第十一部「粉雪」第1話 (修正版)

   もはや

   なんのために存在するのかも分からなかった

   どうして産まれたのかも知らない

   ただ

   その命は

   まるで粉雪のようにはかなかった





 もう春と言ってもいい頃。

 朝の陽射しを浴びる度に、日々の重なりと共に季節の移り変わりを感じる。

 この古い家に住み始めてからすでに二年近く。

 萌江もえにとっては二度目の冬が終わろうとしていた。

 天気のいい日中であれば、リビングとして使っている居間から、庭に続く縁側の大きなガラスも開けることが出来た。萌江もえも数日前に家庭菜園の畑を耕したばかり。今年育てる野菜を選ぶのが最近の楽しみだ。

 周囲にも雪は見えなくなった。

 日中なら外に洗濯物を干せる日もある。

 その日も暖かい日だった。

 朝から陽射しも強く感じる。

 縁側のガラスを開けた途端に三匹の黒い猫が飛び出した。その姿に、萌江もえにも思わず笑みが浮かぶ。まだ起きたばかり。スウェット姿で体を上に伸ばしてみた。それに呼応するように意識が目覚め始める。


 ──……コーヒー入れよっかな…………


 コーヒーメーカーに水と粉を入れてスイッチを入れると、猫用の餌皿を棚から取り出した。猫用の缶詰を開けるとすぐに三匹がリビングに戻ってくる。早速足元に絡みつく三匹をいつもの場所に誘導すると、ゆっくりと腰を降ろしていつもの場所に猫皿を置いた。

 猫が朝ご飯に集中している間に、萌江もえはいつものピザトーストの準備を始める。その日は黙々とした作業のような手付きになっていた。もう何日も同じ物しか食べていない。今までのように調理を楽しむという気持ちの安定はない。

 萌江もえ自身も分かっている。気持ちは決して天気のように晴れてはいない。

 室内のプランターで収穫したトマトで作ったトマトソースに去年の内に庭の畑で収穫した玉ねぎを乗せ、ピクルスとモッツァレラチーズにブラックペッパーを散らす。


 ──……今度……ホームベーカリーでも買ってみよっかな…………


 トースターのメモリを回す。

 コーヒーを注いだマグカップの隣にピザトーストを乗せた木製トレイを置いてソファーに身を沈めると、すぐに隣に寄り添ってきたのは母猫のクロ。子猫の二匹はご飯を食べるとすぐに庭に飛び出していた。母猫とは言っても何才くらいだろうか。決して老いているようには見えない。

 コーヒーを一口喉に流し込み、なんとはなしにクロに声をかける。

「…………お前は……自由だね……」

 意味を分かってか知らずか、丸く綺麗な目でクロは萌江もえを見上げていた。

「……一緒に生活してくれて…………感謝してるよ」

 するとクロは小さく短く鳴き声を返す。

 ピザトーストを手で半分に割りながら、萌江もえが笑顔を浮かべた。

 ここしばらく、不安な朝を迎えることが多かった。何か具体的な理由があるわけではない。嫌な夢を見るわけでもなかった。

 それなのに、朝が不安を連れてくる。

 季節の変化のせいだろうか。そこにこれからのことを意識しながらも、なぜか過ぎて行ったものに寂しさを感じる毎日が続いていた。

 ピザトーストを一口飲み込むと、マグカップを手にしたまま立ち上がる。そのまま縁側まで歩いた萌江もえは、じゃれ続ける二匹の子猫を見ながら腰を下ろした。

 隣に腰を降ろしたクロの頭を軽く撫でながら、萌江もえはコーヒーを少しだけ喉に流し込む。その熱が食道を通り過ぎていった。

 そして視界に映るコーヒーと萌江の顔の間に、小さな雪が流れ落ちる。

 一つ視界に入り込むと、瞬く間に周囲に粉雪が降り注いだ。

「…………今日は…………冷えそうだね……………………」

 日曜日。

 今週も、咲恵さきえは来ない。





 いつもの足音とは違って聞こえていた

 古めかしい二階建てのテナントビル。一階にはコンビニエンスストア。二階に外の階段から入れるのは西沙せいさの事務所だけだ。元々が二階はワンフロアだけの小さなビル。

 西沙せいさと事務員の美由紀みゆきにとっては当然のようにコンビニは毎日の生活に重宝していた。もちろん店の店長も長く働いてる従業員も歴代の学生アルバイトも知っている。

