第二二部「冷たい命」第4話 (修正版)

 雨は少しずつ強くなっていた。

 まるで真夏の大雨。

 それでもその音の大きさに反して、冷たい雨。

 夕闇の冷え込みも相まってか、祭壇の炎の作り出す熱が奪われていくように感じられた。

 その空気は本殿内の緊張感を否応もなく高めていく。

 萌江もえ咲恵さきえの目の前に〝真実〟があった。

 蛭子ひるこ神社の初代当主、加藤砂宮かとうさきゅうが記した文献。現当主の加藤苑清かとうえんせいによれば清国会しんこくかい金櫻かなざくら家の真実が記されているという。清国会しんこくかいの都合に合わせた歴史ではない。本当の歴史がそこにある。

 しかし、なぜか萌江もえ咲恵さきえもそれをすぐに手に取ることが出来ずにいた。

 二人が、ずっと知りたかったもの。

 それは間違いがない。それなのになぜか手を伸ばせない。

 知ってしまうことへの恐怖からか、二人は文献に視線を落としたまま動けない。

 苑清えんせいが説明を続けた。

「この存在は清国会しんこくかいでは私以外誰も知らぬこと……記したのは我が先祖、加藤砂宮かとうさきゅう……中に書いてありますが、六〇〇年ほど前のことです…………」


 ──……六〇〇年…………どうして誰も見付けられなかった…………


 萌江もえはそこに着目していた。


 ──……その長い年月にも意味があるのか…………


 ──……誰かの邪魔か……誰かの迷いか…………


清国会しんこくかいの発足には、金櫻かなざくら家が大きく関わっています…………金櫻かなざくら家が無ければ現在の清国会しんこくかいは存在しなかったでしょう。しかし同時に、金櫻かなざくら家は清国会しんこくかいによって作られたものでもあります」

 すると、重い口を開いたのは咲恵さきえだった。

金櫻かなざくら家とは何なんですか⁉︎ 天照大神あまてらすおおみかみ末裔まつえいと伝えられてきた金櫻かなざくら家の血筋って……」

 苑清えんせいが言葉を繋げていく。

「私も信じて参りました…………そこには何の疑いも無かった…………ただ自らの立場に酔いしれて、真実を見ることを怠ってきました…………何十年もの長い間……」

「その真実が……偶然に見付かったと…………」

「いえ、偶然ではありません……必然です」

 その苑清えんせいの言葉は嘘とは思えないものだった。

 覚悟を感じる声だった。


 ──……この人は……総てを捨てる覚悟でここにいる…………


 咲恵さきえはそう感じていた。

 苑清えんせいの小さく震えた声が続く。

「……清国会しんこくかいに利用された先祖の御霊みたまに代わって、私は清国会しんこくかいに一矢報いたいのです……」

 苑清えんせいはまっすぐ咲恵さきえの目を見つめた。


 ──…………本気なのね…………


 咲恵さきえがそう思った時、そこに声を上げたのは、しばらく黙ったままだった萌江もえ

「あなたの復讐なんか興味ないよ……あなたのために私たちが動く義理はない」

 その萌江もえの意外な言葉に、苑清えんせいは視線を僅かに落として目を細めた。

 そして繋がる萌江もえの声。

「でもね…………清国会しんこくかいを許せないのは私たちも同じ…………今の清国会しんこくかいが作れる世界は明るい未来なんかじゃない…………誰かの悔しさや憎しみを集めるだけで、人をしいたげようとしてるようにしか感じない…………」

 いつの間にか、少しだけ萌江もえの声は柔らかくなっていた。

 その言葉が続く。

「いつからそうなったのかな…………権力って……どうして人を変えてしまうんだろう…………清国会しんこくかいは何を守ろうとしたのかな…………それはホントに守る価値のあるものだったのかな…………国をうれいた最初の頃の気持ちなんて……どうせみんな忘れちゃったんだよね…………でも歴史は変えられないよ。総ての時間は〝今〟。総ての過去が総ての〝今〟を作っていく…………そして総ての〝今〟が〝未来〟を構築する…………」

 苑清えんせいが小さく顔を上げかけた。

 さらに続く萌江もえの声。

「────絶対に終わらせるよ…………このままじゃ……自分を許せない…………スズのためにもね…………」


 ──…………スズ……?


