第十一部「粉雪」第1話 (修正版)
もはや
なんのために存在するのかも分からなかった
どうして産まれたのかも知らない
ただ
その命は
まるで粉雪のように
☆
もう春と言ってもいい頃。
朝の陽射しを浴びる度に、日々の重なりと共に季節の移り変わりを感じる。
この古い家に住み始めてからすでに二年近く。
天気のいい日中であれば、リビングとして使っている居間から、庭に続く縁側の大きなガラスも開けることが出来た。
周囲にも雪は見えなくなった。
日中なら外に洗濯物を干せる日もある。
その日も暖かい日だった。
朝から陽射しも強く感じる。
縁側のガラスを開けた途端に三匹の黒い猫が飛び出した。その姿に、
──……コーヒー入れよっかな…………
コーヒーメーカーに水と粉を入れてスイッチを入れると、猫用の餌皿を棚から取り出した。猫用の缶詰を開けるとすぐに三匹がリビングに戻ってくる。早速足元に絡みつく三匹をいつもの場所に誘導すると、ゆっくりと腰を降ろしていつもの場所に猫皿を置いた。
猫が朝ご飯に集中している間に、
室内のプランターで収穫したトマトで作ったトマトソースに去年の内に庭の畑で収穫した玉ねぎを乗せ、ピクルスとモッツァレラチーズにブラックペッパーを散らす。
──……今度……ホームベーカリーでも買ってみよっかな…………
トースターのメモリを回す。
コーヒーを注いだマグカップの隣にピザトーストを乗せた木製トレイを置いてソファーに身を沈めると、すぐに隣に寄り添ってきたのは母猫のクロ。子猫の二匹はご飯を食べるとすぐに庭に飛び出していた。母猫とは言っても何才くらいだろうか。決して老いているようには見えない。
コーヒーを一口喉に流し込み、なんとはなしにクロに声をかける。
「…………お前は……自由だね……」
意味を分かってか知らずか、丸く綺麗な目でクロは
「……一緒に生活してくれて…………感謝してるよ」
するとクロは小さく短く鳴き声を返す。
ピザトーストを手で半分に割りながら、
ここしばらく、不安な朝を迎えることが多かった。何か具体的な理由があるわけではない。嫌な夢を見るわけでもなかった。
それなのに、朝が不安を連れてくる。
季節の変化のせいだろうか。そこにこれからのことを意識しながらも、なぜか過ぎて行ったものに寂しさを感じる毎日が続いていた。
ピザトーストを一口飲み込むと、マグカップを手にしたまま立ち上がる。そのまま縁側まで歩いた
隣に腰を降ろしたクロの頭を軽く撫でながら、
そして視界に映るコーヒーと萌江の顔の間に、小さな雪が流れ落ちる。
一つ視界に入り込むと、瞬く間に周囲に粉雪が降り注いだ。
「…………今日は…………冷えそうだね……………………」
日曜日。
今週も、
☆
いつもの足音とは違って聞こえていた
古めかしい二階建てのテナントビル。一階にはコンビニエンスストア。二階に外の階段から入れるのは
決して新しいビルではないせいか、外の階段の音は二階の奥にいても感じられるのが常だ。しかも、そもそもが飛び込みの来客は多くない。
──……嫌な音だな…………
古めかしく錆びついた鉄製の階段から伝わるローファーの音。
その音から分かるのは、重い体重ではないということ。小柄なタイプだ。膝を上げるペースから分かる身長の予測からもそれは分かる。しかし同時に弱々しくもない。
〝気の強さ〟が伺えた。
──…………面倒な…………
「ねえ、
何も応えないままの
「あと二〇秒くらいで面倒なの来るから────無視していいよ。目も合わせないで」
「はーい」
孤独だった高校時代の
外から響く足音がしだいに大きくなり、やがて外の扉が開く音がする。
屋内の廊下沿いにあるドアではないせいか、このテナントのドアは二重の扉になっていた。外側の扉が異常に物々しいのが
その曇りガラスの向こうに人影。
足音と共に大きくなる黒い影。
明らかに女性だった。予想通り身長は低い。
そしてガラスの扉が動く。
意外にも、扉が開いていくのに合わせて響くのは
「────随分と遠くから一人で? わざわざご苦労さんね…………仕事の依頼でもないのに…………」
その女性は
すると、再び
「…………ご用件は……?」
すると、意外にもそれに返された女性の声は早い。
「──アンバランスね……この事務所の名前付けたのはあなたじゃないんでしょ? 硬すぎだよ…………名前と内装のゴシックセンスが噛み合ってないもの」
捲し立てる女性の声は若い。
そこから動かないままに続けた。
「とは言っても、内装もこれだけ古いテナントビルじゃ無理はあるよね。頑張ってるほうなんじゃない? まあでも、心霊相談をメインにしてる会社の事務所としてはどうなんだろ…………そんなフリフリとした衣装で何年もやっていけるわけじゃないんだからさ。二〇代半ばにもなればゴスロリは流石にねえ…………イメージ変えないと痛々しくなるんじゃない?」
