第十三部「水の中の女神」第3話 (修正版)

「…………御世みよの血…………」

 萌江もえが、無意識の内に呟いていた。

 いつの間にか、その場に柔らかい風を感じる。

 それでもそれは、湖面を削った冷たい風。

 しだいにその空気は五人の間を走り抜けていく。

 咲恵さきえが話を続けた。

「地震の前に湖の温度が上がるのは伝説が作られる前からだったはずです。科学的な検証をされたわけではありませんが、おそらく地殻の影響でしょう……マグマとかの話になるでしょうし、私は専門外ですけどね。御世みよがそこまで分かっていたかは分かりませんが…………後から付け加えられた話ではないですか?」

「なるほど…………」

 そう言った溜息混じりのさきが続ける。

雄滝おだきから流れる川が繋がる雄滝おだき湖と、そこを守る雄滝おだき神社ですか…………伝説の前の湖がどんな名前だったのか、確かに記録はありませんでした……雄滝おだき湖の名前を姫神ひめかみ湖に変えて……どういうわけか我々の意識まで変え…………つまり、御世みよにはそこまでする〝理由〟があったということでしょうか…………?」

「あったんでしょうね」

 即答した咲恵さきえが続ける。

「でも、そこまでは御世みよも教えてくれない。というより、御世みよの意識操作はまだ続いてるんです…………しかし完全ではありません…………とは言っても私でも総ては見えない…………」

 決して怯えてはいない咲恵さきえの声。

 迷いの無いその口調に、誰も何も返せないままに、再び風が強まる。

 さき恵麻えまの長い髪が大きく揺れた。

 しかし、まるで何かに包まれたかのように、咲恵さきえの長い髪は微動だにしない。

 その異様な雰囲気に気が付きながらも、萌江もえ咲恵さきえの手を離さない。

 やがて、その場の空気を揺らしたのは、それまで話を黙って聞いていた杏奈あんなだった。

「……雄滝おだき神社って…………御陵院ごりょういん神社の分社ってことは…………親戚になるんですよね…………」

 誰も返さない。

 返す必要もない。

 杏奈あんなが続ける。

「……伝説の真実って…………咲恵さきえさんだから見えたんですか…………血が繋がってるから…………」

 杏奈あんなが言葉で形にした。

 そこにさきが応えていく。

「……もう黒井くろいさんも恵元えもとさんもお分かりですね…………確かに我が御陵院ごりょういん家と雄滝おだき神社の滝川たきがわ家は親戚…………そしてその血は、恵元えもとさんの金櫻かなざくら家にも繋がっています…………黒井くろいさんも、〝他人〟ではありません。黒井くろいさんのお母様は、御世みよの〝ひ孫〟に当たる方…………〝滝川たきがわ家の人間〟です」

 そのさきを、咲恵さきえは震えた目で見つめ続けていた。

 そして、萌江もえはそんな咲恵さきえから目を離せない。

 まるで走馬灯のように、萌江もえの頭に思い出が浮かんでいた。

 運命などという安っぽい言葉で咲恵さきえとの関係を表すつもりはない。それでも萌江もえ咲恵さきえと出会うべくして出会ったと感じていた。あまりにも多くのことを感じ、あまりにも多くのことを二人で経験した。最近になって咲恵さきえとのことを考え直すようになってさらに気持ちが近付いていた。

 咲恵さきえと出会えて、萌江もえは幸せだった。

 それ以上の言葉は見付からない。

 しかし、今のこの感情が何なのか、萌江もえにそれを理解することは難しい。

 萌江もえからの視線を分かっていたのか、咲恵さきえが小さく呟く。

「…………良かった…………」

「え?」

 反射的に返す萌江もえに、そのままの口調で咲恵さきえが続ける。

「……私は、萌江もえと他人じゃなかった…………」

 そして、その目から涙が零れる。

 その涙の向こうに、柔らかい笑顔が浮かんでいた。

 新興宗教の家に産まれ、人生を両親によって翻弄され、現在でもその両親の生死すら分からない。過去の歴史のどんな部分に自分が繋がっているのか、何も見えていない人生。宙に浮いてしまったような生き方を、萌江もえが唯一この世に繋ぎ止めてくれた。