「……スズって…………誰?」

 咲恵さきえが反射的に呟いていた。

 萌江もえに顔を向けると、当の本人は自覚の無い言葉だったのか、呆然としたまま。


 ──……スズ…………


 そう思った萌江もえの耳に入るのは苑清えんせいの声。

「……その名前…………」

 その声に咲恵さきえが顔を振ると、苑清えんせい萌江もえに驚愕の表情を向けて続けた。

「……御存知だったのですか…………やはり真実だった…………」

 そして咲恵さきえが声を張り上げる。

「────教えて! 金櫻かなざくら家って何なの⁉︎」

 時の流れは残酷だ。小さな一瞬で総てが変わる。

 過去をさかのぼれる咲恵さきえでさえ見れなかった真実。ずっと咲恵さきえは不思議でならなかった。どうして金櫻かなざくら家の最後の末裔まつえいである萌江もえの隣にいてもその真実を見ることが出来なかったのか。

 今、その真実に近付いた。


 ──……重要な誰かが…………まだ知らない誰か…………


 しかし、咲恵さきえの問いかけはすでに遅い。

 苑清えんせいも逃したくはなかった。

 それでも苑清えんせいの返す言葉は、突然の出来事に遮られる。

「──金櫻かなざくら家は────」

 その時、萌江もえの隣で咲恵さきえの体が動く。

 床に倒れる音────。

 その音が空気を揺らした。

「────咲恵さきえ‼︎」

 萌江もえが叫んで腰を浮かした直後、その向こうに見えるのは白い足袋たびの両足。

 巫女みこ服の朱色しゅいろすそ

 萌江もえはゆっくりと視線を上げた。

 やがてそこに見えたのは、白い巫女みこ服を大きく血に染めた────さきの姿。

 そして落ち着き払った目。

 しかし、そこに生気せいきは感じられない。

 さきは僅かに怪しげな笑みを浮かべたまま。

 萌江もえは初めて、さきに恐怖を感じた。

 そのさきが口を開く。

「……苑清えんせい…………大義たいぎであった…………」


 ──……〝敵〟は、何だ…………


 萌江もえの頭にそんな言葉が浮かぶ。

 多くの考えがよぎった。


 ──……今……信じるべきは…………


 もはや苑清えんせいを信じられるのかどうかも分からない。

 萌江もえは僅かに視線を落とし、さきの奥に苑清えんせいの姿を見た。

 苑清えんせいは唇を噛み締めながら床に視線を落としている。

 それを背中で感じたのか、さきの表情から笑みが消えた。

「……苑清えんせい…………よもや貴様…………」

 苑清えんせいの落とした視線の先には一冊の文献。

 さきが足を一歩下げた直後、萌江もえの目の前にもう一人の巫女みこ服の背中。


 ──……まさか…………


 その姿は足を大きく広げ、膝を曲げて姿勢を落としていた。

「…………御世みよ……」

 萌江もえは反射的に口を開いていた。

 後ろ姿で分かった。

 顔を見なくても分かる。

 そう感じた。

 八頭鴉やずがらすの一件が萌江もえの記憶に蘇り、記憶をつつく。


 ──…………どうして…………?


