 出生前診断で胎児のダウン症の可能性が分かったのは妊娠四ヶ月頃。

 父親の太一はその時点で産むことを諦めたかった。

 しかし靖子は産むことを望んだ。

 やがて意見の食い違いは家庭の雰囲気を侵していく。

 二人に喧嘩が絶えない日々が続いた。

 そして、すでに堕胎出来る段階は過ぎていった。


 その日、太一がなぜそんな行動を取ったのか、それは後になっても太一自身分からないままだったという。

 穏やかな気候の一日。僅かに陽が傾き始め、リビングの大きな窓からも強目の日光が入り込み始める。

 そんな時間。

 広いリビングのカーテンはいずれも開いたまま。リビングの向かい合った大きなソファーの裏で立ち尽くす靖子の影に、太一が重なるように寄り添っていた。

 すでに大きくなっていた靖子のお腹に当てられた太一の右手。

 その手に握られた包丁が、ゆっくりと靖子のお腹から抜き出されていく。

 靖子は声も出せないまま。

 力が抜けかけた直後、再びその包丁が突き刺さる。

 まるでそれが自然なことのように、抵抗もなく入り込む。

 もはや自分の身に起きていることなのかどうかも分からない。

 視界が揺れた。

 重力が崩れていく。

 体全体に冷たさを感じた。


 床に倒れた靖子の体に、太一は馬乗りになっていた。

 包丁を両手で逆手に持ち、何度も振り下ろす。

 しだいに床に真っ赤な血溜まりが広がる。

 その暖かさが、床に付いた太一の膝から伝わった。

 もはや靖子に考える力は無かった。

 腹部に入り込む太一の手の感覚に、絶望感と共に憎しみすらも薄れていく。

 血だらけの体で、太一は暖かい胎児を取り出す。

 すでに腕と脚が取れかけた胎児を床の血溜まりに置くと、太一はその首に包丁を押し当てた。

 思ったよりも簡単に、その首は離れる。


 血の匂いが太一の鼻に届いた時、やっと背後の気配に気が付いた。

 振り返った先には、絵留が立っている。

 その絵留は、無表情のまま。

「警察には自分で電話をしろ────お前はもう〝用済み〟だ」

 その絵留の言葉に太一は立ち上がる。

 全身が重く感じられた。体の至る所から血が零れ落ちる。

 その時、一瞬だけ、太一の中に疼いたものがあった。

 しかし、太一がそれが何かを知ることは、その先もないまま。

 絵留は靖子の死体を掻き分けるように、胎児に近付く。

 総てが小さい。そのそれぞれが、バラバラに床に散らばっていた。

 すでに床は血溜まり。

 足の裏が暖かい。

 胎児の体の中心を開くと、中の小さな、小さな心臓を取り出した。

 血だらけになった掌に乗ったその小さな塊を見ながら呟く。

「…………これだけで充分だ…………」


 すると、背後からの声。

「それで……いいの?」

 それは、再び時を遡っていた萌江の声。

「……他人の人生を壊してまで…………」

「お前が言うか」

 応える絵留の声に感情が込められているとは思えない。


 ──……分かってる…………この時間を作り出したのは……私だ…………


 ──…………私が絵留を作った…………


 ──……靖子さんを殺して……旦那さんは自殺する…………


 ──…………私は……一つの家族を崩壊させる…………


 ──……スズが絵留に取り憑くタイミングまで遡れば…………


 ──……どうせ何度も…………キリがないだけだ…………


「つまらんことを言う…………他人に苦しめられる本当の恐怖など……お前は知らない……」

 そう応える絵留────スズに、萌江はどうしても言いたいことがあった。


「そうね…………でもスズ……だったらどうして? どうして私や御世に助けを求めたの? 私はそんなにまでして……産まれたくなんか……なかった…………」


 やがてやってきた警察に、太一は逮捕され、絵留は怯えた表情で自分の部屋にいるところを保護された。



      ☆



 時間がどのくらいか、誰もがその感覚を失っていた。

 毘沙門天神社の祭壇前を、ゆっくりと、静かな風が流れていく。

 どうやら夕方が近いらしい。本殿の柱の作り出す影が長い。しかもその影は陽の高い時間に比べるとなぜか濃く見えた。

 そのことに最初に気が付いたのは、立ち上がって周囲に視線を回した咲恵だった。


 ──……気持ちのいい風…………


 萌江の背後、床に膝を着いた咲恵は、目の前で小さくなる背中を見降ろす。

 その首筋に両腕を回し、抱きしめていた。


 もはや、抱きしめられた萌江は、感情すらも行き場が分からないまま。

 何の抵抗もなかった。

 込み上げるものもない。

 ただ、自然と、両目から涙が零れ落ちる。


 体の震えすらないことが、むしろ咲恵の不安を押し上げた。

 今までに経験したことのない何か大きな畝りが、萌江を包む咲恵の気持ちを揺らす。