 しかし、今は地面に足が着いたような感覚がある。

 涙が気持ちを揺さぶりながらも、なぜか気持ちは落ち着いていた。

 自分の中に、新しく誰かの存在を感じる。


 御世みよの存在は暖かかった。


 ──……私は…………いるべくして、ここにいる………………


 そして、中にいるのは一人ではない。大勢の存在を感じた。それまで咲恵さきえが自覚していたのは京子きょうこだけ。

 しかし、咲恵さきえはやっと気が付いた。


 ──……みんないる…………やっとその〝理由〟が分かった…………


 ──…………みんな…………萌江もえを守ってる…………


 ──……その中心が…………御世みよ………………


 咲恵さきえは、さきに顔を向けて口を開く。

「……さきさん。どうしてですか? どうして水晶のことを秘密にしてたんですか? 知っていたのに…………」

 強い風がその言葉を遮ろうとするかのように咲恵さきえの目の前を通り過ぎた。

 すると、さきの隣の恵麻えまが一歩だけ後ろに下がる。その口が小さく動くのを咲恵さきえ萌江もえも見逃さなかった。

 そして口を開いたのはさき

「……まだ……そのお話をするのは…………お早いかと…………」

 そこに挟まるのは萌江もえ

「────戯言だ」

 萌江もえは首にかかる〝火の玉〟を掴む。

 それは、熱かった────。

「いずれ────」

 そのさきの言葉が、萌江もえの言葉を遮って続く。

「……お話することになりますよ…………」

 すると、動き始めたのはさきの隣の恵麻えまだった。

 すぐにさきが後に続き、二人が萌江もえの隣を通り過ぎる。

 その瞬間、萌江もえは背筋に冷たいものを感じていた。

 その隣で咲恵さきえは動かない。

 やがて、さき恵麻えまの足音が聞こえなくなると、最初に口を開いたのは杏奈あんな

「……咲恵さきえさん…………萌江もえさん…………」

 しかし、次の言葉が見付からない。

 どんな時でも言葉を繰り出せなくては記者として失格。しかしこの時の杏奈あんなには無理だった。杏奈あんなから見ても、それはあまりにも予想外な現実。

 しかも、多くのことがまだ隠されている。

 大事なことは、誰を信じるかだけ。

 そして、それは杏奈あんなの中ですぐに決定付けられた。

「車へ行きましょう……西沙せいささんに話を聞くべきです」

 杏奈あんなにはそれしか考えられなかった。

 杏奈あんなのその言葉に、萌江もえが顔を向ける。僅かに怯えた横顔が瞬時に引き締まる。

「そうだね…………」

 そう言って萌江もえは続ける。

「……ごめん。私も冷静じゃなかった」

 そしてその言葉を、前を見たままの咲恵さきえが拾う。

「……だめだよ萌江もえ…………あなたが一番しっかりしなきゃ…………でも…………〝私たち〟は絶対にあなたを守る…………」

 その咲恵さきえの目からは、大粒の涙がこぼれる。

 車に戻ると、萌江もえはすぐにペットボトルの水を咲恵さきえに飲ませるが、それでもまだ涙は止まらない。

 ルームミラーに心配そうに視線を送りながらも、杏奈あんなが車を走らせ始めた。

 萌江もえ咲恵さきえの肩を抱きながらスマートフォンを取り出すと、電話をかけた相手は西沙せいさ。すぐに出た西沙せいさの声は落ち着いていた。

『だからやめろって言ったでしょ』


 ──……やっぱり見えてた…………


西沙せいさ…………あなたの知ってることを教えて」

萌江もえにも知らないほうがいいことはあるよ…………分かったでしょ……私も咲恵さきえも、あなたと血が繋がってる』

「……そんなことを聞きたいんじゃない」

 その萌江もえの低い声が車内に響く。

金櫻かなざくら家って何? 水晶って何なのよ⁉︎」

『よく聞いて萌江もえ……それを今私が話したら、あなたは耐えられない』

 そこまで聞くと、萌江もえは一方的に通話を切った。

 そして言葉を続ける。

「ごめんね杏奈あんなちゃん…………西沙せいさの所まで急いでくれる?」

「……はい」

 杏奈あんなもそう応えるしかなかった。





 西沙せいさの事務所に到着した時はすでに二二時を過ぎていた。一階のコンビニですら人影は少ない。

 しかし窓を見る限り事務所のある二階の明かりは点いている。

「まだいますよ。行きましょう」

 杏奈あんなはそう言ってビルの横に車を停めてドアを開けた。先に立って階段を登るが、萌江もえ咲恵さきえの二人が気になる。振り返ると萌江もえが先になって咲恵さきえの手を引いていた。

