第二五部「黒い点」第5話
いつの間にか、すでに太陽が高い。
車のガラス越しに顔に当たる陽の光が暖かかった。
西沙の指示で、病院に行く前に仮眠を取っておいて正解だった。西沙も杏奈も早朝に毘沙門天神社に行ってから、未だにノンストップで動いていた。
やけに今回の一件は気持ちが張り詰めた印象があった。
少なくとも杏奈はそう感じていた。
未来を見ることの出来る能力が西沙にはあった。その西沙が恵麻に会うことを求めてる。杏奈に迷う理由はない。
しかし気になるのは、萌江が冷静ではないこと。
杏奈の中の萌江はいつも冷静だった。常に捉え所のないような笑顔を浮かべながらも次の一手を見据えている。
だからこそ強い。
西沙以上に未来を見れる能力者。
誰もが信頼を寄せる実質的なリーダー。
しかし、杏奈はそれが間違いであることを知っていた。一〇〇%ということはあり得ないことを知っていた。
どんな人間関係にも存在する隙間。
萌江に一番近い存在であるはずの咲恵との間ですら、それは存在する。しかしそれが二人の強さであることも知っていた。
清国会から〝神〟の末裔と言われた人物。
確かに言い得て妙だと、杏奈も感じていた。他に見たことのない、どことなく〝神がかり的な魅力〟を持った女性。
〝完全でなくてはならない神〟。
そして、本人にその〝神〟になる気はなかった。
ただそれだけのことだと、杏奈は捉えていた。
〝神〟とはそういうものだった。
西沙もそれを理解していたのだろう。だから萌江に心酔してきた。そんな西沙に杏奈も信頼を寄せてきた。
だから今の関係がある。
それは簡単に崩れるようなものではない。
同時に、変化していくもの。
その頃、毘沙門天神社では全員が数時間の仮眠を取った直後。
佐平治と結妃が用意する食事はいつもカロリー控えめ。それでも誰も文句は言わない。むしろまだ幼い楓が一番喜ぶほどだった。
元々一般の世界から切り離され、明治維新前のような電気やガスの無い生活をしていた毘沙門天神社に発電機を持ち込んだのは〝蛇の会〟。冷凍冷蔵庫に保存する食材を定期的に持ち込んでいたのは大見坂親子。もちろん萌江と咲恵もここに来る時には何かしら食材を持ち込んでいた。
そうやって毘沙門天神社、強いては〝蛇の会〟は支えられていた。もちろんまだこれからの部分は多い。そして、これからどう変化していくのかは、不思議と誰にも見えていなかった。
──……そういえば……パートナーがいないのは私だけね…………
そんなことを思っていたのは雫だった。
楓の父親を知っているのは雫だけ。未婚で産んだ子供。公に出来ない父親。
もちろん自分で選んだこと。何も後悔はしていない。それでも昨夜よりも距離が近くなっている萌江と咲恵を見ると、昔の自分を少しだけ思い出していた。
──……楓を守るのが…………私の使命…………
──…………例え私が死んでも…………守ってみせる…………
萌江と咲恵のお互いに向ける目が、今までとは違っていた。
そしてそれに気が付いていたのは雫だけではない。
幼い楓でも感じた。色々な、多くの人たちの過去を見てきた。確かに実年齢よりは大人びているほうだろう。それでもまだ恋愛感情というものを理解することはリアルではない。
楓が感じていたものは、もっと違う何か。
板戸の開け放たれた開放的な本殿。
その本殿の軒先。
萌江と咲恵は肩を寄せ合ってそこから両足を降ろしていた。
──……やっぱり〝神様〟にはなれない人だなあ…………
楓はそう思い、二人の背中に笑顔を向ける。
これから、何かとんでもない世界を見せられる気がしていた。そう感じているとしか言えない〝何か〟。
だから、今だけは、せめてこのままでいいと思えた。
──…………最後まで信じてみせる…………
萌江と咲恵が立ち上がる。
萌江は両腕を高く上げて背中を伸ばし、大きく息を吐いた。
「いい天気だなあ」
すぐ横の咲恵も立ち上がって口を開く。
「暖かい内に……行こうか…………」
決して暗い声ではない。しかし振り切れたような明るさがあるわけでもなかった。
それは、何かを覚悟した声。
覚悟しなければ、出来ないことがある。
覚悟していても、認められないことがある。
認めることは、同時に何かの犠牲を孕む。