 決して新しいビルではないせいか、外の階段の音は二階の奥にいても感じられるのが常だ。しかも、そもそもが飛び込みの来客は多くない。


 ──……嫌な音だな…………


 西沙せいさは大きなソファーに寝転んだまま、そんなことを思った。足は肘掛け部分に乗せたまま。上を向いているはずの顔には下のコンビニで買ってきたばかりのファッション雑誌。

 古めかしく錆びついた鉄製の階段から伝わるローファーの音。

 その音から分かるのは、重い体重ではないということ。小柄なタイプだ。膝を上げるペースから分かる身長の予測からもそれは分かる。しかし同時に弱々しくもない。

 〝気の強さ〟が伺えた。


 ──…………面倒な…………


「ねえ、美由紀みゆき

 西沙せいさは表情を見せないままに声を上げた。

 何も応えないままの美由紀みゆきに対して西沙せいさが続ける。

「あと二〇秒くらいで面倒なの来るから────無視していいよ。目も合わせないで」

「はーい」

 美由紀みゆきも受付のパソコンの前で普通に応える。モニターから目線を動かさずに平静を装うが、当然こんなことは度々あることではない。美由紀みゆき自身は西沙せいさのような体質でもなく、もちろん西沙せいさの感じている感覚がどんなものかを知る術も無い。

 孤独だった高校時代の西沙せいさに、唯一寄り添ってくれたのが美由紀みゆきだった。だからこそ、その感覚は分からなくとも気持ちは理解出来る。少なくとも美由紀みゆきはそう思っていた。

 外から響く足音がしだいに大きくなり、やがて外の扉が開く音がする。

 屋内の廊下沿いにあるドアではないせいか、このテナントのドアは二重の扉になっていた。外側の扉が異常に物々しいのが西沙せいさは以前からあまり好きではない。中の扉は曇りガラスだったので色々と張り付けて楽しんではいたが全体的に古さを隠せるほどではないまま数年。

 その曇りガラスの向こうに人影。

 足音と共に大きくなる黒い影。

 明らかに女性だった。予想通り身長は低い。

 そしてガラスの扉が動く。

 意外にも、扉が開いていくのに合わせて響くのは西沙せいさの声。

「────随分と遠くから一人で? わざわざご苦労さんね…………仕事の依頼でもないのに…………」

 西沙せいさの声は広がるが、それでも体を起こそうとはしない。

 美由紀みゆきも顔を上げなかったが、視界の先に黒い洋服の一部だけが入り込む。

 その女性は美由紀みゆきのいる受付の前を通り過ぎた所で立ち止まった。

 すると、再び西沙せいさの声。

「…………ご用件は……?」

 すると、意外にもそれに返された女性の声は早い。

「──アンバランスね……この事務所の名前付けたのはあなたじゃないんでしょ? 硬すぎだよ…………名前と内装のゴシックセンスが噛み合ってないもの」

 捲し立てる女性の声は若い。

 そこから動かないままに続けた。

「とは言っても、内装もこれだけ古いテナントビルじゃ無理はあるよね。頑張ってるほうなんじゃない? まあでも、心霊相談をメインにしてる会社の事務所としてはどうなんだろ…………そんなフリフリとした衣装で何年もやっていけるわけじゃないんだからさ。二〇代半ばにもなればゴスロリは流石にねえ…………イメージ変えないと痛々しくなるんじゃない?」