 杏奈あんなが事務所のドアを開ける。

 そこで驚いた表情を見せたのは受付の美由紀みゆきだった。

西沙せいささんは⁉︎」

 杏奈あんなのその大きな声に、美由紀みゆきは少しだけ怯えたように応えた。

「……どうしたんですか杏奈あんなさん…………私は今夜は残ってて欲しいって頼まれて…………」

西沙せいささんはどこ⁉︎」

 さらに声を荒げる杏奈あんな

 受付の椅子に座ったまま、美由紀みゆきは言葉を濁らせる。

 というより、言葉が出なかった。

 相手が誰であれ、美由紀みゆきは大きな声が嫌いだった。幼少期の経験からだったが、それが威圧感を伴っていれば尚更だ。思考が萎縮してしまう。それを知っていたのは西沙せいさだけ。

 すると、杏奈あんなの肩に手を乗せた萌江もえが割って入った。

杏奈あんなちゃん……怖がってるよ」

「え? あ……ごめん美由紀みゆきちゃん…………」

 我に帰った杏奈あんなが乗り出していた体を後ろに下げると、萌江もえ美由紀みゆきに笑顔を向けて繋げた。

「急にごめん。初めましてだよね。西沙せいさから話は聞いてた……美由紀みゆきちゃんだよね」

 美由紀みゆきはゆっくりと怯えた目を上げる。

 そして、萌江もえが続けた。

「私は恵元萌江えもともえ…………西沙せいさとは仕事の関係でちょっとね」

萌江もえ……さん…………あ、西沙せいさから聞いてました」

 美由紀みゆきは少しずつ顔を上げて、表情を取り戻していく。萌江もえの後ろで手を繋いだままの咲恵さきえに視線を送るも、咲恵さきえ美由紀みゆきとは目を合わせようとはしていない。まぶたが赤くなっているのを見て、美由紀みゆきも何かを察する。

 萌江もえは柔らかい表情のまま返した。

「それなら良かった。私も西沙せいさから美由紀みゆきちゃんのこと聞いてたよ……いつも助けられてるって言ってた」

「そんな……私は西沙せいさみたいな力はないし…………事務だけで…………」

西沙せいさは私と一緒で数字とか苦手そうだもんなあ」

 その萌江もえの明るい声に、美由紀みゆきの表情がほつれた。

 そして萌江もえが続ける。

「こんな時間にいきなり押しかけちゃってごめんね。見た感じ西沙せいさはいないみたいだけど…………もう帰っちゃったかな?」

 すると、美由紀みゆきは表情を僅かに曇らせて返した。

「いえ…………一週間くらい前から実家に行ってて……理由も教えてくれなかったし…………今夜は残っててくれって夕方に電話があって…………それで…………」

「一週間? そっか……相変わらず読まれてるなあ」


 ──……今夜押しかけることまで見えてたか…………


「何か…………あったんですか?」

 そう言った美由紀みゆきが不安気な目を萌江もえに向けた。

 極度に他人との交流が苦手なタイプであることは萌江もえにもすぐに分かった。西沙せいさがしばらく顔を見せないことで不安が大きくなっていたのだろう。出張などでしばらくいない場合でも、今まで理由を言わないことがなかったのは美由紀みゆきの言葉からでも想像がついた。

