邯鄲の夢

散原

第1話


白と、黒。線香の煙と、すすり泣きの声。

お坊さんの読むお経を耳に残しながら、私は彼女に白百合の花をそっと手向ける。棺に横たわる久々の顔は、憎らしいほどに穏やかだった。こんな場所にだけ呼び出して、知らない人たちの中に放り込んで。彼女は本当に、どうしようもない人だった。

ああ、もうすぐ出棺だ。


老年の女性が腫れた目元のままに、私に話しかけてきた。たしか母親だったはずだ。上品で、いかにも善い人そう。そこで死んでる彼女曰く、頭が固い田舎のヒステリックババア。


「来てくださってありがとうございました。急なご連絡で驚かせてしまったでしょう」

「いいえ。……この場に来られなかったらと思うと、ぞっとしますので」

「香織さん、だったかしら。是非この後もご一緒くださいな。陽菜子、お友達少なかったみたいだから、貴女がいてくれたらきっと喜ぶわ」


私は握ったままにしていた数珠にさらに力を込めて、困った顔を取り繕った。


「彼女は、私のことをなんと?」

「え? ああ、それがなんにも。ご連絡した時の通りですわ」


自ら命を絶った彼女は、粗末な紙に私のSNSアカウントを書き、遺言を残したそうなのだ。


『 お葬式には黒沢香織を呼んでください。私の大切な人です。絶対に失礼のないように。 』


私のそばから離れたのは、陽菜子、おまえの方だというのに。

私が何もかもを変えてしまっていたらどうするつもりだったのだろう。


「ごめんなさい。私、人の多いところは苦手なので」


丁重にお断りして、けれども最後まで、彼女を見送る。

骨壺に入れられていく彼女の欠片。

もう面影もないその白を、私は涙が出ない目で、ただただ眺めるだけだった。


見知らぬ人々の中に一人、自分の夫を家に置いて混じる私。

彼女との関係を問われた時はぐらかしてしまったが、彼女は私の口から彼らに伝えてほしかったのだろうか。


私とあの子は、恋人同士だったのだ、と。




彼女と私はSNSで知り合った。

私は物書きを、彼女は画家を目指し、私が彼女の色彩豊かな絵を見かけたことから交流が始まった。私が彼女の色に惚れこんだのだ。

色の氾濫、濁流、それらが叫ぶ鬱憤と言葉にできない乾きからの救いを求める涙。画面の向こうに現れた抽象的な飛沫たちに私は魅了され、評価をしたり感想を送ったり。彼女も私の感想を、文章を気に入ったと、私の作品を読んでくれた。

なんてことのない底辺創作者たちの交流である。文字での交流で飽き足らなくなった私たちは通話をするようになり、果てには直接会うようなった。互いに性の垣根が曖昧で、これは「恋」なのだと、いつしか文字に色に視線に声にと、熱を孕ませるまでになり。


互いのことをなんでもわかると思っていた。

正解のたびに舞い上がって、正解するのが当たり前になって。

互いを補い合って、全て同じものを共有できると勘違いしていた。


私たちは人間である。

時が進めば、そこにほつれはでるものだ。

ずっと同じだなんて、都合の良いことがあるわけないのに。


ある日彼女は泣いた。


「どうしてわかってくれないの!? 私はこんなに大きな感情に苦しんでいるのにっ。この感情をわかって欲しいのに! 貴女ならわかってくれると思ってた。苦しいっ、重いっ、色が音が世界中が、私に重い感情を押し付けてくる!!」


彼女にとって、世界というものは刺激が強すぎた。鋭すぎる感性を持つ彼女にとって、具体的な苦痛が無くたって世界の色は毒なのだ。彼女が作る色は世界から受け取った色を吐き出した肥。助けて欲しいという救難信号。私はその嗚咽の上澄みをわずかばかり受け取って、素敵だ綺麗だと愛でていた。

彼女は私を、その毒を共に背負ってくれる人間なのだと思ってくれていたのだ。……私だってそうしたいと思っていた。彼女が好きだったから。


「貴女がいると、何もかもが眩しい。何かを見て何かを感じ何かを思う度に、貴女にわかって欲しくてたまらないの。苦しい。貴女が居ない時は、自分の分を苦しめば足りたのに……」


そうまで、そこまで、彼女は私を想ってくれていた。私を共有者として、大きな存在にしてくれた。

嬉しい、と思うべきなのに。


私は、彼女が伝える大きな刺激を聞き続けるうちに、わずかばかりにでも「大袈裟なことを」と思ってしまっていたのである。

しかし彼女には大袈裟なんてことはなかった。すべてが大きく不慣れで、痛いものだったのだろうに。頭ではわかっていても、辟易としてしまいはじめたのだ。


それでも私は、彼女を愛したかった。力になりたかった。


「苦しい……もうひとりにして……」


私は彼女の共有者として、役不足だったのだろう。


彼女は私の前から姿を消した。

私が惚れ込んだ彼女の絵も、全て。



彼女の部屋に通させてもらった。

母親は入ってこなかった。入れないのだ。当然である。ここで娘が首を吊った。きっと私もそうなるだろう。


彼女が私の前から姿を消して、もう5年の時が経っていた。

晩年、彼女はこの部屋に引きこもっていたらしい。精神を病み、絵具ばかりを拾い集めて。彼女の遺体が撤去された部屋には絵具の匂いが満ちていた。

どこもかしこも絵具だらけ。壁中が、たくさんの色で塗りつぶされていた。


その一点をぼんやり眺めていると、夫の声が聞こえて来た。


「香織、大丈夫? 苦しかったらもう行こう。お腹の子にも障るだろう」

「……うん」


気遣ってくれる彼の目には、深い理解と同情が浮かんでいる。

彼はすべてを知っている。私と彼女が恋人だったことも、私が心の隅に彼女を留まらせ続けていることも、全て。また帰って来てくれる日を待ち続けていたことだって。


けれど間違いだったのだ。

本当に彼女を愛していると示したかったのならば、落ち着くまでいつまでも待つのではなく、彼女を探し出して愛させてくれと縋り付きに行くべきだった。


私は、陽菜子の共有者にはなれなかった。

深く、深く、それが悔しくてたまらない。


感情が塗りたくられたその壁の、ただ一点。

そこには、私が惚れ込んで好きだと言った、あの日の作品が額縁に収められている。


絵具が塗りたくられている。

重い。会いたい。ごめんなさい。


痛々しいその文字に涙を流し始めた私に、そっと彼が寄り添ってくる。

私はお腹を庇いながら、彼に連れられて外へ出た。


「ねえ、この子が生まれて来て、女の子だったら、……名前は、陽菜子にさせて。同じにさせて」


夫が戸惑う目をしている。

申し訳なくて顔が見られない。



私は彼女の重みを背負い切れなかったくせに、今になって、不器用で可哀想で仕方のない彼女への愛しさで、胸を壊されそうになっていた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

邯鄲の夢 散原 @chikihara

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