 それでも西沙せいさは何も応えない。

 広げた雑誌を顔にのせたまま微動だにしない。決して表情をうかがい知ることは出来なかったが、西沙せいさがいつになく〝冷静〟なままであることだけは美由紀みゆきにも分かった。


 ──……この子…………怒らせなきゃいいけど…………


 美由紀みゆきがそんなことを思う中、女性の声が続く。

「私のことを調べてるつもり? 無理だよ…………私はあなたが勝てる相手じゃない」

「──みんなそう言うんだ…………」

 唐突に返す西沙せいさの声。

 その声は、あくまで、ゆっくりと続く。

「私に勝てる人は、お母さんと…………後は二人だけ…………あなたは違う…………」

「そう?」

 応えた女性の声が僅かにうわずり、続いた。

「言葉をはぐらかしながら、私よりも上に位置してるつもりでいる…………負けたくないのは私のほうが若いから? それとも同業だから?」

「…………やっぱり……面倒臭いなあ…………」

 そう応えた西沙せいさがやっと動き始める。

 上半身を起こしながら、西沙せいさは顔を隠していた雑誌を持ち上げた。そのまま片手で雑誌を閉じながら、女性に向ける視線は鋭い。

 西沙せいさはソファーから両足を降ろす。

 そして西沙せいさの低い声が響いた。

「さっさと名前くらい言ったらどうなの? 来たのはそっちでしょ」

 すると、その目線の先に立つ女性は、小さく一歩だけ前に出ると、口を開く。

「……牧田まきた……絵留える…………今一七…………」

 先程までに比べると、幾分声のトーンが低い。

 決して派手な印象ではない。派手なファッションを好む西沙せいさとは対極にいるタイプだ。グレーのシンプルなスキニーのデニムに、フレアとは縁がなさそうなトップスは黒のパフスリーブの長袖。長袖とは言っても首回りに余裕があるタイプ。薄手のインナーのタートルネックは濃い目のグレー。アクセサリー類は見えない。ピアスやイヤリングも見えなかった。中途半端なセミロングの髪の毛は黒。しかし綺麗に染め上げた黒ではない。ムラのある自然の黒。ウェストポーチの明るい白がアンバランスだ。

 その姿に今度は西沙せいさが畳み掛ける。

「何が目的なのかと思えば…………どうせ私じゃないんでしょ…………どうしてあの二人に会いたいの? 理由くらいなら聞いてあげる」

 絵留えるはすぐには応えなかった。

 僅かに視線を落とし、その表情は最初の強気なものとは掛け離れたものだ。

 そして西沙せいさは、敢えてその絵留えるの表情に視線を送り続ける。


 ──…………ウソばかり…………


「……理由は、言えない…………」


 ──……でしょうね…………


「なら……私も二人の居場所を教えるわけにはいかない」

 西沙せいさはそう応えると、毅然きぜんと続けた。

「分からないんでしょ? どれだけかは知らないけど、あなたが持ってる力でも…………あの二人はそれを自然とやってる…………私たちのようなレベルじゃないの。ワザとしおらしい表情で私から情報を聞き出そうとしても無駄」

 すると、まるで目の色が変わるかのように絵留えるは表情を変えた。

 口角を上げながら細い視線を西沙せいさに向ける。


 ──…………出てきた……


 西沙せいさがそう思った直後、口を開いたのは絵留えるだった。横に大きく広げた唇がまるで裂けるように開く。

「…………あなたは…………? 私を呼んだのね? あなたも色々と面倒そう…………何者?」

「さてね…………自分で調べたら? あなたにそんな力があれば、だけど」

 決して西沙せいさは臆することのないままに返した。

 軽く身を乗り出すようにしながら、両肘を膝につけ────小さな足の震えを押さえる。

 やがて、絵留える西沙せいさに背を向けた。そのままガラスの扉を静かに開けると、そのまま外扉の向こう側へ消えた。

 そして、直後、美由紀みゆきが気付く。


 ──…………あれ? …………足音は?