 さきがさらに一歩後ずさった。

 御世みよは、両腕をさきに向けてまっすぐに伸ばし、さやの着いたままの短刀を横に握りしめる。

 その御世みよの低い声が、本殿に響いた。

「……私はこの世の者ではないぞ。御主如おぬしごときに勝てるものか……さき…………」

 その瞬間を見逃さなかった。

 苑清えんせいが動く。

 文献を手で払うと、それは床を伝って萌江もえの目の前へ。

 萌江もえは反射的にそれを手にする。

 しかしその直後、苑清えんせいは首を両手で掴むように苦しみ始めた。床に倒れ込み、声も出せずに体を震わせた。

 そこにさきの声。

苑清えんせい……貴様には色々と聞かねばならんようだ…………」

 その時、萌江もえの頭に御世みよの声が届いた。

萌江もえ様、一気に参道へ────』

 それに萌江もえは頭の中だけで返していく。

『でも……咲恵さきえは…………?』

『すでにさきの作った結界があります。私でも目の前の咲恵さきえ様にはれられません。さらには本殿を一〇〇名ほどの御陵院ごりょういん家の従者じゅうしゃが取り囲んでおります。命を狙われているものと……清国会しんこくかいにとってはもはや萌江もえ様の御命は必要の無いものとなりました。奴らが欲しているものは〝京子きょうこ様〟。確実に萌江もえ様の御命を〝取り〟に来ます────御早く!』

 御世みよの姿の先、倒れたままの咲恵さきえの姿。

『……だって…………咲恵さきえが…………』


 ──……残してなんかいけるわけがない…………


 御世みよが返した。

『私が諦めると御思いですか?』

 その言葉に、萌江もえは無意識に手にした文献をコートの左脇に忍ばせた。それを服の上から左手で支え、腰を浮かせる。

 その姿に、さき眉間みけんしわを寄せた。

 萌江もえには自分の行動が正しいのか判断など出来ないまま。


 ──……これで、ホントにいいの?