「西沙さんたちは待たなくてもいいんですか?」
祭壇前の楓の言葉に、萌江が振り返って応えた。
「……大丈夫…………結果は同じだよ…………」
☆
「……これを…………使うことにした」
そう言って、恵麻は手で〝それ〟を立てた。
祭壇に向かい、背後の西沙と杏奈に背中を向けたまま。
板間の上で小さく音を立てた〝それ〟は、本殿の祭壇に反射した陽の光を受けて鈍く光る。
長い鞘に合わせたかのような、長い持ち手の刀。
細く、何の装飾も無い。知らない人が見たらなんの価値も見出せないであろうと思うほど。黒い鞘には艶すらも無い。
西沙はその刀に嫌なものを感じていた。
仮にも清国会の頂点である雄滝神社にある物。
「これは……古くから雄滝神社に伝わる神剣だが…………血は吸っていない……」
その恵麻の説明に、西沙が静かに返した。
「それにしては禍々しいくらいに〝何か〟でパンパンに膨らんでる…………触るだけで吸い取られそうね…………」
もちろん西沙の隣の杏奈には、その真意は分からない。かといって、杏奈はもう以前のように慌てなかった。慌てる必要などないことを、経験から知っている。
続いて空気を揺らすのは恵麻の声。
「この刀は〝呪い〟を断ち切るための物…………私はこれで…………〝カバネの社〟を終わらせる…………」
「終わらせる?」
「あそこはこの世のものではない…………スズが生み出したものだ…………」
「…………スズが…………」
西沙が呟くように返した声が空気に溶けていく。
その西沙の目付きが変わった。
鋭かった目に、憂いが浮かぶ。
「…………聞かせて…………」
それは恵麻が初めて〝カバネの社〟を訪れた時のこと。
そこには、時間の感覚すらも無かった。
暑さも涼しさも無い。
自分という存在すらも怪しく感じるほどの、感覚の総てを失わせる世界。
恵麻はそれを全身で感じていた。
──……ここは……生きた世界ではない…………
「スズ様が……ここに?」
その恵麻の質問に、正面で地面に正座をしたままのナギは表情も変えずに応えた。
「はい…………何度かですが…………」
「何度だ」
「はて…………時の無い場所ではその数など記憶してはおりませんよ……」
そのナギの言葉に、思わず恵麻も声を荒げる。
「はっきりと申さぬか。御主の物言いは────」
「ではこう申しましょうか……そもそもここを御造りになったのは…………スズ様です」
「…………なんだと……?」
もちろん恵麻は想定などしていない。
続くのはナギの声。
「いつなのか、など……何度も説明している通り、時間の無い世界では意味の無い問いにございますよ。申せるのは、私もいつからここにいるのか……知らぬということだけ…………」
想定が出来ないだけでなく、理解が出来ない。
恵麻は気持ちより先に、その口から言葉が出ていた。
「スズ様は…………何をしに来たのだ…………」
そして、それに応えるナギの言葉も、想定外だった。
「……スズ様は…………自分を……産まれ代わらせたい…………と…………」
「……スズ様を…………?」
急に、恵麻は恐怖を感じた。
怖かった。
──……この感覚はなんだ…………聞かないほうがいいのか…………
「…………それは…………」
恵麻の口から、小さく言葉が零れ落ちていく。
「……その契約は…………」
その合間に挟み込まれるナギの声。
「…………はい……」
「…………………………奉納品は……」
「奉納品と共に…………〝成就〟させて頂きましたよ」
「成就だと⁉︎ しかし牧田絵留は────」
「そう言えば、そのようなお名前でしたか…………確か、牧田靖子…………」
「待て…………スズ様は絵留に取り憑いて────」
「奉納品はどちらでもよろしかったのですが…………」
「……なんだと……? 牧田靖子から産まれ代わるのなら…………」
「…………いえいえ……」
ナギの口元に笑みが浮かんだ。
恵麻は、その表情に何も返せない。
続くナギの声に、背筋が冷えた。
「……〝母体〟は…………牧田靖子ではありませんよ…………」
意図的か、恵麻の言葉を待っているのか、ナギは言葉を止める。
バラバラだった霧の中のパズルが、少しずつ、その姿を表してきた。
それは恵麻にも分かる。
理解出来る。
理解が出来てきた。