「良かった…………目を合わせないように言っておいて正解だったみたい……」

 その西沙せいさの声に、美由紀みゆきはやっと顔を上げた。

 そして、ソファーの背もたれに体を沈めた西沙せいさが続ける。

「……〝蛇の目〟は…………人の心を惑わすからね…………」





「あまり手荒なことはね…………そんなことしなくたってさ…………」

 萌江もえはそう言うと、静かにコーヒーカップを受け皿に置き、そこから視線を上げる。

 そこには向かいの席に座る咲恵さきえ。その視線は二人の間にある丸テーブルの上。

 天気のいい午後。

 決して萌江もえ咲恵さきえを尋問のように追い詰めたかったわけではない。しかしそれに気付きながら、なんとか軌道修正をしようと模索を繰り返していた。

 二人の間のコーヒーカップに降り注ぐ陽射しが恨めしくさえ感じる。月曜の午後のオープンカフェ。それだけ春の訪れを感じる頃でもあるし、同時に冬の終わりと束縛からの解放を意識する時期でもある。

 視界に入るのは周囲の客たちの笑顔だけ。

 多くの人々にとっては笑顔の増える季節。

 しかし萌江もえはあまりこの時期が好きではない。

 冬の閉鎖的な寂しさが好きだった。不思議と何かに守られているかのような、そんな表現の難しい安心感。多くの人々にとってはその閉塞感が好ましいものではないのだろう。だからこそこの時期の空気の広がりに喜びを感じる。

 萌江もえが感じているものは違った。冷え切った空気の中で、色々な物が少しずつ浄化されていく空気感。それを感じられる季節がその役目を終えようとする季節。

 もっと綺麗にしてほしかった。

 もっと冷たい空気で、有りとあらゆる物を清めてほしいとさえ思った。


 ──……どうせ…………何も綺麗になどならない…………


 この季節の変わり目に、萌江もえはいつもそう感じる。

 そしてやはり、目の前の〝けがれ〟はそのまま。

「理由くらいは聞かせてよ」

 出来るだけ柔らかく、萌江もえは言葉を投げかけていた。その言葉が小さなテーブルの向こうに座る咲恵さきえに辿り着いた時、どこかでその柔らかさが大きく捻じ曲げられてしまうことももちろん分かってはいる。萌江もえ自身の感情など、すでにどうでも良かった。大事なことは咲恵さきえにどう伝わるか。

 そして、それすらも、今は揺らいでいた。

 ずっと変わらぬ感情のまま続けて行けたら良かった。今まで幾つかの波を乗り越えてきたが、その数に限りがあるわけではない。お互いに常に気持ちを張り続けてきた。そしてそれが〝関係〟と言うものであることも知っている。


 ──……一人のほうが楽…………


 何度もそう思った。

 だからこそ一度離れた。

 しかし、自ら咲恵さきえの元に戻ったのはなぜだろう。ただ寂しかっただけだろうか。今更それを悔いているとしたら、時間の概念から解放されることのない人間にとってはこれほど無駄なことはない。何が正解だったのか、今どうすることが正しいのか、それを過去と現在という括りで取り返しのつかない現実として受け取るしか出来ない人間という生き物の限界。