 未来が見えなかった。

 それを邪魔しているのが誰なのかも分からない。

 それでも、萌江もえは床を蹴った。

 走った先、階段を飛び降りると、振り返らずに参道の石畳をブーツが叩き付ける。

 大粒の雨が容赦無く顔を打ち付けた。

 その左右から狩衣姿かりぎぬすがたの群れが押し寄せる。

 さきの目を見たまま一歩だけ後ずさった御世みよが、一気に背中を向けて萌江もえを追いかけた。

 あっという間に帯刀たいとうした男たちの間をすり抜けて前に躍り出ると、片膝を着いて右手を参道の石畳へ。

 男たちの前の空間がゆがむ。

「────結界とはこういうものだ……さき────」

 それ以上先に、誰の足も進めない。

「再び命を頂いた〝あの世の者〟をあなどるな」

 そして、そのゆがみが大きくなる中、御世みよの姿がきりのように消える。

 萌江もえは闇雲に参道を走り続け、やがて駐車場の咲恵さきえの車へ。


 ──……靴を脱ぐなってこういうことか…………


 差し込まれたままのキーを回し、エンジンが掛かると同時にアクセルを踏み込む。

 タイヤが容赦無く水溜りを弾き飛ばした。

 そして、メーターも見ずに走り続ける。


 本殿の中では、倒れて意識を失ったままの咲恵さきえさきが見下ろしていた。

「御迎えに上がりました…………金櫻京子かなざくらきょうこ様……」

 そして次の瞬間、そのさきの姿が煙のように消える。

 それはさきの作り出した幻。

 同時に首の苦しさから解放された苑清えんせいは、息を切らしながらやっと体を起こしていた。


 ──……加藤かとう家も……われの代で終わり…………


 もはやそこには恐怖しかない。

 逃げられるはずがなかった。清国会しんこくかいのナンバー2である御陵院ごりょういん家に弓を引いた。それは清国会しんこくかいそのものに反旗はんきかかげたようなもの。


 ──……逃がしておいた息子たちが見付からないことを祈る…………


 苑清えんせいが顔を上げると、参道を悠々と歩く二人の影。

 血塗ちまみれの姿のさき綾芽あやめ

 二人を避けるように、周囲の男たちは距離を取っている。

 その二人が本殿に上がると、苑清えんせいは震える手を誤魔化すように正座を正し、深々と頭を下げた。

 全身に汗が浮かぶ。

 その体の寒さは、冷たい雨が空気を冷やしているだけではない。


 ──……石は投げました……砂宮さきゅう殿…………これで良いのですね…………


 そんな苑清えんせいの頭に降りかかるさきの言葉は、あくまで冷淡だった。

 血の匂いを含む、まるでまとわり付くような声。

「……面白いものよのう苑清えんせい、貴様が裏切るとは…………」

 苑清えんせいが何も応えないままにさきの言葉が続く。

「あの文献に書かれているものは────」

「────金櫻かなざくら家の出自しゅつじです」

 苑清えんせいさきの言葉を遮った。

 それは通常であれば立場的に有り得ないこと。しかし苑清えんせいはすでに一歩踏み出していた。


 ──……引き返す気は無い…………御先祖の恨みを晴らす為なら…………


出自しゅつじだと?」

「左様……それは同時に清国会しんこくかい出自しゅつじ…………あれは我が御先祖、加藤砂宮かとうさきゅうが書き記した物。例え御陵院ごりょういん様であろうとも開かずに中身を見ることは出来ぬ物……開けることすら出来ませぬ」

「ほう……面白いことを言う。貴様にたくされたとでも言うのか」

 さきの変わらぬ声色こわいろに、苑清えんせいは意を決して頭を上げた。

 顔を上げてさきの目を見、震えながらも応える。

金櫻かなざくら家の真実は…………清国会しんこくかいの存在意義を問うもの! 多くの歴史と同じ、しん辿たどられたものではない! 作られた〝神話〟なのです!」

 苑清えんせいの言葉が空気を振るわせるが、さき綾芽あやめも顔色一つ変えなかった。

 そのまま、さきが再び口を開く。

苑清えんせい、貴様はこれまで多くのやしろをうまくまとめ上げてきた……礼を言う。大義たいぎであった。本日より蛭子ひるこは〝金櫻京子かなざくらきょうこ様〟が納められる。最後に見ておくがよい……これが真実だ…………」

 さきはそれだけ言うと、咲恵さきえの横に腰を降ろした。

 その姿は自身に満ちていた。まるで何かが解き放たれたかのように力強くもあり、まるでそれは〝脅威〟を体現しているかのようだった。

「さて……綾芽あやめ…………京子きょうこ様をお迎えしますよ」

「はい…………母上……」

 そう応えた綾芽あやめは、咲恵さきえを挟むようにさきの向かいに座る。

 二人が仰向けの咲恵さきえの首筋に目をやるが、そこにはあるはずの〝水の玉〟が無い。

御世みよか…………小娘が……」

 さきがそう呟くと、綾芽あやめは口角を上げて言葉を繋いだ。

「……京子きょうこ様も、ですね」

「どういうことですか綾芽あやめ

「なに……隠れているだけですよ…………こちらの様子を伺っているものと…………母上、御早く」

 京子きょうこ依代よりしろとしているはずの咲恵さきえの中に、京子きょうこの存在が感じられなかった。それでも綾芽あやめは僅かに感じていた。確信があった。

 その綾芽あやめさきの目を見ながら続ける。

「〝迷い〟は〝けがれ〟を生みます……見透みすかされますよ……母上」

 そして綾芽あやめ妖艶ようえんな笑みを浮かべた。


 ──……見透みすかされる? ……何をだ…………


 さきは全身に鳥肌が立つ自分を感じ、同時に過去の感覚が蘇る。


 ──……私は……恐れているのか………………


 それでもさきは両手を合わせ、指を絡めると、呪禁じゅごんを小さく唱え始める。

 途端に本殿に重い空気が流れた。

 雨の音が、いつの間にか強くなっていた。

 参道では苑清えんせいの従者が御陵院ごりょういん家の従者じゅうしゃの群れに取り囲まれている。

 苑清えんせいは床に視線を落としたまま、ただ、唇を噛み締めていた。





 綾芽あやめの力は強大だった。

 まだ赤子あかごの内は本人もコントロールが出来ていないのか、さきもその能力を計りかねた。しかしすでに言葉を理解していると感じる時も多く、実子じっし涼沙りょうさが産まれてからはさらにそれは顕著けんちょになる。

涼沙りょうさに比べて、綾芽あやめはあまり泣くことがありませんね」

 夕食の時、さきは向かいに座る夫の祐也ゆうやに何気なく言葉を投げていた。

「そうですか? 私には涼沙りょうさと同じに感じていましたが…………」

 祐也ゆうやはそれほど気にもしていないような返し方。

 さきは違和感を感じながら返した。

「そうでしょうか……やはり綾芽あやめはどこか不思議な子に感じます」

涼沙りょうさと同じ私たちの子ではありませんか」


 ──…………私たちの子?