 咲恵は、萌江に触れ、総てを理解した。


 咲恵に流れ込むのは記憶だけではない。

 複雑に絡む感情が記憶を彩っていた。

 萌江との思い出までもが咲恵の中で溢れようとする。


 ただ、何かを言葉にすることが、一番怖かった。


 そして、やっと咲恵の声が萌江の耳元で囁かれる。


「…………ホントの痛みって……目に見えないよね…………でもあなたは私に総てを見せてくれた…………時に私を受け入れ…………時に抵抗しながら…………」


 ──…………私は…………気持ちを決めなければ…………


「……あなたは……色々な人の人生を見てきた……それだけ色々な人の傷を見てきた…………時にその人生に争いながら…………時に求めながら…………」


 ──……覚悟しなければ…………


「……聞かせて…………あなたは、だれ…………?」


 ──…………だって…………目の前にいるのは…………


 咲恵の視線の先。

 そこに見える萌江の後頭部が僅かに動いた。

「…………私は………………もえ…………恵元…………萌江…………」

 その小さく震える萌江の言葉に、咲恵が笑みを浮かべた。


 ──……目の前にいるのは…………〝神様〟なんかじゃない…………


 ──…………だから大丈夫……総て受け入れてみせる…………


「…………おかえり…………萌江………………ずっと待ってたよ…………」


 ──…………だから萌江…………私に…………好きで、いさせて…………


 咲恵の感情が、その頬を零れ落ちていく。



      ☆



 湖面を渡る風。

 緩やかな流れ。

 時間もゆっくりと流れていく。

 変化など無いはず。

 時間の速度は変わらないはず。

 しかし、誰もがその変化を知っている。

 空の色もゆっくりと変わっていた。すでに淡い紅色が青く移り、空と山の境界を曖昧にし始める時間。

 その色を映し続ける、かつて姫神湖と呼ばれたこともある湖────雄滝湖。

 その湖は、湖畔の雄滝神社に恵みを与え、かつては二つの水晶を清国会に与えたこともある。


 ──……その頃の時間は、今よりゆっくりだったのかもしれない…………


 恵麻は雄滝湖の静かな湖面を見る度、そう思うことが何度かあった。

 想えば、一番古い記憶もこの湖から。

 そんな感覚がある。


 何が正しかったのか。

 何を持って正しいと考えるのか。

 自分の決断は正しかったのか。

 その評価をするのは誰だろうと、そんなことを考える。


 ──…………私の……決断は…………


 しばらく雨が降っていなかったためか、湖畔は歩きやすかった。穏やかな日々に波も小さかったのか、所々乾いてヒビの入った土が湖の水を求めていた。

 その湖畔にある小さな祠。

 雄滝湖に水を注ぎ込む〝雄滝〟が作り出す川。

 その側の祠は雄滝とその滝によって作られる雄滝湖の神を祀るため。それは神道に於ける神。一神教の神とは明確に違うもの。清国会が生まれるよりもずっと古くに作られた祠。

 その祠の前に膝を落とすと、恵麻は地面に片膝を着いた。

 そして、地面に小さな枯葉を置くと、その上に更に小さな〝鈴〟を置く。

「……〝六神通〟の使者を呼びたい時……ここに、こうしてこれを置いておく…………」

 それは古くから使われてきた物。それ以外の用途で使われたことのない鈴でもあった。黒ずみ、その周囲だけでなく内部にまで歴史の汚れが蓄積しているのか、決して軽やかな音を立てはしない。

 清国会が決めた物なのか〝六神通〟の指定による物なのかまでは恵麻も知らない。先代でもある母親も知らないという。長い歴史の中で、いつの間にか細部を削ぎ落とされてしまった〝しきたり〟の一つ。

 厳格な神道の世界。

 厳格な神社で産まれ育った。

 厳格な清国会をまとめてきた。

 古くからの〝しきたり〟で固められた世界だと思っていた。

 しかし、それが〝人の世〟というものであることを知った。

 自分しだいで周囲の世界は変えられるとも言えるが、誰でもそれが出来る環境にあるわけではない。

 世界は、決して〝自由〟ではない。

 不自由なことのほうが多い。

 そこと折り合いを付けられるのなら幸せなのかもしれないが、同時にそれは決して簡単ではない。

 そういった感覚の多くを、最近になって恵麻は西沙から学んでいた。西沙は恵麻とは違って若い内に実家である御陵院神社を飛び出した過去がある。恵麻と大きく違うのは、それだけ世の中を見てきたという部分だろう。お互いに歩み寄ろうとしなければ、考え方や感覚が噛み合わないのは当然だった。

 そして歩み寄ったのは、どちらからということもなく、お互いにだった。

 もちろん西沙からすれば、今後の清国会に関して、という部分に於いて〝蛇の会〟としての関わりは確かにあるだろう。とはいえ、お互いにそれまでの関係性を認めた上で向き合っていた。

