水脈-3

「たった今、機巧山に入ったよ」


 激しくなる雪と白霧に眉を顰めながら真耶さんは言った。それに続いて僕も外を眺めた。


「霧が濃いな……吹雪いてますよね?」


 フロントガラスには続々と雪が押し寄せ、ワイパーの仕事を増やしている。でもそのおかげで雪が視界を覆うことはないんだけど、それよりも吹雪が呼んだ白霧が真耶さんの運転にかなりの負担を強いているのが問題だ。


 前方を頼りなく照らすのはヘッドライトと圧倒的に光量が頼りない街灯しかなくて、もしも対向車が飛び出してくれば事故るかもしれない状況だ。それでも真耶さんはその状況を想定しているのかしていないのか、慎重な運転で峠を進む。


「まぁ……事故っても面白くないしね」


「ここで事故ったら何をしに来たのかわかりませんから……頼みますよ……」


 僕はそう言って携帯電話を取り出した。山に入った途端に電波は圏外になり、ただの置物と化した携帯電話だけど、ここまでに調べた機巧山と人形峠についての情報は画像として保存してある。


「真耶さん、さっきのお店で地元の人が言っていたこと……全部が本当でした。機巧山の神隠しについて初めて記述されたのが……一九一五年です。地元新聞の小さな記事みたいですが、今の人形峠で三人も行方不明になっています」


「一九一五年か……生きてないな」


「その年を皮切りに、翌年もその翌年も峠で行方不明者が出ています。いくらあの時代の峠越えとはいえ……頻繁過ぎませんか?」


「まぁ……あの時代で地方の峠をコンクリで舗装するわけないしね。第一次世界大戦も巻き起こっているわけだし」


「しかも遺体が発見されていないんですよ。野生動物の仕業だとしても怪しくないですか? 人攫いか山賊みたいなのが住み着いて……通行人を襲っている感じがしません?」


「それもあるかもね。あの時代じゃ闇夜に紛れて……が通じるからね」


「でも……そうだと想定すると神隠しが続き過ぎてるんですよ。真新しい行方不明は……三年前の染谷淳そめたにじゅんという雑誌編集者ですね。心霊系の雑誌『譚怪たんかいの海』を出している出版社から捜索願が出されています。未だに遺体は見つかっていないようですね……」


「…………」


「怪談系……ということは、神隠しの取材で来たんでしょうか?」


「…………」


「真耶さん? 聞いてます?」


「聞いてるよ。聞いてるから黙ってるんだけど……」


「あっ……すいません」


 真耶さんはそう言うけど、僕から見たら聞いているようには見えなかった。何しろ眉を顰めているし、視線はまっすぐから微塵も動かなかった。


「これだけ行方不明者が出てるのに……警察はどうしてるんでしょう……」


「駐在所に行けば……わかると思うよ」


「駐在所……ですか? それがあっても行方不明者が出るんだから……どうなってるんでしょう……」


 駐在所は峠の頂辺りにあるから、と真耶さんは少しだけ車の速度を上げた。その速度に直撃する雪の勢いは強くなる一方なのに、微かに照らされる道路には何故か雪が積もっていない。それに加え、事故を思わせるガードレールが一つも見つからない。擦れ違う車も無く、いよいよ何が起きたのかわからなくなってきた時――。


「っ! 真耶さん!!」


 その瞬間に車は急停車し、ハンドルとタイヤの悲鳴が車内に反響した。それこそシートベルトが無ければ僕も真耶さんもフロントガラスに叩き付けられていたんじゃないかと思う。


「真耶さん……あれは……」


 そんな九死に一生を招いた原因は、ヘッドライトが捉えている倒れた――人間だ。ボロ切れのようになった汚い和服を纏う女性はうつ伏せのまま左腕の肘から下が無く、残された三肢はあらぬ方向を向き、周囲には赤茶色のつぶつぶが大小問わず散らばっていて、道路とそれを挟む雪にも赤黒い血が大量に付着している。


 間違いなく轢き逃げだ。クソッタレが轢いてそのままにして逃げたんだ。


 文字通り、自分の身体が凍りついていくのを感じた。見なかった、気付かなかったことにしたいと訴える恐怖心があるけど、見なかったことになんて出来ない。まだ生きているかもしれないんだから。


