幼児期編 4話


 血液型と親子の関係を授業で学んだ時も、何度も何度も両親の血液型と俺の血液型を同級生に尋ねられた。「その血液型はおかしい」放っておいてくれ。

 特に女の子が多かったように思う。田舎は噂話が最高の娯楽だ。

 参観日は嫌いだった。実際、おばあちゃんが来ている家庭もあったが訳あり家庭が多かったように思う。俺は家庭の形はそれぞれ違うもんだと、幼いながらに受け入れていた。


 理想の親子を演じようとする母と母の思うようにさせようとする父。

 複雑な家庭環境だったが、愛情はなかったのか?

 と言うと、どうだろう。

 父は持病で免許を返納していた。ふいに意識を失うこともあって危険だった。原付免許を持っていた母が買い物を担当していた。

 母は極端な冷え性だった。夏でも靴下を2枚履いている。

 冬場は上下ともに何枚も重ね着していた。2輪に乗ったことがある人は分かっていただけると思うが、時速20キロ以上になると風はどんどん体温を奪っていく。冷え性の母が原付で買い物に行く。

 冬場はどれ程大変だったのだろう?

 ちょうどクリスマスの時期にフライドチキンを食べる習慣が根付いていた。母は予約をして田舎では珍しいフライドチキンを買いに行った。

 片道5キロ、50歳をすぎて流れのはやい幹線道路を原付で、だ。同じことをしろと言われてできる自信はない。

 必死に親であろうとしていた。


 よく、50過ぎて子育てしようと思ったもんだ。父に尋ねたことがある。

 幼い俺を「宝の子じゃ」と 抱きしめて、泣いている母を、父は止められなかったという。

 そんな母も、認知症で「むーすーこーにーこーろーさーれーるー」と喚きながらフライパンで息子に殴りかかるようになるのだ。本当に怖い病気なのだ。


 話を戻そうとにかく。

 他の家庭と我が家はズレていた。遠足の日に酔い止めの仁丹(じんたん)を持っていく子供など俺の他にいなかった。

 音楽やドラマの流行など全然ついていけなかった。なんといっても我が家では時代劇が中心だった。

  その代わり貴重な話を聞くこともできた

 日露戦争に行った曾祖父の話。

 戦争から帰ってからぼーっと過ごす日々が続いた。片目を打ち抜かれていた。恩給も貰っていたそうだが、多くの戦友が殺され自身も片目を奪われた。縁側で何もせず静かに過ごす日々が続いたそうだ。

 ある日の夜、激しくくしゃみを何度も何度も繰り返した。最後に一度大きなくしゃみをして喉の奥からポロッと現れたのは銃弾の欠片だったそうだ。曾祖父 は「お前のせいで片目つぶれたぞ」と説教し始めたそうな。

 延々と罵倒を繰り返し、銃弾をポイー、畑に捨ててしもうた。


 ホントか? それ?


 わからない、当事者は墓の中だ。

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