 そしてそれは、それぞれの組織が歩み寄ったからとはいえ、個人単位ではやはり簡単ではない。

 人が他人と向き合うことには、少なからず、恐怖を伴う。

 それでも西沙も恵麻も、それを拒絶する気はなかった。

 その恵麻が地面に置いた小さな鈴を、恵麻の隣で膝を落とした西沙が見降ろしながら口を開いていく。

「〝カバネの社〟も〝六神通〟も、まともな世界ではない…………恵麻もそういう認識でいいの?」

 その場にいるのは二人だけ。

 〝六神通〟の儀式を見たいと言ったのは西沙だった。それは事実だったが、雄滝神社に向かっている萌江と咲恵が到着する前に二人だけで話しておきたかったのも事実。

 その西沙が続けた。

「それを〝潰す〟にしても〝壊す〟にしても、それには理由がいる…………だから一つ確認させて……決断するに足る理由は、萌江から話を聞いてから、でいいのよね」

 すると恵麻は、ゆっくりと何かを噛み締めるように間を空けてから口を開く。

「……もちろんだ。萌江様が遡った過去で何を見られたのか…………それを聴いてからでなければ…………私一人で決断の出来る事の大きさではないであろう…………」

 それを聞いた西沙は軽く口元に笑みを浮かべた。

 西沙も多くのことを噛み締めている。そして言葉を返した。

「今回さ…………ずっと嫌な感覚があったよ。でも有耶無耶にも出来ない事だったし…………」

「萌江様は……もしかして……京子様に御会いしたのだろうか…………」

 恵麻は呟くようにそう言うと、静かに立ち上がる。

 西沙も続く。

 少し強めの、冷たい風が二人の足元を擦り抜けていった。冷たい湖の水を撫でた空気は、軽いままに二人に絡み付く。

 その風に、西沙の声が乗った。

「……かもね…………って言うより、そのほうがしっくりくるよ。多分私たちは、一番大きな〝答え〟を前にしてる…………そうかもって思いながら、その可能性を言葉にするのさえ怖くなって…………でも答えを知りたくて動いてて…………そしてその答えを持った萌江を待ってる」

 すると、恵麻が湖に首を回して言葉を返した。

「……西沙に……聞いてみたかったことがあった」

「何よ、今回のこと?」

「まあ、関わりがあると言えばあるが…………西沙は……〝神〟というものをどう捉えている?」

「ああ…………それね」

 いつか、西沙も恵麻に聞いてみたいと思っていたことだ。

 清国会は数百年に渡って天照大神とその末裔と信じた金櫻家を〝神〟として崇めてきた。そういう意味では西沙も恵麻も幼い頃から同じ教育を受けてきたと言えるだろう。

 先にその呪縛から抜け出したのは西沙だったが、自分の中の〝神〟というものの概念が何なのか、それは西沙の中でもあやふやなまま。明確に表現出来たことはない。更には、西沙にそれを問う者もいなかった。

「私は一神教的な神って存在は見たこともないし感じたこともない」

 西沙はそう言うと、小さく溜息を吐いて続けた。

「でもその一神教の神様を信じてる人たちがこの地球上にはいっぱいいてさ……その神様のためなら人まで殺せるような人たちが沢山いるんだよね。宗教って、私はよく分からないよ…………一つだけ分かるのは、宗教も組織に過ぎないってことかな…………みんな一人が寂しいんでしょ? だから何かに縋って誰かと繋がろうしてるだけなのに…………どうして宗教が悪者になるのかな…………」

 いつの間にか、西沙の声が柔らかい。

 その声に、恵麻も引きずられるように返していた。

「……悪いのは…………結局、人か?」

「人間が悪いとしてしまえば結局それは自己犠牲と同じだよ。そうすることで納得したいだけ……ただの自己満足だ…………本質はどんなことも〝使い方〟ってことなんじゃないのかな。例え権力者が人心をまとめるために宗教を利用したとしても、間違った使い方をしなければ宗教で争いなんか起きない…………」

「……使い方か…………人間が苦手な部分だな…………」

 恵麻は言いながら枯葉の上の鈴に視線を落とす。

 西沙の言葉が続いた。

「そういうこと。恵麻はどうなの? 考え方なんて人それぞれだよ。私の考えが正しいってわけじゃない……納得出来る人が納得してくれたらいいだけ。恵麻には恵麻の〝神〟がいたっていいんじゃない?」

 西沙はそう言いながら恵麻に顔を振る。

 恵麻は視線を下げたまま、僅かに見えるその目は憂いを含んで見えた。

 そのまま、恵麻はゆっくりと、間を空けてから応える。

「…………どうなんだろうな…………あれほど……何よりも大事だと思っていたものが虚構であることを知った…………結果的に何も無くなった、では、あまりにも寂しい…………」

「何が……残ったの…………?」

「────〝時間〟だ…………〝歴史〟は確かに存在した…………過去は過ぎたものだ。終わったものだ。だが…………無くなったものではないはずだ…………しかもその〝時間〟が無ければ、我々は存在していない」