しかし、開きかけた口は震えるだけ。
震える声を絞り出すだけ。
「……その……〝母体〟は…………誰だ…………」
☆
半年。
耶絵の膵臓癌が見付かる。
それからは早かった。
医師の考え方もあったのかもしれないが、耶絵は総てを医師から聞いていた。
「あの子の身内は私だけです。最後まで、お互いに悔いを残したくありません」
その言葉が医師を動かしたのか、すでに癌細胞が体のあちこちに転移していることと、余命僅かであることを聞くことになる。
耶絵は靖子に総てを話した。
癌細胞の転移エリアの広さに反比例し、現在は特別生活する上で目立った体のトラブルはない。そこに問題が発生したら入院を考えることに、親子二人で決めた。
靖子も決して狼狽えることはなかった。
しかし、最初に話を聞いた夜は、明らかにその目が震えていた。
懸命に耐えているのが耶絵には感じられたが、敢えて感情を揺さぶる必要はないと思えた。お互いに普通の人生を生きてきたわけではない。
──……私よりも……この子は強い…………
耶絵はそう思うことで、自分の感情を押し殺す。
やっと再会出来た親子。
靖子が子供を産むことの出来ない体になり、やっと清国会との関わりを断つことになり、やっと自由になった。
自分の体に対して、もちろん多くのことを諦めて生きるしかない。しかし、失ったことの代わりのように再会出来た母の存在は大きかった。むしろその再会があったからこそ生きようと思えた。
靖子のアパートで二人での生活を初めて半年。
季節は冬の入り口。
もうすぐ雪がチラつく頃。
靖子は医者の判断が間違いであったことを祈る日々。
そして、毎朝、耶絵が目を覚ますことに感謝した。
靖子は耶絵の病気の発覚の後、すぐに仕事を辞めた。耶絵の持ってきたお金の貯蓄はまだある。一日でも長く一緒にいたかった。しかもいつ体調に変化があるか分からない。その時にすぐに動けるようにしたかった。
年末。
クリスマスが終わってすぐ。
耶絵は静かに亡くなった。
最後の言葉。
「……ありがとう……」
一言だけ。
涙を堪えきれず、靖子は何も返せないまま。
身寄りはお互いだけ。
最後にその自分が看取ることが出来た。
そう思うしかなかった。
しばらく、握った耶絵の手は温かいままだった。
萌江は、目の前で母が自殺しているにも関わらず、その時はまだ一歳。もちろん記憶はない。
咲恵は両親の元を逃げ出してから会っていない。今生きているかどうかも分からない。
そんな二人からすると、靖子の姿は、寂しくも、どこか羨ましかった。
母親、しかも唯一の家族の死に目に会えた。
それでも残酷な現実であることに変わりはない。
「今は、私たちは見えてないんだよね」
萌江のその言葉に、すぐに応えたのは楓だった。
「大丈夫です。姿は見えなくしてます。こんな所ですから……」
「……良かった」
そう小さく返したのは咲恵。
三人は、病室の隅。
それでも姿は見えないとのこと。
それで良かったと、三人は思っていた。
耶絵と靖子を、二人だけにしてあげたかった。
「……一度、戻ろうか」
そう言ったのは萌江だった。
葬儀と火葬、埋葬。身寄りもお金も無いために最低限なものだけだったが、それでも一通り終わり、靖子はアパートに位牌を持ち帰った。形だけとはいえ、小さな仏壇を買おうと考えた。
部屋に残された母の私物が、不思議とどこを向いても目に入る。
最初は最低限の荷物しかなかった。そのため、ほとんどは一緒に買った物だ。買った時の思い出まで蘇る。
──……私が死ぬ時は…………一人なんだろうな…………
春に就職してすぐに入院と手術。夏の初めから母と暮らしたが半年で退職。
その流れの結果として、再び一人になってからの再就職は簡単ではなかった。
何か特殊技能があるわけでもない。
もう相談出来る相手もいない。
もう一人で生きていくしかない。
とりあえずは時給のいいアルバイト。それからやりたいことを探そうと思った。
すぐに見付かったのは夜の仕事。もう何年もやっているような地元のスナックだった。正直、若いスタッフが大勢いるような街中のキャバクラは不安のほうが大きい。