 何を後悔しているのだろう。

 咲恵さきえを自分の過去に巻き込んでしまったことだろうか。


 ──……違う…………咲恵さきえが想定外の行動をとったからだ…………


 萌江もえの思い通りになど動くはずがない。

 萌江もえの都合のいいようになど動くはずがない。

 だとしても、


 ──……どうして咲恵さきえは〝火の玉〟を奪おうとしたのか…………


 咲恵さきえがやっと、重い唇を開いた。

「…………あなたは…………あの水晶に囚われ過ぎてる…………」

 僅かに震えた咲恵さきえのその唇に、なぜか萌江もえつやを感じて視線をズラす。

 自分のその感情を見透かされまいとするかのように、萌江もえの返した声は少しだけ上擦うわずった。

「あれは咲恵さきえの手に負えるモノじゃないよ…………ただの水晶じゃないことは知ってるでしょ?」

 仕事で宿泊していた温泉旅館での夜、咲恵さきえ萌江もえの首から水晶を外したことは、その時すでに萌江もえは気が付いていた。そして次の日には萌江もえは気付かれないように水晶を取り返していた。しかし咲恵さきえの真意までは計りかねたまま。

 咲恵さきえの中に、自分と同じように〝京子きょうこ〟がいることはすでに分かっている。だからこそ咲恵さきえは全力で萌江もえを守ろうとする。いざとなれば命すらも掛けるだろう。だからこそ萌江もえ咲恵さきえを守ろうとしてきた。少なくとも萌江もえはそのつもりだったが、しかしそれはお互いの信頼がなければ成立しない。

 そして今、萌江もえ咲恵さきえを守り切る自信は、無い。

 咲恵さきえから返ってきた言葉が、その溝を更に深くする。

「……萌江もえは…………あの水晶が味方だと思う?」

「私はそう信じて────」

「中に何が〝いる〟のかも知らないのに…………?」

 そう言って遮った咲恵さきえの言葉は、萌江もえには抽象的過ぎた。

 考えるよりも先に反射的に萌江もえが返す。

「…………いる……?」

「何を理由に信じるか…………私の中の〝誰か〟の言葉でも信じられないの?」

 咲恵さきえはまるで言葉に続けるように、目だけを上げた。


 ──……なるほど…………


 その目を見ながら、萌江もえがゆっくりと応える。

「……そうね…………何を信じようか…………」

 萌江もえはテーブルの上に身を乗り出した。

 そして続ける。

「何を信じるかは…………私が自分で決める…………そして今信じたいのは〝あなた〟じゃない…………」

 萌江もえは目を細めて続けた。

「〝咲恵さきえ〟を返せ…………潰すぞ」

 直後、咲恵さきえの目が大きく見開かれる。

 そして、テーブルの上のスマートフォンが鳴った。

 溜息をきながら、萌江もえがそれを手に取りながら呟いた。

「おかえり」

 その視線の先には半ば呆然とした咲恵さきえの表情がある。

 萌江もえはモニターに表示された名前を見ながら眉間みけんしわを寄せ、その上で指を滑らせた。

「──何よ、取り込み中だからつまらない要件ならアンタも潰すよ」

『待って待って何よいきなり────』

 スピーカーから僅かに漏れる慌てた声は西沙せいさのものだ。萌江もえの口調から何かを感じ取ったのか、声を落ち着かせながら続ける。

『──あまり良くない情報なんだけど、二人を心配して電話したの…………変な小娘が萌江もえ咲恵さきえを探してここに来たんだけど…………まさかもう行ってる⁉︎』

 それを聞いた萌江もえの口元に笑みが浮かんだ。

「そういうことか…………おかげで繋がったよ。とはいっても、小娘ねえ…………こっちではそんなふうには感じないけど────」

『名前は牧田絵留まきたえる。一七って言ってたけど、どうだか…………』

「若い子にヤキモチなんか焼かないでよ。西沙せいさもまだまだ若いでしょ」

『……萌江もえに言われると複雑なのはなぜかしら…………』

「私に潰されたくなかったらその子を調べなさい。ギャラは私が払うから杏奈あんなちゃんに調べてもらって。あの子も仕事欲しそうにしてたから。じゃね」

 萌江もえは通話を一方的に切ると、再びスマートフォンをテーブルに置いた。

 状況が飲み込めないままに呆然とする咲恵さきえに向かって、再び口を開く。

「大丈夫?」

 しかし咲恵さきえは小さく口を動かすだけ。

 萌江もえが続けた。

「分かってるよ……咲恵さきえには常に意識はあった。決して中身を〝誰か〟に乗っ取られていたわけじゃない。でも、その〝影響〟は受けてたよね。だから私のさっきの言葉に姿を隠した。少し楽になったでしょ?」