「まさに〝神様〟だ」

「これは……あくまで私の考えだが…………」

「いいじゃん。私は納得出来た。今のここの時間も無くなったりしないよ。だから……私たちは今、ここにいるんでしょ?」

 そう言った西沙は恵麻の横顔を見たまま。

 恵麻が顔を振る。

 その恵麻の目に、西沙は覚悟を感じた。

 渡る風が、少しだけ暖かい。



      ☆



 深い霧。

 濃くはあるのに、その実態は掴めないもの。

 掴めずとも、その中には深い森があった。そしてその中心に〝カバネの社〟が存在する。

 社を背に地面に膝を降ろしているナギの前。

 幾ばくかの距離を置き、その日、そこを訪れていたのは牧田絵留の姿。

 しかしすでに本人の思考はどこにも存在しない。その総てをスズが覆っていた。スズの依代と化した絵留は、その見た目はまだ七歳に過ぎない。それでも目付きだけは大人の鋭さを備え、向かい合うナギと対峙していた。

 白い靄のような霧が二人の空間をゆっくりと流れ続ける。

 絵留はしばらくの間、俯き加減に地面を見つめ続けるナギの顔を見続けていた。

 瞬きすら無いまま。

 微かに笑みを携えたような口元。

 その思考を読み取ることは不可能だろう。

 時間が流れていくことは構わなかった。ここに時間という概念が存在しないことは知っている。

 そういう空間を望んだ。

 そういう空間でなければ、この場所は存在し得なかった。

 そして、その場所を作ったのは、自分自身。


 いつの間にか、絵留の姿は〝カバネの社〟を創ったスズのものへ。


 巫女服ではない。

 麻の葉の柄の浴衣。

 それは、スズを保護した滝川青洲が最初にスズに与えた物。

 その時のスズの姿。

 そのまま。

「……御主の求める物は用意した…………良いか?」

 そのスズの声に、ナギは視線を変えないままに口角だけを小さく上げる。

 そして返した。

「……問題はございませんよ…………御要望は、御自身の産まれ変わりでしたか…………それは〝自らが創り出した命〟を持ってしてでなければ不可能な事……そんな事が御出来になるのは貴女様だけ…………この場所を御創りになられたのも、そもそもの目的はそれでしたね…………御気持ちに御変わりはございませんか?」

「もちろんだ」

 しかし、その声に、僅かながらの疑念をナギは感じる。

「……もしや……迷いが…………御有りですか?」

 そのナギの問い掛けに、スズは顔を曇らせた。


 ──……ここまで来ておきながら…………


 スズの中に、牧田家での萌江との会話が湧き上がっていた。


  〝……私はそんなにまでして……産まれたくなんか……なかった…………〟


「…………これは…………このことは…………正しいのか…………?」

 僅かに震えるスズのその声は、本人の意思とは関係なく、いつの間にか口から零れ落ちていた。

「……私はそれを求めていた筈なのに…………今更……何を迷う…………その為に私はここまで…………」

 それに返すナギの声に、更にスズは気持ちを揺らされていく。

「……私は……どちらでも…………」

 しかしその本心は、その表情からは隠せていない。

 分かっていた。

 〝カバネの社〟の管理者として。

 ここを訪れる者は、いつも必ず〝迷い〟を引き連れてくる。迷いの無い者などいない。その迷いがあるからこそ、ここを訪れることも知っている。

「……まあ…………いつもですから…………」

「構わん……ナギ…………やってくれ…………」

 そのスズの声に、ナギが顔を上げた。

 視線の先には、鋭い目のスズ。

 そのスズの言葉が続く。


「……産まれ代わらせてくれ…………金櫻京子から…………」



      ☆



 萌江がそこに足を踏み入れた時、すでに辺りは夜の闇。

 静かだった。

 夜の闇に溶け入りながらも、存在感を失わない深い霧。

 自らの足音すら何故か聞こえない。

 一歩、また一歩。その感覚だけが靴底から全身を巡った。それは決して綺麗に整地されているわけではない荒い土の道。それでも何故か心地良さがあった。アスファルトやコンクリートとは違う。山の中の自分の家の周囲に、どこか似ていた。