養護施設にいた負い目なのか、幼い頃から友達を作ることが苦手だった。仲良くなった同級生も一時的な関係で終わるのがいつもの流れ。大勢の人間の中に紛れることに恐怖心を覚えることもある。
少ないスタッフの小さなお店のほうが丁度いいのだろうと自分で判断した。お店が小さければ、一度にくる客の数も少ない。若い人が行き来する大きな通りではなく、少し細い通りにある古いテナントビル。
そんな店で靖子は働き始めた。右も左も分からない世界。最初は教わるばかりで気苦労も絶えなかったが、店のママも他のスタッフも悪い人たちではなかった。実際働くのを嫌だと感じたことはない。
そんな仕事の中で少しずつ他人と関わることに慣れ始めた頃、その店の客、中尾太一に出会う。太一は靖子よりも三歳年上。最初は職場の先輩らしき人たちと数人の来店だった。
しかし、それからは太一だけで通うようになっていった。
やがて数ヶ月、外で会うようになると、お互いの気持ちが少しずつ近付いていく。お互いに若いということもあるのだろうか。気持ちは抑えようとして抑えられるものではない。
しかし、靖子は悩んでいた。
自分が妊娠出来ない体であることを伝えるべきか否か。
会話の端々から、太一が子供を欲しがっていることは分かっていた。その度にいつも靖子は言葉をはぐらかす。太一が靖子の体のことを知らないからとはいえ、やはり子供の話をされるのは気持ち的に辛い。
しかし何より怖かったのは、太一が真実を知ったことで、自分から離れていくこと。
それでも太一から結婚の話を仄めかされた時、伝えるしかないと思った。もし離れてしまうとしたら、結婚前のほうがいいと思ったからだ。
覚悟を決めた靖子の言葉に、太一の返事は意外なもの。
「そういう人がいることは知識では知ってたけど……今まで身近なものと思ってなかった……ごめん…………もう少し気を付けるようにするよ」
「謝らないで……私も言ってなかったことだし…………」
靖子はそう返しながらも、やはり次の太一の言葉が怖い。
「こんな僕のことを…………嫌いになったかな……?」
それは完全に予想外なものだった。
「え?」
「もう少し気を使えるようにならなきゃとは思ってるんだけど…………僕はまだ靖子ちゃんと結婚したいと思ってる。靖子ちゃんが嫌じゃなければだけど……」
「…………子供……無理なんだよ…………」
「僕は子供のために結婚がしたいわけじゃないよ。これからも一緒にいたい人が見付かったから結婚したい。それが靖子ちゃんだったんだ」
そう言ってくれたことが、純粋に嬉しかった。
しかも身寄りのない靖子のために、太一が婿養子として籍に入ってくれると言う。元々太一には兄が二人いた。
お互いの家庭環境のこともあり、式は形だけのもの。自分たちだけの、写真の撮影が中心の小規模なものとなった。
それでも、二人は幸せだった。
他には何もいらないとさえ思えた。
結婚から一年もせずに、中古ではあったが一軒家を購入した。
そして再び、自分の体のことで気苦労を繰り返すことになる。
バブル崩壊後でもまだまだ経済は動いていた。新しい家が並ぶ新興住宅地。そこには自分たちとそれほど年齢の変わらないような家族がほとんど。それでも靖子と太一のように夫婦だけという家庭は見当たらない。
小さな子供をいつも目にし、しかもそれぞれの家族の姿は幸せそうに見えた。
そして直接的、間接的に靖子に向けられる言葉。
それは〝子供〟に関わること。
誰もがまだ子供がいないことが不思議で仕方がないらしい。それでも、その言葉の一つ一つが靖子の神経をすり減らしていった。知らなければ仕方がない────そう思うしかない。
一軒家で暮らすようになってこんなことになるとは想像もしていなかった。ただただ後悔しかない。
それでも太一は優しかった。
身寄りがなく、しかも夜の水商売をしていた靖子は太一の実家からよく思われていなかった。最初の内は子供が出来ないことでも責められたが、その度に太一が守ってくれた。家も太一の実家からは出来るだけ遠い所に買ったほど。
だからこそ、太一との生活を守りたいと思った。
しかし、同時に申し訳なさが先に立つ。
自分が子供を産めれば、と何度考えただろう。
それはどんなに願っても不可能なこと。
──……そんなことが出来るのは…………〝神様〟だけ…………