「…………うん……ごめん……」

 咲恵さきえはいつもの目に戻ると、それだけ応えてその目を伏せた。

 萌江もえの言葉が続く。

「単純に誰かが入ってるとか…………そういうことじゃないんだよね。言葉で上手く表現出来ないけど、どうやら私たちの人生に影響を及ぼしてるのは…………〝お母さん〟だけじゃなさそう…………しかも面倒なのがちょっかいかけてきたし…………」

「……さっきの電話…………」

「うん、電話の直前に咲恵さきえに絡んできてた…………タチ悪いよねえ……それに…………」

 萌江もえは言葉の途中で咲恵さきえの背後の地面に視線を移して続ける。

「……あんな姿でしか会いに来られない……小者こもの…………」

 咲恵さきえが振り返ると、そこには別の丸テーブルと白い椅子。

 その椅子の足。

 確かに萌江もえの言う通り、小者こもの────小さな姿。

 身長は一〇センチくらいだろうか。

 椅子の足に隠れるようにしながら、二人を伺う姿があった。

「なに⁉︎ 女の子?」

 思わず声を上げたのは咲恵さきえ

 すると、萌江もえがすぐに返す。

「大丈夫────周りを見て」

 その声に、咲恵さきえが周囲に視線を配る。

 さっきまで周りで談笑していたはずの別の客たちの姿が無い。

 音が消える。

 代わりに周囲に動き回るのは小さな小人こびとたち。

 萌江もえの声が続く。

「私たちに幻を見せてるだけ…………マニアックな手を使って、自分の小さな姿を私たちに見せてる…………小人こびとの集団で誤魔化そうとしたって…………」

「どういうこと⁉︎」

「落ち着いて咲恵さきえ。リリパック幻視で小人こびとの幻を見せられてるだけ…………普通は精神疾患か麻薬患者に見られる症状…………私たちのコーヒーに麻薬を入れられた可能性はさすがにゼロ…………相手は物理的にここにいるわけじゃない。西沙せいさに接触して西沙せいさの意識から私たちに接触してきた。とすれば、リモートで私たちの脳内に直接リリパック幻視に相当する幻を見せることが出来る能力者…………その程度」

 すると、視線の先でこちらを伺っていた少女の姿が少しずつ遠ざかる。

 それを見ていた咲恵さきえが呟く。

「……? 着いてこいってこと?」

 萌江もえはそれを鼻で笑って応えた。

「この現象に驚いてさえいれば着いていくかもしれないけど…………見えている映像なんて結局は脳内で作られてる創作物に過ぎない…………だから物理的に存在しない物まで見える…………そもそも物理現象なんて人間が認知して初めて存在するモノ。そんなモノを捻じ曲げられたくらいじゃね…………〝力〟があっても所詮は小者こもの…………付き合ってあげる義理はないよ」


 ──……確かに子供だ…………放っておいてもいい感じね…………


 直後、そう思った萌江もえの視界に人影が過ぎる。


 ──…………?