それでも
広げた雑誌を顔にのせたまま微動だにしない。決して表情を
──……この子…………怒らせなきゃいいけど…………
「私のことを調べてるつもり? 無理だよ…………私はあなたが勝てる相手じゃない」
「──みんなそう言うんだ…………」
唐突に返す
その声は、あくまで、ゆっくりと続く。
「私に勝てる人は、お母さんと…………後は二人だけ…………あなたは違う…………」
「そう?」
応えた女性の声が僅かに
「言葉をはぐらかしながら、私よりも上に位置してるつもりでいる…………負けたくないのは私のほうが若いから? それとも同業だから?」
「…………やっぱり……面倒臭いなあ…………」
そう応えた
上半身を起こしながら、
そして
「さっさと名前くらい言ったらどうなの? 来たのはそっちでしょ」
すると、その目線の先に立つ女性は、小さく一歩だけ前に出ると、口を開く。
「……
先程までに比べると、幾分声のトーンが低い。
決して派手な印象ではない。派手なファッションを好む
その姿に今度は
「何が目的なのかと思えば…………どうせ私じゃないんでしょ…………どうしてあの二人に会いたいの? 理由くらいなら聞いてあげる」
僅かに視線を落とし、その表情は最初の強気なものとは掛け離れたものだ。
そして
──…………ウソばかり…………
「……理由は、言えない…………」
──……でしょうね…………
「なら……私も二人の居場所を教えるわけにはいかない」
「分からないんでしょ? どれだけかは知らないけど、あなたが持ってる力でも…………あの二人はそれを自然とやってる…………私たちのようなレベルじゃないの。ワザとしおらしい表情で私から情報を聞き出そうとしても無駄」
すると、まるで目の色が変わるかのように
口角を上げながら細い視線を
──…………出てきた……
「…………あなたは…………? 私を呼んだのね? あなたも色々と面倒そう…………何者?」
「さてね…………自分で調べたら? あなたにそんな力があれば、だけど」
決して
軽く身を乗り出すようにしながら、両肘を膝につけ────小さな足の震えを押さえる。
やがて、
そして、直後、
──…………あれ? …………足音は?
「良かった…………目を合わせないように言っておいて正解だったみたい……」
その
そして、ソファーの背もたれに体を沈めた
「……〝蛇の目〟は…………人の心を惑わすからね…………」
☆
「あまり手荒なことはね…………そんなことしなくたってさ…………」
そこには向かいの席に座る
天気のいい午後。
決して
二人の間のコーヒーカップに降り注ぐ陽射しが恨めしくさえ感じる。月曜の午後のオープンカフェ。それだけ春の訪れを感じる頃でもあるし、同時に冬の終わりと束縛からの解放を意識する時期でもある。
視界に入るのは周囲の客たちの笑顔だけ。
多くの人々にとっては笑顔の増える季節。
しかし
冬の閉鎖的な寂しさが好きだった。不思議と何かに守られているかのような、そんな表現の難しい安心感。多くの人々にとってはその閉塞感が好ましいものではないのだろう。だからこそこの時期の空気の広がりに喜びを感じる。
もっと綺麗にしてほしかった。
もっと冷たい空気で、有りとあらゆる物を清めてほしいとさえ思った。
──……どうせ…………何も綺麗になどならない…………
この季節の変わり目に、
そしてやはり、目の前の〝
「理由くらいは聞かせてよ」
出来るだけ柔らかく、
そして、それすらも、今は揺らいでいた。
ずっと変わらぬ感情のまま続けて行けたら良かった。今まで幾つかの波を乗り越えてきたが、その数に限りがあるわけではない。お互いに常に気持ちを張り続けてきた。そしてそれが〝関係〟と言うものであることも知っている。
──……一人のほうが楽…………
何度もそう思った。
だからこそ一度離れた。
しかし、自ら
何を後悔しているのだろう。
──……違う…………
だとしても、
──……どうして
「…………あなたは…………あの水晶に囚われ過ぎてる…………」
僅かに震えた
自分のその感情を見透かされまいとするかのように、
「あれは
仕事で宿泊していた温泉旅館での夜、
そして今、
「……
「私はそう信じて────」
「中に何が〝いる〟のかも知らないのに…………?」
そう言って遮った
考えるよりも先に反射的に
「…………いる……?」
「何を理由に信じるか…………私の中の〝誰か〟の言葉でも信じられないの?」
──……なるほど…………
その目を見ながら、
「……そうね…………何を信じようか…………」
そして続ける。