「しかもさきさんが最初にお腹を痛めて産んでくれた長女じゃないですか」


 ──………………え? 何を…………

 

 ──……まさか……記憶を操作されてるわけでは…………


 さきの中に小さな恐怖が生まれた。


 ──…………まだ赤子あかごだというのに…………


 その頃の綾芽あやめはいわゆる憑依ひょうい体質。まだ発声すらも出来ない幼い年齢にも関わらず、憑依ひょういした相手の言葉を話した。しかもそれを自分でコントロールしているようにさきには見えていた。

 成長すると、綾芽あやめは他の能力も開花させていく。

 二才になったばかり。

 綾芽あやめは二人の使用人を殺した。

 その二人は綾芽あやめの目の前で首を吊って自殺した。

 理由はさきにも不明なまま。


 ──……何か、綾芽あやめの気に触ることでもあったのか…………


 一人は綾芽あやめの体を洗っていた。

 一人は綾芽あやめに粉ミルクを飲ませていた。

 お湯が熱かったのか、ミルクの温度が高かったのか、総ては想像するしかない。

 しかも二日続けて。


 ──……よもや……自殺させたのか…………


 綾芽あやめは他人の意識を操作出来るのかもしれないという考えは、さきの中でしだいに現実味を帯びてくる。さきは本気で綾芽あやめの能力の強さを認めざるを得なくなっていた。


 ──………………いつ自分が操られることになるか…………


 ──……陽恵ひえ様にだってあの時、世継ぎはいなかった……どうして私に綾芽あやめを…………


 ──…………まさか……陽恵ひえ様も恐れていたというのか…………

 ──……それか………………操られていたのか…………


 やがて、陽恵ひえの長女である恵麻えまが産まれる。

 そして同じ日、西沙せいさが産まれた。

 綾芽あやめを入れた三姉妹の年齢は一年違い。

 共に成長する過程で、綾芽あやめはなぜか自分の能力を抑え始めていた。あまり表に出そうとはしなくなっていた。幼くして自らの力に恐怖心を抱くことは可能性としては有り得る。しかし綾芽あやめからは恐怖心を感じなかった。常に子供とは思えない冷たい表情のまま、その感情を見透みすかされまいとしているかのようだった。その強い能力を感じていたさきにとって、それは実に分かりやすい明確なもの。しかしもちろん涼沙りょうさ西沙せいさはまだ理解の出来る年齢ではない。どうしてなのか、それが分からないまま三姉妹は成長していく。

 成長と共に始まった修行の中で、綾芽あやめはその能力をひっそりと高めていった。

 未来や過去も見える。他人に対しての意識操作も、しだいに相手に気付かれないように出来るようになっていた。

 しかしさきは気が付いていた。

 西沙せいさにだけは、綾芽あやめの意識操作が効かないことを。

 綾芽あやめも気が付いていた。そしてそれが綾芽あやめにとっての最初の明確な〝恐怖〟の始まり。


 綾芽あやめ、小学六年。

 涼沙りょうさ、小学五年。

 西沙せいさ、小学四年。

 すでに綾芽あやめ涼沙りょうさは修行が始まっていた。とはいえ、まだ小学生の内は荒行あらぎょうというわけではなく、精神的な集中と知識の集積に重きが置かれている。

 そんな時に小学校で事件が起きる。

 西沙せいさは能力の強さから孤立し、いじめを受けていた。子供にとっては西沙せいさの力は〝驚愕きょうがく〟するものではなく〝脅威きょうい〟でしかない。〝恐れ〟が〝排除〟という概念を生み、それは〝気持ち悪い〟ものへと変化し、いじめへと広がっていく。