 細い道。

 周りは腰より高い草と、上部が闇に隠された大きな木。

 先の見えない無数な羅列。

 家の周囲の環境と違うのは、音が無いことだけ。

 草木の擦れる音すらしない。

 まるで耳を塞がれてしまったかのような、不思議な感覚が意識を埋め尽くしていく。

 その中で、萌江が口を開いた。

「あなたはもういい。ご苦労さま」

 萌江の前を歩く男の足が止まる。

 〝六神通〟からの使者。その男がゆっくりと首だけを回して萌江に顔を向けるが、その目が萌江を捉えるよりも、その姿が消えるほうが早かった。

 萌江は小さく溜息を吐きながら、それでも足は止めない。

 先に何があるかは分かっていた。


 ──……今まで…………ありがとね…………


 そして、やがて、そこは現れた。

 萌江もやっと足を止める。


 ──…………やっと来れた…………


 大きな、古めかしい社。

 どこまでの大きさなのかまでは、漆黒に隠されて見えなかった。


 ──……時間の無い場所なら…………昼間に来たかったな…………


 我ながらおかしな考えに思えた。そもそもが萌江自身は神社の社などに興味を持ったことはない。人間が作った物でしかないと思ってきた。

 それは宗教というものに対しても同じ。

 どうして自分が以前からそういう思考を持っているのか、今は理解出来る。


 ──…………興味なんか無いはずだったのに…………


 ──……私は宗教を知っている…………その世界から離れられなかった…………


 ──……離れたかった…………自分自身から…………


 ──…………自分という存在を…………消したかった…………


 ──…………清国会なんか……作らなければ…………


 ──……自分がいなくなってしまえば…………


 ──…………例え産まれ代わった後でも……自分がいなくなれば…………


 ──…………だから…………


 ──……だから私は…………自分を殺そうとした………………


 社の前。

 薄らと浮かぶ姿。

 地面に正座をしたその姿は、萌江にはとても小さく見えた。

 まるで仄かに光るかのように闇を反射する白い着物。

 そこに浮かぶナギの表情は、萌江からは窺えない距離。

 口が動いているかも分からないままに、そのナギの声が聞こえた。


「……御待ちしておりました…………金櫻鈴京様…………」


 萌江は表情を変えない。

 自らの心臓の鼓動だけが体を揺らしていた。

 そしてそれは、本人が思っているよりも大きい。

 萌江の言葉が、その口から零れていく。

「……古い名だな……久しく聞いていなかった」

 それに、ナギはすぐに応えた。

「御嫌いですか?」

 すると、萌江の口元が微かに緩む。


 ──……自分が何者かなど…………今更か…………


「……いや…………しかし今は、必要の無い名だと感じる」

「左様ですか……では今は…………」


「……萌江…………金櫻……萌江…………」


 その萌江の言葉に、ナギの顔が僅かに上がる。

 続くのは萌江。


「……可愛い名前でしょ? お母さんが付けてくれたんだ…………私には…………それだけで充分…………」


 ナギの細い目が、僅かに開いた。

「……つまり…………」


「……だから私は…………産まれて良かった…………お母さんから…………産まれてきて良かった…………後悔なんか必要ない」


 何かを確認したい。

 自分が産まれたことを、ここで確認したかった。


 萌江は、首の後ろに両手を回す。

 ネックレスのチェーンを外すと、そのチェーンを左手に巻きつけた。

 その掌から下がる〝火の玉〟が、周囲の僅かな明かりを取り込み、光る。


「……私は99.9%……〝神様〟なんか信じない…………自分がなるつもりもない…………でも…………自分が生きてることだけは信じたい…………私が信じるものは〝神〟じゃない…………〝命〟だけだ…………」


 そして、暗い夜空を見上げた。

 目を閉じ、再び小さく口を開く。


「…………開けたよ……………………咲恵…………」


 辺りが、一瞬だけ、明るくなった。

 そして萌江の左隣。

 霧の中から現れたのは咲恵の姿。

「あんまり待たせないでよ。呼ばれないかと思ったでしょ」

「別の人でも呼んだと思った?」

 咲恵に顔を振った萌江は笑顔で返していた。

 それは何の迷いも無い表情。

 咲恵が一番よくそれを知っていた。

 その咲恵も笑顔を返しながら、両手を首の後ろへ。やがて〝水の玉〟のチェーンを右手に巻きつける。

 それを確認するようにした萌江は、その視線を再びナギへ向けた。

「私たちの二つの水晶は……この時のために私が生み出した…………総てを終わらせるため…………過去の連鎖を終わらせるため…………」

 すると、ナギがすぐに応える。

「……我には関わりの無き事…………」

「そう? あなたもここが無くなったら、行く所が必要になるんじゃない?」

「……行くべき所など…………元々ここにあるのは〝黒い点〟だけ……これまで、貴女様の目の前にも、いくつもの黒い点がおありになったはずです。それを繋がれたらよろしい。それはいずれ、線になります。時の流れというものは、そういうことですよ。したがって、私がいるべきはここだけです…………」

「なるほどね…………その黒い点を繋ぎ続けてた人を知ってる…………私が気が付いてないとでも?」

 その萌江の言葉に、ナギの視線が再び下がった。


 ──…………やっぱり…………


 萌江が言葉を繋ぐ。

「過去は変えられない…………それを希望が無いと考えるか、もしくは、だからこそ意味があると考えるかは人それぞれだけどさ。でも私は…………スズの作った〝今〟のお陰で生きてる…………それも変えられない…………あなたもね…………」

