第捌幕 疑懼

 一時間ほどで昼食は終わった。当然と言えば当然だが、全員の手は進んでいなかった。唯一ヒョイヒョイと箸を運んでいたのは車だけだったが、特に驚くことはない。その後は、片付けられた昼食に代わって紅茶と珈琲を配り終えた久留米がサロンから出て行った。


「堂さん、これからどうしますか?」


「……とりあえず、この屋敷を調べるつもりだ」


 吸っていた煙草を潰し、俺は突き放すように言った。


「そうっすねぇ……時間はたっぷりありますし」


 俺は動かない秒針を見た。俺たちが訪れた時間で止まったままの光景が嫌で、直さないのか、と古林に一度だけ訊いたが、「その必要はありません」と、けんもほろろだった。まるでこのリュシテン邸の時間そのものが止まっているような錯覚すら感じるし、行方不明の綾香、いつまでも弱まらない吹雪、わからない事件……苛立ちに追われるから気分が悪い。


「どうっすか? 医務室でも見に行きます? 何かあるかもしれませんしね」


「……まるで俺を医務室へ行かせたいみたいじゃないか」


 そう言ってやると、車は道化を浮かべながらも顔をそらした。つまり、そういうことだ。


「そうだな……もう一度調べてみるか。拓真、一緒に来てくれるか?」


「わかりました」


 車の横で珈琲を飲んでいた拓真は、二つ返事で立ち上がった。


「大淀さん、みんなを頼みますね」


「行くぞ」


 俺は拓真を連れて廊下に出た。


「ここはいつも施錠を?」


 階段を下りた時、拓真は客室棟の入り口を指差した。


「いや、これからだ。ここの鍵を解錠出来るのは、俺と古林と滝村って人だけになってる」


 ポケットの中から取り出し、拓真に見せたのは古林から渡された三つの鍵だ。一つは客室棟への鍵、もう一つは医務室への鍵、最後は客室の鍵だ。


「マスターキーともう一つの予備は古林と滝村が持っているから……ここを施錠した状態で、客室棟で何か起きたら……俺たち三人の誰かが犯人ってわけだ」


「笑えませんよ……」


「違いない……」


 俺は力なく笑い、医務室に足を踏み込んだ。


 朝の出来事以降、誰も入ってはいないようで、動かされた痕跡は見当たらない。


「どうします? 探偵よろしく、室内を調べますか?」


「ああ、それがいいだろうな」


 頷きはしたが、生憎と俺はミステリに心得はない。どうやって捜査するのかご教授願う、と拓真を見たが、逆に見つめ返されてしまった。


「……手当り次第に机の中とか不審な箇所を探せばいいのか?」


「だと思います……」


 頼りなく頷いてみせた拓真に肩をすくめた。なんだ……そんな成りをしているのに。


「とりあえず……俺は右側を調べて行きます」


 頷き、俺は左側を調べて行く。ざっと見渡したところ、あるのはベッドに絵画、薬品棚という手懸かりも何も無さそうなものばかりだ。


 そっと絵画に近付き、何が描かれているのか凝視した。それは女性が描かれた油絵であった。黒いドレスを華奢な身体に纏い、長い蒼髪を靡かせて振り返る女性。端正で作り物のような顔、哀しげな眼差しでこちらを見つめている。どことなく、纏う雰囲気が桜に似ている気がした。


「誰だろう……」


 俺は思わず呟いた。それは疑問だが、そのほとんどは賞賛に近い呟きだった。俺もそれなりに絵心はあると自負している。風景だって人物画だって、賞を取ったこともあるし、劇団のポスターを描いている時もある。だが、この油絵はその自負が思い上がりにすぎないことをむざむざと告げている。


 思い上がるなよ明夫君? 君が描く絵には魂がないんだよ。


 かぶりをふり、俺はその油絵から目をそらす。


「ねぇ、京堂さん。ある意味……密室ですよね? 京堂さんが医務室を出てサロンから戻って来るまで……十分ぐらいでしたか?」


「ああ、その十分の間……お前たちには完璧なアリバイがある」


 油絵を囲む額縁に触れながら、俺は息を吐いた。


「だが……俺にはないのさ。桜が出て行った後……俺が綾香を殺して、何喰わぬ顔でサロンに行く、そして誰かを連れて医務室に戻って三文芝居……」


「やめましょう。大淀さんが言っていたじゃないですか、水掛け論だって……」


「そうなると家人を疑うことになるな」


「それも変なんですよ、さっきは家の人が怪しいと言いましたが……綾波さんを襲う動機が浮かばないんです」


「そうだろうな。動機なんて――」


 その時、触れていた絵画が横に動いた気がして、俺は慌てて手を離した。壊してしまったのかと思い、あたふたと調べるが、不思議なことに移動した痕跡は無かった。


「大丈夫ですか?」


「ああ……壊したのかと思った」


 これ以上奇怪なことが起きないように絵画から離れ、診察机に近付いた。


 診察机といっても簡素なオフィス机で、机上にはカルテや難しい医療の専門書が並んでいる。引き出しは全部で五つあり、それらを一つ一つ探っていく。中に入っているのは、ガムや書類、筆記用具に個人的な写真と――思わず手を止めた。一瞬、自分が見つけた物が信じられず、全ての音が止まった。


 どうして引き出しに、医務室に、この屋敷にこんな物があるのだろうか……。


「京堂さん? どうかしま――」


「いや、何でもないよ」


 拓真の問いかけを遮り、自分の背中で引き出しを隠した。


「素人探偵の捜査じゃわかることは少ないだろうな……」


 ベラベラと拓真の気をそらしつつ、俺は見つけた〝それ〟を腰に差し込んだ。


「そうですね……この密室を解明することが出来たら良いんですけど……」


「一人一人……尋問するしかないのか……」


「…………」


 劇団員を疑い合わなければいけないことに、拓真も悲しげな溜め息をついた。

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