狭間の世界にて君を待つ

Koyura

scene 1

私の問題の殆どは家族のことだ。


父からビンタをくらった。

学歴社会だから、大学行けって言うから受けたら合格した。

一時金を払う段になって「お金が無い」とのたまった。


私の口から、信じられない罵詈雑言が飛び出した。


今までの分全部吐き出した。


バイトもやって、母がやらない分料理洗濯やってきて、それでも眠気と戦いながら勉強して、クラスで1位を3年間維持して、ようやく受かったのに。


2人とも高卒だから子供だってその程度の頭の筈って。

努力しなかったから今があるのに子供に努力を吹っかけるな。


そしたら、「生意気だ」と頬を叩かれ、夕凪は家を飛び出した。


駄目だ。あの横暴な父親は!

駄目だ。いつも家にいない母親も!


こんな時は近所の祖母の家に逃げ込むのが定石だった。

そこで大声で泣く予定。ついでと言っては何だが、一時金の相談をしよう!


怒りながらどこか冷静だった。

両親のことはもう、今更だ。愛情なんて期待する方が間違っている。

でも、理不尽過ぎる。


何故こんな思いをしなくちゃならないんだろう?


もういっその事お前ら消えて!

こんな感情も消えて無くなれ全部。そうしたらこんな思いしなくていいのに!