 ナギの表情に、笑みが浮かぶ。

 少なくとも萌江と咲恵には、その目が柔く変化したように感じられた。

 その表情が再度、微かに上がった時、周囲に小さな音が溶ける。


 小さく、土を擦る、草履の音。

 そこに重なるローファーの音。


 それは萌江と咲恵の背後から近付いた。二人ともまるで最初から知っていたかのように振り向きもしないまま。

「……萌江様……咲恵様…………」

 静かなその声は、巫女服の恵麻の姿と共に、やがて二人の前へ。

 そして続く。

「清国会を束ねる者として私が責任を取ります」

 そして恵麻は、左手に握った刀の鞘を横一文字に突き出す。

 柄を右手で掴むと、鞘越しにナギの表情を見据えた。

 しかしその恵麻の右手に重なる手。

 一緒に現れた西沙の手だった。

「あんた一人じゃ無理だってば」

 落ち着き払った西沙の声は、決してこの場に似つかわしいものではないだろう。

 思えば西沙は常にそうだった。萌江も咲恵もそれをよく知っている。もちろんその本心は本人でなければ分からない。それでも何度もその西沙の冷静さに二人も助けられてきた。

 そして、そうでなければ〝蛇の会〟を作ることなど出来なかっただろう。

 その西沙と、敵対していた清国会のトップが、今は萌江と咲恵の目の前にいる。


 ──……掛けた時間は無駄じゃなかったね…………


 そう思った萌江の声が、西沙と恵麻の背後から響く。

「……責任って言った? もしかして…………刺し違えてここの呪いを解こうとでも?」

 厳しいようにも聞こえるその声に、二人とも振り返ることすら出来なかった。まるで想像していなかった萌江の言葉。

 西沙は〝蛇の会〟の創設者として。

 恵麻は〝清国会〟のトップとして。

 お互いに萌江に責任を取らせるわけにはいかないと感じていた。

 総ては萌江のため。

 今までの総てが、萌江のためだった。

 形が違うだけ。

 萌江のために生きてきた。

 だから今回も、お互いに〝萌江のため〟。


   〝萌江のために命をかけてでも呪いの連鎖を終わらせる〟


 そのことに、迷いは無い。

 恵麻は萌江の反応に戸惑いながらも、言葉を絞り出していた。

「……お二人を……死なせるわけには参りません…………それは私の求めるところでは────」

「だから? だから死んで詫びるの? 死んだって責任なんか取れないよ…………例え呪いを退けたとしても……それは、ただ逃げてるだけだ…………」

 いつの間にか空気が変わる。明らかに萌江の口調が変化していた。

 そして、恵麻も西沙も何も返せないままに萌江の言葉が続く。

「……責任を取りたければ後処理まで責任を持たなきゃね…………それに、私も咲恵も初めから死ぬつもりなんかないよ」

 その萌江に顔を向けたのは西沙だった。

 言葉の意味に驚きながらも、どこか落ち着いた目を向け続ける。

 その西沙に柔らかい表情を返しながら、萌江が繋いだ。

「……誰も死なせるつもりはない…………だから私はここにいる…………西沙もでしょ?」

 西沙の口元に笑みが浮かぶ。

 そして、恵麻の右手に重ねた手に力を込めた。

 その小さな口が開く。

「恵麻、古いってさ。そういうの」

「────ふるいっ……って…………萌江様……そういうことでは…………」

 そう言う恵麻の慌てた表情を想像しながら、その背後から掛ける萌江の言葉は柔らかかった。

「言ったでしょ? 誰も死なせない…………西沙も、あなたも…………まだやることがいっぱいあるしね。だから────」

 萌江はそう言うと、左手を真っ直ぐ前へ。

 〝火の玉〟の下がった掌をナギへ向けた。

 その隣で咲恵が萌江に続いて〝水の玉〟の右手を前へ。

 繋げられたのは萌江の声。

「────この水晶を信じてよ」


 それを見たナギの目。

 その目が開かれていく。

 ゆっくり。


 誰もが、萌江の言葉に耳を傾けていた。

「……あなたも…………〝水の玉〟に助けられたことがあるはず…………最後の時…………あなたが守ろうとしたスズに…………助けられた…………助けたのは…………私だったんだね…………」

