空蝉のエレジィ

水脈-2

「皆様〜、お風呂が空きましたよ〜」

　濡れた髪をワシャワシャと拭きながら、車さんがサロンに戻って来た。「良い湯でしたよぉ〜」と言いながら室内を見渡すと、キョトン、とした感じでアタシを見た。

「あれれ〜？　愛ちゃんは？」

「疲れたから寝るって。夜這なんかしたら冗談でも刺されるかもよ」

　それに対する車さんの反応なんて無視して、アタシは桜を見た。ある意味で、これからのことを誘うには勇気がいる、だけど、家の人とか明日のこととかで不安がある状況で一人黙々と考えるなんてことはしたくない。だから、

「ねぇ、今日は一緒に……お風呂入らない？」

　そう口にした瞬間、桜はビリヤード台を見下ろしていた目を微かに見開いた。

　それもそうだろう。確か桜は中学時代から宿泊がある行事には参加していないらしいし、高校時代も修学旅行には不参加だった。それもこれも、彼女の身体に刻まれている火傷の生々しい傷が原因だ。アタシがその惨たらしい傷を見たのは機巧人形劇団の合宿で、桜曰く身体の傷を見せたのは家族以外でアタシが初めだと言っていた。

「なんだよ瑠偉、一人きりが不安なら俺に言ってくれれば――」

　それを無視して返事を待つ。何だかその待ちの時間が、高校時代を思い出させる。

　あの頃の桜はとにかく無口で、当然というか何というか……女子グループからは嫌われていた。こっちからの呼びかけを無視するようなことはしないし、不親切でもなかったから普通に接する人もいたみたいだけど、狭い世界で派閥を作りたがる女子共は陰口と気付かれ難い嫌がらせは普通にしていた。だけど男子からのウケはそれなりに良かったから、告白されたことも確かあったはず。それが余計に嫌がらせを助長していたのは言うまでもないかな。

　そんな状況下でも桜は何に対しても無関心だった。だけど、アタシは一度だけ桜が演技とかに秀でていることを裏付ける光景を見た。

　それは体育の授業。担当が即興の芝居をしてみろと無茶振りしたことがきっかけだった。アタシは桜と同じチームになって、他の数人と一緒に即興の芝居を演じた。その時に桜の演技力に魅せられて、アタシは演劇部へ誘った。それが桜との馴初めだ。

　あれからずっと苦楽を共にしてきた。独りよがりじゃなければきっとオーケーしてくれるはず……そんな沈黙が少しだけ続き、

「いいよ、じゃあ……もう入る？」

「よかった、じゃあ……行こ」

　浴室の広さは愛里から聞いていたから、二人でも三人でも入れることは知っていた。

　二人きりのデートだと茶化す車さんとそれに苦笑いの拓さんを残して、アタシと桜は一階に下りてそれぞれの部屋から着替えを持ち出す。そういえば、脱衣所に洗濯機があるとも愛里は言っていた。二泊三泊の可能性なんて考えたくないけど、その場合は使わせてもらおう。

　そんなことを考えながら部屋を出て、脱衣所に入ろうとした時、

「瑠偉……ちょっと待って」

　桜に呼び止められた。何かと思ったら、桜は医務室のドアをノックして中を覗き込んだ。

「京堂さん……綾香さんは大丈夫ですか？」

「ああ、大丈夫。今は寝てるよ。風呂か？」

「はい」

　会釈して戻って来た桜と一緒に脱衣所へ入る。愛里が言っていたように、中は綺麗で広く、アタシたちが振りまいた埃や汚れを取り除けば新品と言っても過言ではないかもしれない。

　脱衣所には控えめな行灯型の照明が並び、天井と床に固定された収納棚には脱衣籠が乗せられ、ドライヤーも置かれた洗面台が三つ、スリッパを脱いで踏み締める床は旅館みたいな竹が敷かれている。何だか老舗旅館みたいだ。

「う〜ん、旅館みたいで凄いね……金持ちってみんなこうなのかな」

「……どうだろうね。でもこの屋敷は……内装が滅裂だよね」

　洋風なのに脱衣所は和風……でもまぁ和洋折衷が日本の家だもんね。

　先に服を脱ぎ落とし始めた桜の隣に並び、アタシも一つ一つ脱いでは脱衣籠に入れていく。その横目に映る桜の裸体は綺麗で、アタシとは違って特に気を遣っているわけじゃないらしい。アタシとしては凄く羨ましいけど、その柔肌には場違いな火傷がある。右頬から首の右側へ下り、背中の中程にまで伸びている大きな傷は、桜を内向的にするには充分だったんだろう。

　もしも、桜が火傷を負わなければ、今頃はどんな性格になっていたんだろう……。

「瑠偉、入らないの……？」

「あっ……入る」

　最後の下着を脱衣籠に入れて、積まれていたタオルを纏って桜の背中に続いた。

　これまた浴室の方も大浴場みたいに広くて、積まれた風呂桶、隔てられた洗い場が三つもある。加えて湯船はアタシたち七人が全員で入ってもまだ余裕があるほど大きく、洗い場も湯船の床も大理石みたいなタイルが敷かれていて、もはや家庭の浴室じゃない。

「お金持ちってやつぁ……アタシも売れたらこんなお風呂を家に作れるかな」

　石鹸を纏う湯気の中で髪と身体を洗い、雪中行軍なんて無茶をさせた身体を湯船で労る。その横では髪をタオル内に纏めた桜も湯船に身を沈め、アタシたちは無言のまま温もりに身を任せた。四肢を広げても届かない大きな湯船を二人で占拠出来るなんて、湯船自身が不満を露にするんじゃないか、なんて莫迦な思いを抱いてしまう。