 西沙せいさがことあるごとに美由紀みゆきを気にかけていたことは萌江もえも知っている。よほど大事な片腕なのだろう。

 しかし今回に関しては萌江もえにも現状が掴めていない。

「私たちもよく分からないんだよねえ…………まあ実家に行ってるなら問題ないよ」


 ──……今回ばかりは例え実家でも不安だけど…………


 その時、いつの間にか外に出ていた杏奈あんなせわしなく現れた。

美由紀みゆきちゃんさっきはごめん。これで勘弁して」

 そう言うと美由紀みゆきにコンビニのレジ袋を差し出す。

 美由紀みゆきが満面の笑みを浮かべる。杏奈あんなのこういうところが憎めないことを美由紀みゆきも知っていた。

「もう…………許しますよ」

 その言葉に杏奈あんなもやっと笑顔になった。

 そして咲恵さきえの声。

萌江もえ……行こう…………」

 咲恵さきえ萌江もえの手を引いていた。





 それは風光会ふうこうかいの一件の直後。

 咲恵さきえ御陵院ごりょういん神社の祭壇の前に横になっていた。

 あの直後から意識は無い。

 さきが中心となって祈祷きとうを続けて三日目。

 さきの後ろでは常に西沙せいさがサポートを続けていたが、咲恵さきえが目を覚ます気配はない。

 そして呼ばれたのは西沙せいさの姉────綾芽あやめ涼沙りょうさ

 西沙せいさが姉二人と仲が悪いことはもちろんさきは知っていたが、さきとしてはこれ以上は咲恵さきえの肉体的に危険が及ぶと判断しての決断だった。

 久しぶりの姉達の姿に西沙せいさも表情を強ばらせる。

 二人はさきのすぐ後ろ────西沙せいさの目の前に座るなり、次女の涼沙りょうさが毒づく。

「いつも威勢がいい割に、こんなトラブルを持ち込むなんて…………」

 気性の穏やかな長女の綾芽あやめに比べ、涼沙りょうさはこと西沙せいさに関しては攻撃的な一面を見せる。やや気の短い所はさきもよくいさめる部分だった。

 さき西沙せいさ眉間みけんしわを寄せているのを背中で感じたが、言葉を涼沙りょうさに向けた。

涼沙りょうさ…………今回は御陵院ごりょういん家の問題でもあります…………言葉を慎みなさい」

「……失礼いたしました」

 涼沙りょうさもすぐにそう返すと、深々と頭を下げた。

 そこに綾芽あやめ

「以前に……お会いした方ですね…………母上、何がありました…………?」

 祭壇の前に横たわり、胸の上で両手を合わせる咲恵さきえの姿を肩越しに見ながら、綾芽あやめが続けた。

「まさか母上…………あの石は〝水の玉〟では…………」

「さすがですね綾芽あやめ…………その通りです…………我が御陵院ごりょういん家の先祖が金櫻かなざくら家の為に手に入れて納めた物…………長らくその所在が不明でした…………」

 古くから伝わる水晶の伝承は、すでに二人には修行を終えた時点で伝えてあった。

 しかし西沙せいさだけは家を出る時にすでに説明を受けてる。事の展開次第では西沙せいさが中心になる可能性を考えてのさきの判断。しかもそれは間違ってはいない。

 その水晶の一つ────〝水の玉〟が、目の前の咲恵さきえの手に絡む。

 綾芽あやめさきに質問を返した。

「どうしてこの方が…………御陵院ごりょういん家と繋がりが…………」

「それを知りたくてここに連れてきたのです。しかしなかなか見せてはくれぬ…………それでも〝理由〟は必ずあります」

 そして、四人での祈祷きとうが始まった。

 依代よりしろ西沙せいささきの判断だった。西沙せいさは横になる咲恵さきえの前に移り、背中を丸めたまま両手の指を絡める。その後ろにはさき。更にその後ろに綾芽あやめ涼沙りょうさ