 ──……小人こびとじゃない…………


 いつの間にか萌江もえは立ち上がっていた。

 そして自然と身構える。左足を一歩だけ後ろに、かかとを少しだけ浮かせた。

 その萌江もえの姿に驚いた咲恵さきえは、腰を僅かに浮かせて萌江もえの視線を追う。それは激しく左右に動いた。それはさっきまでの余裕のある表情ではなかった。

 その萌江もえが呟く。

「…………お母さん…………」

「────え⁉︎」

 思わず声を漏らす咲恵さきえ

「まさか……萌江もえ⁉︎ どういうこと⁉︎」

 そう続いた咲恵さきえの声に、萌江もえの視線が鋭く変化していく。

 その先には、小人こびとではない人影。

 その姿は萌江もえが記憶で見ていた〝京子きょうこ〟そのもの。

 〝まるで幻のように〟現れては消える。

「────小娘が──」

 萌江もえのその低い声が咲恵さきえの耳に届いた時、ほぼ同時に周囲に音が溢れる。

 目の前の小人こびとたちはもういない。

 萌江もえ咲恵さきえも椅子に座ったまま。

 急にコーヒーの香りが鼻に届いた。

 咲恵さきえが視線を上げると、そこにはコーヒーカップを持ち上げた萌江もえ。目だけは鋭いまま。懐疑心か、周囲に視線を配り続ける。

「……萌江もえ…………大丈夫……?」

 咲恵さきえのその声にも、萌江もえは警戒を解こうとはしない。

 僅かに怯えも見えるその表情を見ながら、咲恵さきえが続ける。

「…………何が起きたの……?」

「……聞くしかなさそうだね…………」

「…………聞くって────」

 直後、そう言った咲恵さきえが言葉を詰まらせる。

 膝の上の手の中に違和感を感じた。


 ──……なに…………?


 手の中に〝何か〟がある。


 ──…………なにを持ってるの……?


 それは、冷たかった。

 小さく、丸い。

 指に、細いチェーンが絡む。





 一〇年前。

 牧田絵留まきたえる────七才。

 目の前に母親の姿があった。

 牧田靖子まきたやすこ────三二才。

 妊娠八ヶ月。

 出生前診断で胎児のダウン症の可能性が分かったのは妊娠四ヶ月頃。

 父親の太一たいち────当時三五才はその時点で産むことを諦めたかった。

 しかし靖子やすこは産むことを望んだ。

 やがて意見の食い違いは家庭の雰囲気を侵していく。

 二人に喧嘩が絶えない日々が続いた。


 その日、太一たいちがなぜそんな行動を取ったのか、それは後になっても太一たいち自身分からないままだったという。

 穏やかな気候の一日。僅かに陽が傾き始め、リビングの大きな窓からも強目の日光が入り込み始める。

 そんな時間。

 広いリビングのカーテンはいずれも開いたまま。リビングの向かい合った大きなソファーの裏で立ち尽くす靖子やすこの影に、太一たいちが重なるように寄り添っていた。

 すでに大きくなった靖子やすこのお腹に当てられた太一たいちの右手。

 その手に握られた包丁が、ゆっくりと靖子やすこのお腹から抜き出されていく。

 靖子やすこは声も出せないまま。

 力が抜けかけた直後、再びその包丁が突き刺さる。

 まるでそれが自然なことのように、抵抗もなく入り込む。

 もはや自分の身に起きていることなのかどうかも分からない。

 視界が揺れた。

 重力が崩れていく。

 体全体に冷たさを感じた。


 床に倒れた靖子やすこの体に、太一たいちは馬乗りになっていた。

 包丁を両手で逆手に持ち、何度も振り下ろす。

 しだいに床に真っ赤な血溜まりが広がる。

 その暖かさが、床に付いた太一たいちの膝から伝わった。

 もはや靖子やすこに考える力は無かった。

 腹部に入り込む太一たいちの手の感覚に、絶望感と共に憎しみすらも薄れていく。

 血だらけの体で、太一たいちは暖かい胎児を取り出す。

 すでに腕と脚が取れかけた胎児を床の血溜まりに置くと、太一たいちはその首に包丁を押し当てた。

 思ったよりも簡単に、その首は離れた。


 血の匂いが太一たいちの鼻に届いた時、やっと背後の気配に気が付いた。

 振り返った先には、絵留えるが立っている。





         「かなざくらの古屋敷」

      〜 第十一部「粉雪」第2話へつづく 〜

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