「何を信じるかは…………私が自分で決める…………そして今信じたいのは〝あなた〟じゃない…………」
「〝
直後、
そして、テーブルの上のスマートフォンが鳴った。
溜息を
「おかえり」
その視線の先には半ば呆然とした
「──何よ、取り込み中だからつまらない要件ならアンタも潰すよ」
『待って待って何よいきなり────』
スピーカーから僅かに漏れる慌てた声は
『──あまり良くない情報なんだけど、二人を心配して電話したの…………変な小娘が
それを聞いた
「そういうことか…………おかげで繋がったよ。とはいっても、小娘ねえ…………こっちではそんなふうには感じないけど────」
『名前は
「若い子にヤキモチなんか焼かないでよ。
『……
「私に潰されたくなかったらその子を調べなさい。ギャラは私が払うから
状況が飲み込めないままに呆然とする
「大丈夫?」
しかし
「分かってるよ……
「…………うん……ごめん……」
「単純に誰かが入ってるとか…………そういうことじゃないんだよね。言葉で上手く表現出来ないけど、どうやら私たちの人生に影響を及ぼしてるのは…………〝お母さん〟だけじゃなさそう…………しかも面倒なのがちょっかいかけてきたし…………」
「……さっきの電話…………」
「うん、電話の直前に
「……あんな姿でしか会いに来られない……
その椅子の足。
確かに
身長は一〇センチくらいだろうか。
椅子の足に隠れるようにしながら、二人を伺う姿があった。
「なに⁉︎ 女の子?」
思わず声を上げたのは
すると、
「大丈夫────周りを見て」
その声に、
さっきまで周りで談笑していたはずの別の客たちの姿が無い。
音が消える。
代わりに周囲に動き回るのは小さな
「私たちに幻を見せてるだけ…………マニアックな手を使って、自分の小さな姿を私たちに見せてる…………
「どういうこと⁉︎」
「落ち着いて
すると、視線の先でこちらを伺っていた少女の姿が少しずつ遠ざかる。
それを見ていた
「……? 着いてこいってこと?」
「この現象に驚いてさえいれば着いていくかもしれないけど…………見えている映像なんて結局は脳内で作られてる創作物に過ぎない…………だから物理的に存在しない物まで見える…………そもそも物理現象なんて人間が認知して初めて存在するモノ。そんなモノを捻じ曲げられたくらいじゃね…………〝力〟があっても所詮は
──……確かに子供だ…………放っておいてもいい感じね…………
直後、そう思った
──…………?
──……
いつの間にか
そして自然と身構える。左足を一歩だけ後ろに、
その
その
「…………お母さん…………」
「────え⁉︎」
思わず声を漏らす
「まさか……
そう続いた
その先には、
その姿は
〝まるで幻のように〟現れては消える。
「────小娘が──」
目の前の
急にコーヒーの香りが鼻に届いた。
「……
僅かに怯えも見えるその表情を見ながら、
「…………何が起きたの……?」
「……聞くしかなさそうだね…………」
「…………聞くって────」
直後、そう言った
膝の上の手の中に違和感を感じた。
──……なに…………?
手の中に〝何か〟がある。
──…………なにを持ってるの……?
それは、冷たかった。
小さく、丸い。
指に、細いチェーンが絡む。
☆
一〇年前。
目の前に母親の姿があった。
妊娠八ヶ月。
出生前診断で胎児のダウン症の可能性が分かったのは妊娠四ヶ月頃。
父親の
しかし
やがて意見の食い違いは家庭の雰囲気を侵していく。
二人に喧嘩が絶えない日々が続いた。
その日、
穏やかな気候の一日。僅かに陽が傾き始め、リビングの大きな窓からも強目の日光が入り込み始める。
そんな時間。
広いリビングのカーテンはいずれも開いたまま。リビングの向かい合った大きなソファーの裏で立ち尽くす
すでに大きくなった
その手に握られた包丁が、ゆっくりと
力が抜けかけた直後、再びその包丁が突き刺さる。
まるでそれが自然なことのように、抵抗もなく入り込む。
もはや自分の身に起きていることなのかどうかも分からない。
視界が揺れた。
重力が崩れていく。
体全体に冷たさを感じた。
床に倒れた
包丁を両手で逆手に持ち、何度も振り下ろす。
しだいに床に真っ赤な血溜まりが広がる。
その暖かさが、床に付いた
もはや
腹部に入り込む
血だらけの体で、
すでに腕と脚が取れかけた胎児を床の血溜まりに置くと、
思ったよりも簡単に、その首は離れた。
血の匂いが
振り返った先には、
「かなざくらの古屋敷」
〜 第十一部「粉雪」第2話へつづく 〜
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