 しばらくして、最初に反応を見せたのは綾芽あやめだった。

「……一人ではありません…………母上……多過ぎます…………」

 綾芽あやめのその声に続いたのは涼沙りょうさ

「血筋が見えません…………いえ…………滝川たきがわ様の御血筋かと…………金櫻かなざくら様まで…………」

 涼沙りょうさは恐怖を感じた。


 ──…………あり得ない…………


 その時、西沙せいさの口からこぼれた声は、西沙せいさのものではない。


「…………私は……〝御世みよ〟…………私は…………〝清国会しんこくかい〟の意思を継ぐつもりはありません…………」


 さきが顔を上げた。

 目を見開き、片膝を上げたかと思うと体をひるがえす。

 横たわる咲恵さきえの前に、西沙せいさと向かい合うように移動したかと思うと、西沙せいさの頭を右手で掴んだ。

 その光景に綾芽あやめが声を荒げる。

「母上! 惑わされてはなりません!」

 その声を無視し、指に力を入れたさきは低い声を絞り出した。

「……〝清国会しんこくかい〟……だと…………?」

 再び綾芽あやめが叫ぶ。

「母上!」

 しかし、次のさきの声が本殿の空気を揺らした。

「……母上から聞いていたぞ……〝御世みよ〟…………貴様の好きになどさせん!」

 直後、叫んでいたのは涼沙りょうさだった。

「────母上! 黒井くろい様が────!」

 咲恵さきえがゆっくりと首を上げていた。

 その姿にさきが体を引くと、咲恵さきえはゆっくりと上半身を起こそうと肘を立てていた。

 そこにさきの声。

「……御世みよか…………ここではらってくれるわ!」

 しかし、次の瞬間、咲恵さきえの口から出た声は、あまりにも雰囲気から逸脱する響き。

「〝あなた如きじゃ…………私には勝てないよ〟」

 すると、さきが一歩だけ後ずさった。明らかにその表情が狼狽うろたえる。

 咲恵さきえがそのさきを見上げた。

 そしてその口が動く。

「〝我らは〝萌江もえ様〟を守る者たち…………お前を守る者たちは、どこにいる?〟」

 咲恵さきえは言いながら立ち上がると、目を見開いた。

 その姿に、さきと二人の娘は動けない。


 ──…………負ける……


 涼沙りょうさがそう思った時、咲恵さきえ西沙せいさの頭に手を添え、再び口を開いた。

「〝お前の大事な娘は……我らに与することになる…………産まれる前から決まっていたこと…………その為に命を与えた…………〟」

 そしてそれは突然。

 咲恵さきえは、西沙せいさの体に覆い被さるようにして倒れ込む。

 同時に西沙せいさも床に倒れた。

 二人とも意識はない。

 そのまま、その夜の祈祷きとうを終えざるを得なかった。

 さきの中に一つの疑問を残したまま。


 ──…………まさか…………黒井くろいさんは……………… 


 二人が目を覚ましたのは翌日の朝。

 咲恵さきえには昨夜の記憶は無かったが、西沙せいさが覚えているかどうかは、さきでも分からないまま。

 そのまま、栄養が枯渇したような咲恵さきえ西沙せいさが中心となって看病し、数日後に杏奈あんなに連絡をして迎えにきてもらうことになる。

 それまでの間、さきは一度も咲恵さきえに顔を見せることはなかった。





 杏奈あんなの車が御陵院ごりょういん神社の駐車場に着いた時、時間はすでに深夜。

 もうすぐ日付が変わろうとする頃。

 先に後部座席から降りた萌江もえが呟く。

「嫌な結界…………」

 続いて降りた咲恵さきえも呟く。

「……さきさんの作った結界ね…………もう気付かれてる」

「だろうね」

 萌江もえは小さく返した。

 その萌江もえは運転席の杏奈あんなに声をかける。

「ごめん……こっから先は何があるか分からないから…………」

 すると、杏奈あんなはすぐに返した。

「──待ってます。西沙せいささんをお願いします。お二人にしか出来ないことですから」


 ──……私は、私の役目を果たせばいいんだ…………


 どこかから湧き上がる使命感が、杏奈あんなを支えていた。

 その目は、どこか力強い。何の迷いも無かった。

「……分かった」

 萌江もえはそれだけ応えると、咲恵さきえの手を取った。

 先に口を開いたのは咲恵さきえ

「行こう……西沙せいさが待ってる…………」

 そして二人は歩き始める。

 大きな鳥居から、結界は始まっていた。

 しかし二人の足には迷いがない。

 まるで空間を歪ませるような威圧感が広がる中で、参道を歩きながら口を開いたのは咲恵。

「結界なんて気持ちしだい…………催眠術みたいなもの…………見えない壁なんて存在しない」

 その咲恵さきえの声から、不思議なほどに萌江もえは安心感を得られた。