いつも通り、走って、最後は歩いて祖母の家の前に着いた。


と思っていた。


何故か全然知らない部屋に居た。


祖母の家に似た古い作りの10畳くらい?の畳部屋だ。

でも、こんな部屋は祖母の家には無い。

家に入った覚えすらない。


四隅に黒い柱があり、壁は漆喰のような感じだ。天井は黒い木の板が組まれていたが、明かりはない。なのに外のように明るい。


突き当たりに和服を着た男の人が和風の机の向こうに座っていた。


机の周りには30cmはありそうな紙の束をが幾つも置いてある。


俯いて何か紙に書いていた男は顔を上げた。彼女を見て大層驚いた風だった。


同じく驚きのあまり固まったままの夕凪に対して

「まさか、ホントに、人?幻じゃないよね?」

とすっと立ち上がって、机の向こうから回ってきた。少しだけ夕凪に近付いた。


檜皮色の羽織と、鶯色の着物を着こなしている。

薄い茶色の髪が若干目にかかっており、切長の黒い目がその隙間から夕凪を真っ直ぐ見つめていた。


「今日は」

夕凪はつい言ってしまった。何を言えばいいのか分からなかったからだ。

「今日は。君は、どこから、来たの?」

とても、丁寧にゆっくり聞かれた。


普通っぽい反応に少しホッとして「分からないの。おばあちゃん家に、着く前に気付いたらここにいたの」と訴えた。


「そう、なんだ」

彼は心なしか残念そうに言った。


「ここは何処なんですか?茨木市、じゃないですよね」

住んでいる市を出して、部屋を見渡したが、3方は壁で、不安になるだけだった。


彼女に取り敢えず座るように促してから男も座った。

夕凪は靴を履いたままだったのに気付いて、慌てて脱いだ。土間が無いので靴の底を上にして後ろに置いた。


「ここは、何処でも、ない」

困ったように彼は答えた。

「ただ、強く自分を消したいって、思う人が、来るんだ」

慎重に言う。

「この場所は、本当に、分からない」


「えっ私、おばあちゃん家に行きたいって、思っただけで」


「そんな事、ないだろ?普通の、精神状態の人は、まず、来ないよ」若干咎めるような口振りだった。


夕凪は俯いた。

突然こんなところに来たので動揺しているが、根本的な感情は変わらないと分かっていた。

普通の精神状態ではない。


俯いたままの夕凪の前に温かい紅茶がソーサーの上のティーカップに入れられて盆に乗って差し出された。


思わず顔を上げたが、男は差し出した手を引っ込めただけで、そのまま座っている。


「紅茶でも、飲んで、落ち着きなよ。勿論、毒、なんか、入ってないから」


この男の言うことを信用していいのか。

夕凪は男と紅茶を見比べた。


一体何処からこれらを出したのだろう?彼は対面に座ったまま一歩も動いていなかった。


「別に、飲んだら、ここに縛られる、とかもないから。安心して」

男はニッコリと笑った。

「冷めないうちに、どうぞ」


そこまで言われると拒むのも失礼だと思って綺麗な草花が描かれてあるカップに手を出した。

ふわりと紅茶と少しりんごの香りがして、一口飲むと喉が渇いていたことに気がついた。


「アップルティー、どう?」

熱いので二口目を少し飲んでから

「美味しいです」と答えた。


「少し、落ち着いた?」

カップをソーサーに戻した。

夕凪はふうっと息を吐いた。


「ここは、何故か、嫌な事を吐き出すと、その分心が軽くなる、不思議なところなんだ」

彼は相変わらずゆっくり話し出す。


「みんな、ここに来て、心の重荷になっている事、嫌な事、心配な事、全部言葉にして、吐き出して行く。

僕はそれを紙に書き写す。

すると、相手の心が軽くなって、ここから飛んでいく」


「じゃあ、私は、そうすれば元の世界に帰れるんですか?」

「そうだよ」と頷いた。


ホッとした夕凪だが、目の前の彼を見て疑問が湧く。

「でも、あなたはどうしてここにいるの?帰れないの?」

ふふっと彼は笑った。

「いつから、此処にいるのか、わからない。帰らない、と、決めたんだ。僕、には、誰も、待ってる、人、いないし。」


ドキリと心臓が痛んだ。

私を待ってる人も、いるんだろうか。


「それに、僕が、居る限り、君は、帰れるよ。ここは、どうも、僕しか、定住できない、みたい。だから、安心して」


「来たい時はどうすればいいの?」

勢いよく言った。

「言いたいことは、いっぱいある。でも、黙って家を出てきたから、おばあちゃん家に電話かかって来るかも。いないことわかったらお父さんにまた怒られる、から、帰ってまた来たい!」


「また、来たいって、言う人は、珍しいな。」彼は少々面食らっていた様子だったが、

「君は、大変だね。今の言葉は、さっそく、書いとくよ」と慰めた。


「ここを出たら、元の場所に、戻れる。だから大丈夫。何時間経っても、元の場所では、5分も、経っていないはず。もし、また、来たいなら」

その後しばらく考え込んで、間が空いた。


凛音は自分の胸に右手を当てて、言った。「僕の、名前を呼んで。

『凛音りんね、いる?』って、言うんだ。僕が、『いるよ』って言う。そしたら、来れる」

「それだけ?」

「シンプルだろう」

「りんね。素敵な名前!私は夕凪ゆうな。よろしくお願いします。」


「そんな、かしこまらなくて、いいよ。僕16歳だし」

夕凪は彼が2歳も年下なのに驚いた。身長も180cm位ありそうだし、何より落ち着いて頼り甲斐がありそうに見える。

「私より年下とは、思えない」ぼんやりしてしまった。


「後ろの襖を、開けてごらん、元の場所に着くから。でも、出た先で、車とか、気をつけて」


夕凪は残すのは悪いと思って紅茶を全部飲み干した。

身体が一気に暖まったようだ。

お礼を言って立ち上がる。


「僕の事、誰にも、言わないで。それと、名前を、言う時、他人に、聞かれないように、注意して」


夕凪はわかった、と頷いて立ち上がると襖の前に立ち、手を掛けた。


「紅茶、ありがとう。美味しかったです。また来ます」

襖を開けた。




夕凪がいなくなったのを確認すると、目の前にあるカップとソーサーの乗った盆を少し持ち上げて乱暴に横の壁へそのまま放り投げた。

ガチャンと音を立てて、食器は割れてしまったが、下に落ちる前に全て消えていった。


奥の机に座り直す。前には真新しい紙束が置かれてあった。

「新しいってことは、次の人は夕凪で確定、か」


横に転がっていた万年筆を取り、右端の真ん中に『夕凪』と書く。

「こんな字書くんだ」

まじまじと自分の書いた字を見つめた。

先程彼女が言った事をすらすら書いていく。


「ああ、人と話すの久しぶりすぎて、口がなかなか動かなかった!」


万年筆を置くと、顔に両手を当てて、口を歪ませる。


「長かった!次の人間がやっと来た!しかも、生きてる。現実の世界から!全部聞き出そうとすると、どの位かかるかな?若いから、早いよね。ああ、楽しみ!」


クスクスと笑いながら、先程と打って変わった凛音の仄暗い声は、1人きりになった部屋で響いて消えた。



気付くと、おばあちゃん家の前だった。

辺りを見渡したが、普段見ている普通の景色だった。


口の中にほのかにアップルティーの味が残っていた。

唾と共に飲み込んだ。


「あれ?」

ここへきた時の激情は消え、

心が軽くなったような気がした。

『凛音が言った通りだ』


嬉しくて、心臓の辺りを両手で押さえた。

さっき別れたばかりなのに、凛音に会いたくなった。

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