 そしてある日、西沙せいさの目の前で、いじめていた生徒五人が校舎の二階の窓から飛び降りた。全員が一命を取り留めたが、それでもことは警察沙汰にまで発展する。

 西沙せいさは「目を見ただけ」と言うが、その五人の行動が西沙せいさの力によるものであったことはさきにとっては明らか。西沙せいさは他人の目を見るだけで意識を操ることが出来ていた。しかし綾芽あやめのように抑制が出来ているわけではない。

 西沙せいさ自身も自分の力に怯え、恐怖した。

 その夜、西沙せいさ自ら、母のさきを祭壇前に呼び出す。

「…………あの五人……私をいじめてた……あの時もいじめられてた…………死んでしまえばいいと思った………………私は……目を見ただけなの…………そしたら自分で窓を開けて…………」

 さき西沙せいさの能力を恐れていた。自分の娘でありながら、その存在の大きさに恐怖した。


 ──……コントロールが出来ないまま大人になったら…………


 窓から飛び降りた五人を救っていたのは、実はその場に居合わせた綾芽あやめだった。朝から嫌なものを感じていた綾芽あやめが、それとなく西沙せいさの行動を監視していたことで出来たこと。

 もちろん西沙せいさはそれを知らない。

 すでに綾芽あやめは自らの能力を理解し、同時にコントロールすることが出来ていた。しかもその多くを抑えていた。まるで隠すかのようなその行動を、さきだけが見抜いていた。


 さき西沙せいさが話し込んでいた頃、綾芽あやめ涼沙りょうさの部屋にいた。

西沙せいさはまともじゃない……いつか必ず私たちにもきばをむく…………」

 その綾芽あやめの小学生とは思えない穏やかならざる言葉に、涼沙りょうさは反射的に返していた。

「でも西沙せいさはあの五人にイジメられてたんだよ⁉︎」

「未来が見えた……西沙せいさは私たちを殺してこの神社を継ごうとする…………」

「そんな姉様…………西沙せいさは…………」

 涼沙りょうさの声は、しだいに小さくなっていく。

 その揺れ動く感情に、さらに綾芽あやめが入り込む。

涼沙りょうさ……あなたも気付いているはずです…………西沙せいさは人を傷付けるだけ…………」


 それから数日、さき西沙せいさのための祈祷きとうを続ける中で綾芽あやめ涼沙りょうさの修行を続けていた。

西沙せいさは危険です」

 本殿裏の祭壇でその日の修行を終えたばかりの綾芽あやめが、突然そんなことを口にした。

 さきも口にこそしなかったが、その言葉の意味は理解していた。そのさきは優しくさとすように返していく。

綾芽あやめ…………おのが妹にそのような…………」

「あの五人…………私と涼沙りょうさが介入していなければあの場で死んでいました」

 救ったのは綾芽あやめだけ。綾芽あやめは嘘をついて涼沙りょうさが自分側ということを強調した。

「…………二人が…………救ったと…………」


 ──…………救ったのか…………綾芽あやめが操ったのか…………


 ──……私は…………とんでもない後継を育てたのか…………


 そして涼沙りょうさまでもが恐怖を言葉にする。

「母上…………私は……西沙せいさが怖い…………」

 涼沙りょうさは、すでに綾芽あやめに感情をコントロールされていた。

 それを僅かに感じた時、さきは以前より明確に綾芽あやめを恐れた。


 ──……一番恐れるべきは…………西沙せいさではない…………


 ──……よもや本当に伝説の産まれ代わりだとでもいうのか…………


 そして、それから何年も後、さき西沙せいさ立坂たてさかに預けることになる。

 一番の恐怖の対象が綾芽あやめであることは分かっているはずなのに、なぜか西沙せいさを遠くに置こうとする自分がいる。


 ──……まさか…………私も感情を操作されてはいないか…………


 やがて、姫神ひめかみ伝説が御世みよが作った創作物だと知った時、さきは一つの結論に達した。


 ──……伝説は御世みよが作った……だとすれば…………綾芽あやめを生み出したのは…………





            「かなざくらの古屋敷」

    〜 第二二部「冷たい命」第5話(第二二部最終話)へつづく 〜

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