 萌江の目。

 そこから、一筋だけ零れた。


「……ありがとね…………御世…………嬉しかったよ…………」


 鞘の中、鋼が擦る微かな音。

 西沙と恵麻。

 二人の握る刀が地面に突き刺さる。


 瞬時に、総て、消えた。


 そこは静かな森。

 夜の森。

 霧もない。

 代わる微かな湿度。

 耳に届くのは、緩やかな木々の騒めき。

 それが静寂というものであることを感じる空気。


 今、ここにあるのは、それだけ。


 〝神無しの社〟と呼ばれた不思議な空間も、古めかしい社も、もう存在しない。


 総てが、一瞬だった。


 もうここには、多くの〝負〟を背負った〝御世〟という巫女の存在もない。


 最初に緩やかな空気の流れに乗ったのは、西沙の声だった。

「やっぱり……御世だったの…………?」

 そして後ろの萌江に体を向ける。

 その萌江の表情は、柔らかくも、どこか憂いを含んでいた。

「西沙も気が付いてた?」

「もしかしたらって程度かな」

「色んなものを……一人で背負ってたのかな…………」

「私たちに責任を負わせたくなかったのかもね。御世らしいけど…………バカだよ…………そんなにまでしてスズのために…………」

「…………私は…………ずっと御世に守られてきたんだね…………」

 そう応えて視線を落とす萌江の体を、咲恵の腕が包む。

 そして、その咲恵の言葉は柔らかかった。

「……みんな…………みんなが……あなたを守ってきた…………そして…………誰も後悔してない。御世みたいに…………」

「行けたかな…………」

 その萌江の言葉に返したのは西沙。

「……御世は……どこに行ったの?」

「分からない…………私でも…………でも…………大丈夫だと思うよ」

 萌江はそう言うと、左手の水晶を胸に当てた。

 そして続ける。

「…………〝穢れ〟が消えたから…………」

「そっか、なら後は萌江の感覚を信じるだけだ…………で? どうして咲恵もここにいるのよ」

 西沙はそう言うと今度は咲恵に顔を向けていた。

 咲恵もそれを予測していたかのように応える。

「ああ、それ? 楓ちゃん。時を遡るってことは〝今〟でも大丈夫だろうと思ってね。さすがだったよ」

「そういうことか。萌江が一人でって連絡してきたから慌てて〝六神通〟にアクセスしてさ、大変だったんだよ。やっと追いついたらなぜか咲恵までいるし…………」

「萌江が一緒じゃなきゃここには来れなかったけど、最初は一人で話したいって言うから…………それでね」

「やっぱり萌江のほうが一枚上手だったか」

 すると、ずっと黙ったままだった恵麻の声が空気を揺らした。

 その恵麻は地面に刀を刺したまま。

「…………下に…………何か…………」

「どうしたの?」

 反射的に西沙が返していた。

 恵麻も即座に応える。

「……土の感触だけじゃない…………この下に何か……硬い物がある…………」

 西沙が素早く動いていた。地面に落ちていた鞘を拾うと、その鞘の先で地面を掘り始める。

 その姿に恵麻が声を上げた。

「西沙⁉︎ 雄滝神社に伝わる神剣の鞘だぞ!」

「手で掘ったらネイルが禿げちゃうでしょ⁉︎」

「────ネイル⁉︎」

「爪だって割れるじゃん! 早く恵麻も掘って! 刀だって掘れるでしょ!」

「だからこれは雄滝神社に代々伝わる────」

「適材適所でしょ! 早くして!」


 やがて、土の中から現れた物。

 それは小さな祠。

 渇き切った古い板で形作られた、祠。

 横に倒した状態で地面に埋められていた。

 古い。

 何度も水分を含み、何度も乾くことを繰り返し、古くから埋められていた物。

 そして同時に、誰もが想定していない物。


 西沙も恵麻も、開けることに躊躇した。

 しかし、その二人の間に割って入る腕。

 萌江の腕。

 その細い指が、固まっていた扉を揺らす。


 開かれた扉の奥。

 そこに現れたのは、白い、麻の葉の模様の布。

 その布に包まれた赤子。


 まだ生後間もない、赤ん坊だった。



      ☆



 そこは山の中。

 人里から離れた山の中。

 周囲にはアスファルトもコンクリートも無い。

 夏には空気の湿度を土が吸収し、冬にはその土に雪が降り積もる。


 そこにある古い一軒家。

 そこより先は道が細くなるだけ。


 そこは山の中の社。

 〝唯独神社〟。


 祭壇は必要なかった。

 それでも、やがてそこは〝清国会〟にとって最も必要な場所とされた。


 萌江を中心とした世界。

 それは決して終わりがあるものではない。

 例え萌江の命が終わりを迎えても、終わることはない。


 時は止まらない。

 繰り返すこともない。

 ただ、積み重なっていくだけ。

 流れていくだけ。

 だからこそ、萌江も咲恵もここを離れるつもりはなかった。

 そしてこれからは、新しい同居人が増える。

 今は萌江も咲恵もその準備に余念のない日々。

 すでに、花の芽の芽吹く季節。

 緑と土の匂いが空気に溶け込む季節。

 庭の小さな畑も最近耕したばかり。

 今年育てるつもりの野菜は、ジャガイモ、ニンジン、キュウリ、オクラ、カボチャ、サニーレタス。室内のプランターでは大葉とプチトマト、水菜。

 咲恵が以前のような通いではなく、定住することを決めたことで野菜の種類を増やせた。と萌江は思っている。増やしたことで畑仕事に追われる日々が待っていることまでは考えていない。

 ただ、今は、楽しかった。

 冬の、気持ちまでをも冷やす日々も寒くなかったほど。

 続く、落ち着いた毎日。

 それでももちろん不安がないわけではない。むしろ不安がなくなることなどないことは萌江も咲恵も知っている。そして、それでいいと思っていた。その不安を解消しようとすることが、生きていくための糧となることを経験から理解していた。

