裂帛-3
「霧島さん、少し……よろしいですか……?」
とにかく気まずかった昼食を終えて、私たちは自分の部屋へ戻ることにした。その途中、瑠偉は螢さんと奏さんと葵さんの部屋がある廊下のトイレに入ったけど、私は出て来るのを待たずに自分の部屋へ戻ろうとドアを開けた。すると、奥にある階段の手前に葵さんが立っていた。
どこかしら人間味とか感情が欠落したような印象を与える家の人たちの中で、唯一の安心を感じるのはこの人だけだ。だけど、その気持ちに確証はないから、警戒心は解かずに近付き、葵さんが少しでも変な動きをしたら逃げられるように距離で立ち止まった。
「警戒するのも無理はないけど……時間がないの。こっちへ……急いで……!」
内緒話をするみたいに葵さんは声を落とし、使っていない座敷へ私を誘った。その口調には緊迫感みたいなものがあったけど、それでも舞うような雅さは乱れていなくて、京堂さんが大和撫子だと称していたのも頷ける。だけど……、
「佳奈……! どうして戻ったの……!」
座敷へ入ると同時に、葵さんは掴み掛からんとするほどの勢いで私に詰め寄って来た。
「どうして戻って来たの……! 成長していたってその火傷痕を見れば……あなたが葛城佳奈だと人形にだってわかるのに……!」
葵さんは顔を寄せたままヒステリーを起こしたみたいに捲し立てた。どうして私の本名を知っているのか、それが怖くて彼女を突き放そうとしたけど、葵さんは私の両肩を掴んで放してくれない。
「もうすぐ幕が閉じる……。佳奈、猛さんに頼んだから……あの時みたいにここから逃げて……! 妹を演じる役者は……あなたのことを忘れていないの!」
「あの……何を言って――」
かぶりをふろうとした瞬間に、葵さんは私の右頬に触れた――その瞬間、何度目かもわからない、ズウゥゥン、という重たい音が脳裏に響き、記憶の中を何かが横切った。それは欠けていた記憶―ーそれは高神ありすによる放火と刺殺だけじゃなく、蘇る微かな光景――。
頽れる男性。その先に現れる黒い影と狂ったような笑い声。仮面の少女がそこにいた。冷たい手に引かれて泣きながら走る自分と葵さんと――抜け落ちた私自身の心と魂――。
「あっ……ああ……」
そうだ……私はここに来たことがある。火事の記憶に紛れて、忘れていた忌まわしい記憶……。
蘇った記憶の欠片。哀しそうな葵さんへ今の唄を教えたのは私で、狂笑を連れて迫る奏から逃げていたあの時、自分を連れて逃げていたのも目の前にいる葵さんだ。どうして奏に追われているのか、彼女たちは何者なのか、まだわからないことばかりだけど、奏が危険な人物であること、二人が十年前から何一つ変わっていないこと、今とは違う葵さんの唄声に誘われて屋敷に来たこと全てを思い出した。
「どうして……私は……」
「あの時のあなたはまだ十歳……ここでの出来事をおぼえているにはあまりにも負担が大き過ぎる。だから……辛い記憶と心を私が封じ込めた。それだのに……どうしてここへ戻って来たの……!」
そう叫んだ葵さんは私の両肩をがっしりと掴み、その片目を合わせた。
「いい……?! 時間がないの……急いでここから逃げて」
「あっ……葵さん、あなたは一体……」
「何を言って――まさか、あなた記憶が?」
まだ……思い出していないことがあるのだろうか。
「私が思い出したのは……十年前にここへ来て……奏さんを見たことしか……」
「っ……私たちはこれよ!」
かぶりをふった葵さんは、閉じていた左目を開けて私の瞳を凝視した。
私を映す翠の瞳――それは神様が人間に与えたものではなく、神に等しくも偽りの力を持つ人々が作り上げた義眼――ガラスの瞳だ。
「義眼……」
「いいえ、義眼であって義眼ではないわ……。この躰も……私を生み出した母様――父様からいただいたもの……」
葵さんはさらりと女袴を晒した。
「あっ……」
晒された裸体――偽りのその躰をただ見つめることしか出来ず、私は立ち尽くした。
精巧だけど息をしていない胸、折檻されたらしき傷から覗くのは血管のように精巧なワイヤーのような何か、腕や躰の各関節に浮かぶ黒い線、形はあるけど見当たらない生殖器官……その躰は――人形のそれだった。サロンや屋敷のあちこちに飾られていた球体関節人形のそれだ。
「あなたはいったい……」
驚きと恐怖で、私は後退る。人ではない存在が目の前で動いている。口だって人形特有の線は無いし、冷たくても人間と変わらない肌の感触がある。綾香さんが轢いたのも、動いていたこの家の何かだったのかもしれない。
「あの時と同じことを……もう一度言うわ。私たちはこの世界の
裸体を女袴で纏い隠した葵さんは、また哀しげな翳りを浮かべて俯いた。
「シナリオ通りの事故……唄声に誘われるまま迷い込んで来る稀人たち……入れ替わる役者……シナリオ通りの結末……全てを知っているにも関わらず……私は抗うことが出来ない……。それはシナリオに書かれていないから……」
「シナリオ……私たちがここに来ることもシナリオ通りだったんですか……?」
その言葉で脳裏によぎるのは、奏の台詞……。
「ええ。だけど……些細な変化なら起こせるの。稀人の協力があれば……! とにかく今は逃げて……あの時のように地下から……現世に通じる裂け目を抜けて」
葵さんはそこまで言うと、マスターキーを私に手渡した。
「施錠されていてもそれがあれば……急いで! もうすぐ彼らが動き出す……! 殺されて――」
その時、屋敷内を響かせるほどの轟音――銃声が轟いた。
「今のは……?」
「最後の章の狼煙……。佳奈、あの時……私が手を引いて逃げた道はおぼえているでしょう? 急いで……!」
「待って…‥! 逃げろと言われても私は何も……」
「他の人達にも出来るだけ手を貸したから……」
他……?
その意味を訊こうとした私を無視して、葵さんは私の腕を掴んだ。その手は私とは違い、生命の温もりが感じられない冷たい手だ。
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