 まるで誰かに守られているかのような、包まれる感覚。


 本殿の入口横には、深夜だと言うのに松明たいまつが炎の中で音を立てる。

 二人が本殿前の階段を登ろうとした時、目の前の木戸が音を立てて開かれた。その両側に立っているのは巫女姿の綾芽あやめ涼沙りょうさ

 二人は鋭い目付きで萌江もえ咲恵さきえを見下ろす。

 やがて、綾芽あやめが声を上げた。

「母上、おいでになりました」

 そして板間に膝を着く。

 反対側で涼沙りょうさも続いて膝を着き、二人同時に頭を下げた。

「好きな感じじゃないな」

 萌江もえが呟く。

 そして二人が木の階段を登ると、広い本殿の奥の祭壇が視界の中へ。

 炎の作り出す影が激しく揺らめいていた。

 祭壇前の巫女みこ服の背中はさきに間違いない。

 萌江もえ咲恵さきえは板間の上を進む。

 祭壇に近付くにつれ、少しずつ空気の濃さを感じた。

 そして、さきの向こうに横たわる人影。

 その人影は巫女みこ姿に見えた。

 萌江もえが薄暗い中で目を凝らした時、さきの声が祭壇に響く。

「お待ちいたしておりました…………」

 その声に萌江もえ咲恵さきえが足を止めた。

「総てを知る…………その御覚悟は御有りですか?」

 さきの言葉が続く。

 しかし、それに返した咲恵さきえの言葉は萌江もえを驚かせる。

「その前に、西沙せいさを返しなさい」


 ──…………西沙せいさ…………


 萌江もえはそう思いながら、やっとさきの向こうに横たわる人影の存在を理解した。

 間違いない。

 それは巫女みこ服を着て横たわる西沙せいさの姿。

 反射的に萌江もえが口を開く。

さきさん…………あなたは何をするつもりなの⁉︎」

 そして、ゆっくりとさきが体を回す。

 萌江もえ咲恵さきえに正面を向けると、柔らかく、それでも存在感のある口調で応えた。

「もう一週間になりますか…………西沙せいさはこうして眠らせてあります」

「一週間⁉︎ まさか…………私は何度も電話で────」

「さすがは我が娘…………この状態でも恵元えもとさんと繋がろうとは………………これは西沙せいさを守る為です…………ですが、私よりずっと恐ろしい力を持っているようですよ…………」

「……そんなバカなことが…………」

恵元えもとさんの0.1%には入りませんか? どうやら西沙せいさは私たちの計画には反対しているようです。しかも西沙せいさは誰かに操られています…………それは阻止させていただきます…………」

 外からの強い風が本殿の中に入り込み、祭壇の炎を大きく揺らした。

 それに合わせるように火の粉が舞う。

 一粒一粒が辺りを照らした。

 その光に照らされた西沙せいさの顔が萌江もえの視界に入ると、萌江もえの中に途端に込み上げるのは〝怒り〟だけ。それはさきに向けられたものであると同時に、自分自身にも向けられていた。


 ──……西沙せいさは……最初から警告してくれていた…………


 そして萌江もえは、言葉を絞り出していた。

「…………いい加減にしてよ…………だから宗教なんて嫌いなんだ…………よくも目に見えないものをそこまで信じられる…………」

 背後から、小さく板間をる音。

 その音は萌江もえ咲恵さきえの両側を通り、やがて、綾芽あやめ涼沙りょうさの二人がさきの隣に腰を降ろした。

 次に声を上げたのは咲恵さきえ

「……どうしても、西沙せいさを返さないつもりか…………」

 それに、さきが低い声で応える。

「…………西沙せいさの存在は勝敗を左右する…………貴様も分かっておろうが…………〝御世みよ〟…………」

「だからこうして来たのだろう? 私に勝てるのか?」

 それはもはや咲恵さきえの声とは思えなかった。

 その咲恵さきえの言葉にさきが片膝を立てた直後、咲恵さきえの手を萌江もえが握る。


 ────────⁉︎


「…………萌江もえ…………?」

 まるで我に帰ったかのような咲恵さきえのその声に、萌江もえは真っ直ぐ咲恵さきえの目を見ながら口を開く。

「……間違ったところを見ちゃダメだよ……〝御世みよ〟…………」

 その言葉に咲恵さきえが驚いていると、萌江もえは目の前のさきに視線を戻して続けた。

さきさん────私は咲恵さきえの中に誰がいたって構わない。私が知りたいのは金櫻かなざくら家のことだけ…………金櫻かなざくら家って何? 分かってることを話して」

 そして、さき萌江もえの目を見ながら。

「……いいでしょう…………お話しします…………」





          「かなざくらの古屋敷」

      〜 第十三部「水の中の女神」第4話へつづく 〜

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