空がオレンジ色からしだいに青く、暗くなり始める時間。
公園で遊んでいた子供たちは一斉に母親に手を引かれて去っていく。
だいぶ肌寒くなってきた季節。
もうすぐ冬。
──……もうすぐ……今年もお母さんの命日か…………
途端に静かになった公園。
買い物帰り。
そこは、母と再会した場所だった。
久しぶりに、あの時のベンチに座ってみる。
なんだかおかしな感覚に感じられた。
──……絶望してたのに……あの時……お母さんに再会出来た…………
──…………嬉しかったな…………
──……もう…………会いにきてくれないの…………?
「……萌江…………最後に聞いていい?」
靖子から離れた場所で、その姿を見ながら咲恵が言葉を繋いだ。
「今、萌江の中で…………〝答え〟は出てるの?」
すると隣の萌江の口調は柔らかい。
「うん…………正しいのか間違ってるのかは分からないけど…………スズの目的もまだ分からないけど、絵留が産まれなければスズは別の道を選択するだけ。そもそも、そんな簡単に過去って変わるのかな…………結局私たちって、過去の出来事をなぞってるだけなんじゃないの? …………見てるだけのような気がする…………何者かになってる気になってた…………私たちが何をしようと、きっとそれも過去の一部なんだよ…………」
「今まで雫さんや楓ちゃんと過去を遡って思ってたけど、結局その説明がしっくりくるかもね」
「……そうなんだよね……私が介入しなければおかしい過去が目の前にある…………でも……これからの靖子さんの人生も知ってる…………私の決断しだいでは、靖子さんも旦那さんも…………もっと長生き出来るかもしれない…………でも────」
「あれ?」
その咲恵の声に萌江が顔を振った時、すでにその咲恵の姿はなかった。
その向こうにいるはずの楓の姿もない。
──……………なに………⁉︎
そして反対側から、声。
「ごめんね……少し二人だけで話したかったから、先に帰ってもらっただけ」
萌江はすぐには振り返らなかった。
何度も、記憶の中で聞いた声。
「……へー…………」
小さく萌江が応えると、その声はすぐに返してきた。
「あまり驚かないのね。直接あなたの前に出てきたっていうのに」
「どうせここは色々なものがねじ曲がった空間なんでしょ。何が現実かなんて分かりゃしない」
「まあね。私にも説明出来ることじゃないから、このくらいにしておくわ…………萌江……」
聞き間違うはずのない、母の声。
京子の声。
萌江はゆっくりと顔を回す。
萌江よりも長い髪。
それでも化粧の薄いところは萌江と同じ印象。
萌江のあまり履かないようなロングスカートにシルク生地のような長袖シャツ。
それでも萌江と同じ、派手なほうではない。
その姿に、萌江は口角を上げて口を開いた。
「巫女服でも着てきたら良かったのに」
「神社の産まれでも子供の頃しか着たことがないからね……知ってるでしょ。私服にしてたら変な趣味があると思われるし」
「それはそれで面白いけどね」
「なんだか変な感じ。自分と話してるみたい」
「親子だしなあ」
「それもそうね」
そう言いながら、京子は萌江のすぐ後ろへ。かなり低いヒールの音がベンチの所で止まった。
萌江は小さく溜息を吐き、体を回す。
そこには思っていたよりも小さく見える母。ベンチに座ったまま小さく笑みを浮かべ、やはりその眼差しは萌江の目を捉えたまま。
萌江はその隣に腰を降ろすと、顔を再び靖子へ向けた。公園の中央にある噴水を挟んで、その水の雫の中に靖子の姿を見据えながら、先に口を開いたのは萌江。
「ここって、本当に過去なの? もしかしたら過去の映像を見せられてるだけなんじゃないの? 時を遡っているように感じてるだけで…………」
「どう捉えるかは任せるわ…………」
相変わらずの口調の京子は、特別感情を露わにするわけでもなく、ただ淡々と言葉を返していく。
「過去って、過ぎ去ったものでしょ。つまりは誰かの記憶に過ぎないのよ」
「…………誰か?」
「そ。この場合だったら…………やっぱり靖子さんでしょうね……」
「なんでかなあ……あの人の未来っていうか…………靖子さんがこれからどうなるか知ってる…………それなのに、どうして私はそうなる道を選ぶんだろう…………しかもそのタイミングで、お母さんがここに現れる意味は何?」