 顔色一つ変えていない真耶さんを残して、僕は懐中電灯を持って静かに女性へ近付いた。ここまで酷いと死臭とか血の臭いとかがするものだと思っていたけど、寒さの所為なのか、一切それらしい臭いはしない。周囲に人の気配はなく、死体に見せかけての追い剥ぎという可能性も低そうだ。


 それでも僕はにじり寄るようにして女性に近付く。何だか自分が小さな子供になったような錯覚に襲われたけど、胃から込み上げてくるものも一緒に無理矢理戻して屈み込み――。


「これって……人形……?」


 そろそろと後ろから追従するヘッドライトが、人形の無惨な全身を浮かび上がらせ――その瞬間、二重回しが濡れることも構わずにその場にへたり込んだ。早鐘のように鳴っていた心臓が、空気を求める肺と共に暴れ出す。


 誰かがこの人形を撥ねて逃げたようだ。人間でなかったことを歓迎しつつ、震える脚を叩いて立ち上がった僕はその躰に懐中電灯を当てた。


 千切れた肘から今も流れ出る血みたいな液体は無臭で、千切れた断面の様子は生々しいの一言で全てを表現出来る。素材もわからないものが詰め込まれ、ミリ単位のワイヤーとかケーブルとかがはみ出し、苦手な人は卒倒してもおかしくないだろう。用途も名称もわからないものばかりで、どういった機巧技術が使われているんだろう。躰の作りは球体関節人形みたいだ。


「まだあるんだ……機巧人形」


 車から降りて来た真耶さんは、散乱する欠片の一つをどうでもよさそうに蹴った。何だか乱暴な感じで、何を苛々しているんだろう。


「道路の真ん中ですよ? 両脇に飾れるような場所なんて無いのに……」


「歩いて此処まで来たんじゃないの」


「そんな莫迦なこと――」


 この人形がどこから来たのか、それを求めて周囲を見渡し――認めたくない痕跡を見つけてしまった。想定していた中で何よりも最悪な光景を。


「真耶さん! あれ……!」


 幽霊みたいな白霧の中、名称もわからない植物に絡まれたガードレールの一部が、山の中に向かって伸ばされていた。


 ああ……まさか。


 僕は歪なガードレールに掴まり、山の中へ身体を乗り出した。懐中電灯も一緒に伸ばして白霧の隙間を照らしたけど、何も見えないし何も浮かんでくれない。すると、無言で横に並んだ真耶さんが着火させた発炎筒を崖下へ放った。


 炎上するような音と赤い閃光が白霧を切り裂き、その明かりは奇跡的にも雪の上に突き刺さり、松明のような形で道標になってくれた。


「ほら、これで少しは――」


「こら! 危ないじゃないか!!」


 発炎筒が猛る中、煙と一緒に大声が飛び上がった来た。その不意な大声にギョッとした直後、発炎筒を遠巻きにする白霧の中から、夜行性の昆虫みたいに光を揺らす人影が飛び出して来た。


「そこの……二人か?! 発炎筒を落とすなんて危ないだろうが!


 バチバチと唸る閃光の中に現れたのは防寒着姿の警察官だ。優しそうな顔立ちだけど、今は怒りがハッキリと浮かんでいる。


「すいません! 非常事態でして……!」


「非常事態……? そうだ、十歳頃の女の子を見なかったか!?」


 五メートル以上はある崖下から堂々と届くその声に対し、僕は真耶さんを見てから警察の人にかぶりをふった。女の子どころか、生き物も車も見かけていない。だけど、警察が出張っているということは何かがあったんだ。僅かな希望を抱きながら、僕は聞こえるように大声で尋ねた。


「あの……! この付近で事故が起きた報告はありませんか?!」


 発炎筒の閃光が弱まり、懐中電灯の光が俺たちを捜す。


「事故? 報告はないけど……ここに事故車ならある! あっちには黒焦げの車さ」


「……本当ですか?!」


 警察の人が指差す方向を見ようとガードレールから身を乗り出す。


「そこからは見えないよ。とにかく君たちは帰りなさい、これ以上遭難者が増えては大変だ。事故車のことは調べておくから」


「その事故車に誰もいないんですか?」


「誰もいない。荷物も無くなっているから……この付近を歩いているのかもしれないな」


 その警察の人に車種とナンバーを確認してもらうと、その車は綾香さんの車だと判明した。黒焦げの方は車種もナンバーもわからないほどに風化していて、爆発したような有様だと教えられた。加えて周囲に他の車は無く、足跡も雪で完全に掻き消されてしまったようだ。