 それでも以前までの不安より、現在の悩みの種は小さいものだ。

 大きな歴史の畝りを紐解く必要もなければ、誰かの命の危機を感じることもない。

 今でもたまに〝心霊相談〟と呼べるような依頼が無いわけではなかった。それでも今のところ大きなものは来ていない。一頃に比べると静かなものだけ。

 そのため、日中は概ね穏やかな日々。

 その日も暖かい日差しがリビングの縁側に降り注ぐ。

 ほとんど毎日あるようなそんな時間が、萌江も咲恵も好きだった。

 何気ない会話とお気に入りのコーヒーの香り。

「そろそろカーディガンは必要なさそうね」

 そう言って咲恵は赤いカーディガンのボタンを外していく。

 隣の萌江が笑みを浮かべながら返した。

「次の冬からは年相応の色にしたら? 真っ赤なのは若すぎるよ」

「そう? 私はまだ若いつもりだけど」

「その内に体が追い付かなくなるよ」

「お互いにね」

 咲恵はそう返して、満面の微笑みを浮かべた。

 そして続ける。

「もう若くないのに…………こんな歳からで大丈夫? 私はまだ少し不安」

 すると、萌江は庭の畑に視線を戻しながら応えた。

「まあ……雫さんが先生になってくれるって言ってるし、考え過ぎてもさ…………それに…………」

 そして庭用のサンダルに足を通すと、そのまま立ち上がる。

 深い所ではまだ雪溶けの水を含んだままの乾いた地面。そのためか、この季節の土は足に優しく感じられた。

 だからこそ畑の土を耕すのに適している。自然の成り立ちは現実的なことの繰り返しに過ぎない。何かの意思を感じさせることもなく、ただただ季節を繰り返していく。時に大きく環境が変わっても、それに対して反発することなく受け入れていくだけ。

 変化には良いも悪いもない。

 ただ、変わっていくだけ。

 それが時間の流れ。

 背中に咲恵の視線を感じながら、萌江が言葉を繋いだ。

「誰がどう考えたって…………私たちが引き受けることになるよ…………なってた…………私たちは受け入れるだけ…………」

「ま、不安はあっても断る気なんかないから安心して。ちょっと楽しみなところもあるしさ」

「いいの? 結構イタズラ好きらしいよ」

 萌江はそう言いながら咲恵に笑顔を返すが、咲恵も負けじと悪戯っぽい笑みを浮かべた。

 そして、二人の耳に音が届く。

 タイヤが土の道路を踏みしめる音。

 やがて、庭の一角に入り込んできたのは杏奈の四輪駆動車。咲恵が引っ越してきてからあまり動くことのなくなった小さな軽自動車の隣で、エンジン音が止まる。

 先に助手席から降りてきたのは西沙の姿。しかし萌江と咲恵の視線が注がれたのは、いつもの黒いゴスロリの服ではない。

 その西沙が両腕で抱える荷物。

「ごめん、ちょっと早かった?」

 その小さ目の西沙の声に、すぐに返したのは萌江だった。

「大丈夫だよ。ありがとね」

 近付きながら気持ちだけが逸る。

「お昼寝タイム?」

「そ、だから大声は出さないであげて」

 西沙はそう応えながら、両腕を伸ばした。

 それを受け取る萌江は、すぐに大きく抱き抱え、その〝命〟を受け入れる。

 それは〝カバネの社〟の最後の地で見付かった〝命〟。

 あれから一冬の間、その子は御陵院神社で育てられていた。匿われていたと言ってもいいだろう。その〝命〟がどういう存在なのか誰にも理解出来ないまま、その真意を見定めるための時間。しかし、結局何も分からないままだった。

 そしてこれからのことが話し合われ、一つの道が示される。

 自ら進んで立候補したのは萌江と咲恵だった。二人が一緒に暮らし始めたタイミングもあったのか、そこに意味があるようにも思えていた。

 その〝命〟は、まだ赤子の姿。

 穏やかな表情を浮かべ、静かに寝顔を見せている。

 咲恵も萌江の隣からその子の顔を覗き込んでいた。その不安から来る興味の表情は笑みを携えてもいるが、それがなぜか萌江には嬉しかった。


 ──……大丈夫…………何が正しいかは……私たちが決められることじゃない…………


 小さな〝命〟を抱えながら寄り添う二人を前に、西沙は気持ちが騒ついていた。


 ──……これは…………本当に〝枷〟ではないの…………?


 西沙は、何かそんな不安を抱えながら口を開く。

「…………女の子だけど…………名前は、決めたの?」

 萌江が柔らかい表情を上げて応えた。


「……うん…………〝スズ〟…………漢字はどうしようかな……」


 その目は、西沙が初めて見たもの。

 覚悟。

 不安。

 更にそれだけではない〝何か〟。

 それが見えない。


 ──……大丈夫なの…………?


「……出生届けは名前が決まってからでも大丈夫みたい。ま、清国会なら何とでも…………書類上の素性はどうとでも出来るみたいだけど…………」

 西沙の語尾が濁る。

 しかしその西沙の不安は、まだ萌江と咲恵には届いていなかった。

 萌江と咲恵にやがて訪れる静かな慟哭も、西沙には届いていない。





       「かなざくらの古屋敷」

      〜 第二五部「黒い点」終 〜


             エピローグへつづく

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