「そろそろ気が付いてる頃だと思ってた」
「んー……どうなんだろうなあ……」
萌江はそう言いながらも、決してはぐらかしているわけではない。そんなものが母に通用しないことは知っていた。
その萌江が続ける。
「正直……そうなのかも…………って思ってることは、まあ、確かにあるよ」
「ま、その、想像通り…………だって、靖子さんの一件は、あなた自身に関わることでもあるでしょ?」
──…………そっか…………
「気付いてるなら、どうして悩むの? 咲恵さんに会いたくないの? 聞くまでもないとは思うけど」
その京子の言葉を受け、萌江は視線を落として応える。
「ねえ……聞くよ? …………どうして…………私を産んだの?」
「産まれなかったほうが良かった?」
「……確かに産まれたから私は咲恵に出会えた。それは事実。しかも咲恵に会えたことに後悔なんかしてない。でも、こうだから産まれて良かったっていうのはズルいよ。ただの結果論で自分を納得させたいだけ…………そもそも産まれなければ何の欲望も無いまま……何も知らないまま……そうすれば苦しむこともなかった…………」
「今更あなたに一神教の教えなんて無意味ね。あんなものは生きてる人間がこの世の中を納得したいだけに作ったもの。考え方は理に叶ってるけど。結局みんな自分を中心にしか世界を捉えることは出来ない。他人の気持ちを考えることは出来ても本当の意味での共有なんか出来ないものでしょ。幸せだと思えれば産まれてきて良かったと思えるし、不幸だと思ってしまえば産まれなければ良かったと考える。誰かに責任を押し付けてもムダ…………もちろん総てが自分で選択出来るわけじゃない。周りの環境で地獄から抜け出せなくなる人だっている。産まれてきた総ての人間の人生に意味があるなんてことを言うつもりはない。自分の責任とは関係なく死んでいく人だって沢山いる。生物の命なんて……地球の歴史の一部でしかないのよ」
「お母さんの哲学なんて……どうでもいい。私は事実としてお母さんから産まれた。生きてる。私が聞きたいのは、どうして子供を産めない体だったお母さんが私を産んだのか」
「もう気が付いてるんでしょ? こうして今、あなたが来たから、私はあなたを産むことになる。あなたが産まれなければ、あなたは私に会いになんか来れなかったはず。あなたが今、ここにいることが答え」
「私が何もしなければ?」
「総てはあなたしだい。自分で決めなさい。でも、私は幸せだったよ。私たちの血なんか関係ない。たった一年だけだったけど……私はあなたに出会えて幸せだった。だって…………母親ですもの…………だから私の気持ちだけは伝えておく」
「……ズルいなあ…………」
「親子だからね」
「いや……そうじゃなくて…………どうしてこのタイミングで出てくるの?」
「面白いと思ったから」
「……面白い……?」
「あなたなら…………例え違う選択をしても、なんとでも出来るでしょ?」
「出来るって、どういうことよ…………」
「あなたが気付いていないはずがない。この世界のルールを捻じ曲げられるほどの能力者なんだから…………」
「ルールを? いくらなんでも…………」
「出来るよ。そうね……あなたなら────」
「────そうやってみんな宗教に縋ってきたんだ…………そうやってみんな……その名前を理由にして殺し合ってきたのが人の歴史じゃないか…………」
「……みんな、それを…………」
「────違う────!」
「……〝神〟と呼んできた…………」
「────ちがう‼︎ そんなものは〝悪魔〟だ‼︎」
「あなたは…………どっちになりたいの?」
萌江は、無意識の内に立ち上がっていた。
すぐに足が動く。
──…………私は…………〝神〟なんか信じない…………
靖子の姿がしだいに大きくなっていく。
ベンチに座ったまま、大きく項垂れ、地面に視線を落としたまま。
ベンチに作られた影が濃い。
その靖子の視界に、萌江の影。
「……良かった……私はあなたに出会えて……ホントに良かったと思ってる…………」
その声に靖子が顔を上げた。
五歳の時に一度会っているとはいえ、もちろんそれは靖子の記憶の奥底。
──…………神様…………?