「真耶さん……みんなはどこに行ったと思いますか……?」


「さぁね……。事故か……でも死体が無いならどこかにいると思うよ」


「どこかに……それなら遭難している可能性は――」


 最悪の事態が起きている。予想が確信に変わった今、こんな場所でのんびりなんてしていられない。そう思った直後、背後から僕らを照らしていたヘッドライトが急に動き――車が突っ込んで来た。


「真耶さん!!」


 何故か避けようとしなかった真耶さんへ飛び込み――靴のつま先を削るように真横を抜けた車はガードレールを抜けて崖下へ落ちて行った。直後、警察の人の怒号と車の悲鳴が辺りに響き渡った。


「掴んだまま……放さないで……!!」


 悲鳴をあげたのは車だけじゃない。突き破られたガードレールを掴むのは片手だけ、もう片方は華奢とはいえ女性一人を抱き抱えている状況は、いつ脱臼してもおかしくない悲鳴をあげさせる


「放すよ……チル」


「えっ……!? 放したら――」


「放しても大丈夫だ! 女性から!」


 震える肩越しに下を見ると、警察の人が横転した車の中から取り出したクッションを僕らの足先へ放り投げてくれているけど、それだけじゃ明らかに足りない――そう思った直後、ガードレールが大きく軋んで手が滑り――気付いた時にはもう自分の身体がクッションと雪の地面に叩き付けられていた。


 轟音と一緒に「うっ……!!」と、僕の悲鳴が響き、口の中に血の味が広がった。だけど、それを吐き出す前に真耶さんに退いてもらわなければいけなかった。


「大丈夫か! 君、痛みはあるかい? この状況で我慢は危険過ぎるからね」


 警察の人の言う通りに、痛む箇所を伝える。高所からの転落だけど、クッションのおかげなのか、まだ明確に悲鳴をあげているのは腰と左足首だけだ。涙が滲むほど痛いけど、幸いにも歩けないわけじゃない。


「打撲と捻挫かな……骨折じゃなければいいが。それにしても……」


 警察の人は振り返り、たった今僕たちを轢き殺そうとした真耶さんの車――だったものに近付いた。今は小さな煙をあげて雪の中でひしゃげているが、その中に運転手の姿は見当たらない。


「サイドブレーキは……ちゃんとしてるのに何で動いたんだ……?」


「それよりも……真耶さん! 何で避けないんですか! あのままじゃあなたは――」


「ごめん……何が起きたのかわからなくて……」


 真耶さんは目を伏せると、罰が悪いのか背を向けた。僕としてはその意外な理由に驚かされた。道路に転がる人間らしきものを見て、一切顔色を変えなかった人が、パニックで反応が遅れたというのだから……。


「君、彼女を責める前に応急手当てだ。足を出して」


 真耶さんの言葉が本心なのかどうか決めかねている間に、警察の人は僕の足へテキパキと応急処置を施してくれた。真耶さんの車にあった段ボール、僕の手拭い、その辺に落ちていた木を副木として使い、二人に連行される形で歩けるようにはなった。


「これで……良し! とりあえず応急手当てだから、すぐに病院だ」


「ありがとうございます……えっと……」


「ああ、本官は人形峠の駐在所に勤務する相澤猛巡査です」


 その相澤さんに感謝を伝え、僕は手短に自分たちのこと、此処まで来た原因を説明した。すると、相澤さんも佳奈という女の子を捜して山に入ったと教えてくれた。駐在所を飛び出して来た結果、道に迷い、ようやく道路がある崖下にまで辿り着いたのだという。


「それにしても参ったな……負傷者まで出るなんて」


「あの車……動いただけじゃないんですよ。向きを変えて僕らに突っ込んで来たんです」


 真耶さんを見ると、彼女も小さく頷いた。


「まさか……。とりあえず、峠を下ろう。道路の場所はわかったから、この崖に沿って進めばいいだろう」


 相澤さんの案に従い、僕は真耶さんに支えてもらいながら雪の中を進む。


「もしかしたら……他の連中もこうやって落ちたのかもね」


 そうだとしたら、こうして同じように下山しようとしたのかもしれない。その道中で吹雪かれたからどこか穴蔵で吹雪が止むのを待っている可能性がある。だとしたら、みんなが生きていることに希望を見出せる。


 どうか……無事で……。

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