　広いな……。

　静謐の中で、アタシたちは互いの息遣いと波紋の音だけに耳を傾けていた。元々、アタシは姦しくベラベラするタイプじゃない。学校っちゅー狭い世界の中では処世術として浅い会話はしていたけど、本当は桜みたいに沈黙を苦にしないタイプの方が好きだ。だからこの沈黙は好きだけど、今日は話していたい。

「桜……話していい？」

　それに対して桜は目を閉じたまま何も応えてくれない。だけど、これは否定の沈黙じゃない。

「訊きたいことが三つあるんだけど……」

　一つは玄関で奏って人を怖がった理由なんだけど、こっちを見た桜の目を見て思わず取り下げてしまった。儚くて、壊れてしまいそうな瞳が淀むのはあまり見たくない。

「えっと……さっきも訊いたんだけど、この屋敷を見つけた時……本当に無意識だったの？」

「……うん。唄声が聞こえてきて……それからはもうほとんど無意識に歩いていたから……」

「……どこで聞いた唄か思い出せた？」

「ううん……何も思い出せない」

「何で……唄声のことを隠すんだろうね」

「聞かれたくない人がいるのかも……」

「えぇ……？　マジかぁ……」

「隠し事はしてると思う。だけど……私たちにとってはこの吹雪が終わって下山出来ればそれで良いんだもん。放っておこう」

「そう……だよね。じゃあ次なんだけど……あの時、アタシの誘いに乗ってくれたのは……どうして？」

　確かに今更なこと。ほとんど話したことないのに、桜は演劇部への勧誘を承諾してくれた。その理由を今日まで訊いたことがなかった。

「桜って……ほら、普段はあまり感情を表に出さないし……その、言い方悪いんだけど、今も空虚って感じがするんだよね」

「…………」

「それだのに……演技とか歌のことになると途端に覚醒するというか……自覚はあるよね？」

「……うん」

「どうして普段からああじゃないんだろう……って、ずっと思ってた」

「……どうしてだろうね。私もわからない」

　消えてしまいそうな声でそう言った桜は、見上げていた瞳を私へ向けた。綺麗だけど、今の桜はこの屋敷に飾られている人形みたいに見える。何かの映画で言っていた〝空蝉〟という表現が当てはまるのかな……。

「演技してる時は……違う自分がそこにいるんだと思う。二重人格みたいな……感じかな」

　演技に関して桜は台詞の一つ一つを完全に暗記していて、みんなが台本を持って色々と錯誤している中で一人だけ台本を必要としていないし、本番では招かれたプロの役者さんを唸らせるほどに泣けるし笑えるし怒れる。だから、舞台終わりの桜を見てファンもプロの人も驚愕するのが定番だと言っても過言じゃない。

「でも一番は……」

「…………」

「一番は……演技が好きだから……かな。好きだから……瑠偉の誘いに乗ったんだと思う」

　その証拠が今だよ、と桜は続けた。その時に桜は微笑んだんだと思うけど、湯気の所為で見えなかった。それがまるでアタシと桜との距離感を突き付けられた気がして、反射的に手で振り払った。

「そっか……良かった。桜なら……女優だけでずっと食べていけると思うよ？　才能を見出したアタシが言うんだから」

「瑠偉からそう言われると嬉しいね……だけど、ずっとはいいかな」

　桜はそう言うと、湯の中へ静かに口を沈めてしまった。もうこれ以上の会話は続かないとわかり、アタシもそれ以上は何も言わなかった。

　どれも本心なんだろうけど、アタシは桜が口にも態度にも出す虚無的な傾向が嫌だ。生きる気力がなく、自分を空虚な存在として忌避しているような素振りすらあるから、演技の中で時々ある危険な動きにも躊躇いの素振りなしに飛び込んだり、今回みたいに怪我しても平然としていたり……死ねたらラッキーみたいな感じだから不安でしかない。それとも、そんな精神状態だからあんなに演技も歌も巧いんだろうか。

　歌っている時、演技をしている時の桜は何一つ欠けていない。むしろ生きる気力に溢れているようにさえ見える。きっと演技が好きなのは本心なんだろうから、どうすれば自分自身への空虚さをなくしてくれるだろう。

　そこまで考えて、アタシは桜みたいに口を湯の中へ沈めた。アタシが桜に対して友情とか親愛を抱くのは勝手だけど、偉そうに本心だ詭弁だ何だと言える筋合いはないけど、本当に危険なことをしでかすようなら絶対に止めよう……それで桜が怒ったとしても、アタシにとって桜の命はどうでもいいことなんかじゃないから……。

　アタシは目を閉じ、自分の決意に向かって頷いた――その時、

　カラ、ラ……。

「っ！！」

　引き戸が動いた。

　アタシは側に持って来ていた風呂桶を反射的に掴み――引き戸の方へ思い切りお湯を投げつけた。車さんの悪戯か覗きかと思っての反撃だけど、その盛大な水飛沫に反して脱衣所から悲鳴も逃げる足音も聞こえてこない――いや、微かに足音みたいな音がしてる。

「瑠偉？」

「覗きだと思う。ったく……犯罪だっつーの」

　こういうことをしそうなのは一人しかない。タオルで裸体をガードしつつ引き戸に近付いた。だけど、そこに人影は無くて、アタシが撒き散らした水飛沫だけが引き戸と脱衣所の間を濡らしただけだった。