それを振り払いながら、靖子が返した。
「…………あなたは……?」
「……今まで苦しんできたね……もう解放されてもバチは当たらないよ」
逆光で表情を隠しながら、その萌江が続けた。
「子供…………欲しいんだよね…………」
──……これからどうなるか知ってる…………最悪の終わり方をする…………
生気を感じさせない靖子の目。
その目がどこともなく泳ぎ続けながら口が開いた。
「────子供……ですか? どなたか知りませんが…………」
「子供、欲しいんだよね」
「……養子の斡旋でしたら……私たちは養子は取らないと決めていますので……」
再び靖子は視線を落とす。
すると、萌江はゆっくりと歩を進めながら返していった。
「自分の血を分けた子供が欲しい? 自分がお腹を痛めた子供じゃなきゃ愛情を注げない?」
「いえ…………養子を取れば、私の子育ての欲望は満たされるかもしれません……でも、その子が身寄りのない我が家を継ぐ意味ってなんですか? 血の繋がりもないのに苗字を守るなんて……私の自己満足のためじゃ……その子の人生が可愛そうです…………しかも最後は一人で残されて……誰かのせいで何かに縛られるなんて…………」
萌江は首の後ろに両手を回した。
そして外したチェーンを左手に巻きながら、そこにぶら下がる〝火の玉〟が夕陽を受け入れていく。
そのまま、靖子の左隣へ腰を降ろした。
靖子が驚いた表情を向けた直後。
水晶を下げた萌江の左手が靖子のお腹へ。
「…………最初は…………女の子…………」
──…………スズに取り憑かれて……操られる…………
「少し経って…………もう一人…………」
──……旦那さんが殺す…………あなたと一緒に…………
「二回……妊娠するよ…………」
──…………これから…………地獄が待ってる…………
「だから…………あなたの自己満足なんかじゃない…………」
──……私は…………〝悪魔〟だ…………
呆然とした表情で、靖子は萌江を見ていた。
幾つもの大粒の涙が零れていることにも気が付かない。
そして、萌江の顔に、生気はなかった。
それでも、その萌江の耳に届く足音。
聞き覚えのある低いヒール。
そして、ベンチの後ろから聞こえるのは京子の声。
「これからあなたは…………私を母親として選ぶ…………私から産まれることを望む……」
その声は靖子には聞こえていないらしい。
呆然と萌江を見続けるだけ。
それを確認しつつも、萌江は靖子の存在を無視して返していく。
「そんな宗教概念なんて…………お母さんらしくないね…………」
「他の人たちがどうなのかなんて私は知らない。でも、事実でしょ? 確実なのは、私はあなたと同じだってこと。子供を産める体じゃなかった…………あなたの〝力〟がなければ私はあなたを産んでいない。どうして?」
──…………どうして…………?
「どうして私を選んだの?」
──……私は…………
「……教えてよ…………スズ…………」
──…………何を……望んだ…………?
「かなざくらの古屋敷」
〜 第二五部「黒い点」第6話(第二五部最終話)へつづく 〜
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