騒擾-3

 そっとドアを開け、わたしは廊下の様子を窺ってみた。


 電源がギリギリの携帯電話が示す時刻は十二時五十二分。外の世界だとお昼の時間だけど、俗世から隔離されたこの狂気の屋敷では時間という概念が完全に狂わされているようだ。


 私だけしかいないから照明が弱められた廊下に人影はなく、文字通り静寂が支配している。耳をすませてようやく聞こえてくるのは、自分の息とウォークマンから流れる音楽だけだ。


 カー先輩が殺され、怪しい家の連中に別の部屋を勧められた時、わたしはみんなと同じ屋根の下にいることを拒んだ。今思えば、冷静さを欠いた愚行だったんだと恥ずかしくなる。だけど、みんなのことを疑わなければいけない状況になってしまったのは事実だ。


 誘惑の歌で船を沈める魔物セイレーンのように、この屋敷は峠に迷い込んだ人間を誘い、狂った家人たちが獲物を襲う。


 そんな妄想をしたところで、現実は何一つ変わらないことはわかっている。アヤ姉さんのことも、カー先輩のことも、妄想では何一つ解決出来ない。二人が襲われる理由も、わたしたちが襲われる理由も、わたしたちが殺し合う理由も納得出来る妄想が何一つ出て来ないのだから。


 それとも……参加してないミッチーとマーヤ先輩のどちらかが関わっているのだろうか。まさかアヤ姉さんの自作自演というわけじゃ……。


 そこまで考えて、わたしはかぶりをふった。ドアを開けたまま自身を危険に晒しているのは妄想推理のためじゃない。


 食べ物には苦労していない。自分のバッグにはたくさんの食料とお土産が詰め込まれているからだ。しかし、自分が人間という生物である以上、逃れられない生理的な欲求がある。


 トイレは廊下に出て左側、医務室の手前にある。距離的にはわずかだけど、一歩も踏み出せないまま今に至る。何故なら本能が部屋に戻れと激しく警告しているからだ。それでもドアの隙間から見た視界に危険なものは見当たらない。さっき医務室の方から聞こえて来た物音(どうせ外で雪が落ちた)なら解決済みだというのに。

 

「しっかりしろ……愛里、お前は出来る女だろ」


 震える脚を叩き、おキョウさんから護身用として渡された小型のナイフを握り締める。それは折りたたみ式のナイフで、使い込まれた証が煌めいていた。


 大丈夫……急いで済ませて帰ればいいだけ。


 わたしは勢いよくドアを開け――足先に何かがぶつかった。「はい?」と、わたしは足下へ視線を落とし――放り投げた黒い和服の球体関節人形と目が合った。見られているような気がしたから自分の部屋にいた人形にはタオルを被せていたけど、サクラ先輩の部屋の奴はもっと気味が悪かったから、廊下に放り投げた。


 こんな場所に投げたっけ……。


 もしかすると、サクラ先輩かルイルイ先輩が動かしたのかもしれない。だとしたら相当に意地が悪い気がするけど、文句と愚痴を言える相手なんて今はいない。


「勘弁してくださいよ……」


 堪らずそう吐き出したワタシは、その人形を蹴り飛ばしてトイレに駆け込んだ。入る直前に医務室のドアを見てしまい、慌てて顔をそらした。あの先はカー先輩の遺体が眠り、アヤ姉さんが失踪したバミューダだ。

 

 最も避けたい落ち着かないトイレを済ませ、バタバタと手洗いも済ませたワタシは角を曲がり――。


「えっ……?」


 さっき蹴飛ばしたはずの黒い和服の人形が、廊下のど真ん中に立っている。視線は明らかにこっちを見ていて、ギョッとしたワタシは後退りし――足に激痛が刺さった。その直後、ワタシの右足は崩れて全身が勢いよく絨毯を舐めた。


 激痛と何かが吹き出すような音が聞こえ、何が起きたのか足を見ると――アキレス腱から夥しい量の血が吹き出していた。さらにその側には血飛沫を浴びる花嫁人形が立っている――それを見て、理解した瞬間に、ワタシの脳みそはパニックを起こした。それに続いて指示が途絶えたアキレスも身体もパニックを起こし、ワタシ自身が魚みたいにのたうった。


「あっ……あっ……ああっ……」


 言葉を吐き出せないけどワタシの腕は意識を取り戻し、その場から逃げようと芋虫みたいに這いつくばる。何が起きたのか、何が起きているのか、何もかもわからないままワタシは落としてしまったナイフをがむしゃらに掴んだ――その瞬間、


 ガシャン!


 廊下の奥から乱暴な物音が聞こえた。誰かが客室棟に来てくれた――そう信じてワタシは人形を無視して両引き戸まで這う。だけど、静寂を壊した物音は両引き戸が動くような音じゃなくて、ガラス同士が擦れ合うような――。


 シャンデリアの音だ。


 そう理解した時、前と後ろから子供みたいな嗤い声が聞こえ、奥の曲がり角――の天井から黒い影が飛び出して来た。

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