【中洲編】1.拝啓、前職場より。
今日もオフィスには電話の音が鳴り響く。
あの新卒女子ーー菊井楓が辞めてから、社内の業務がどことなく円滑に進まなくなっている。
「あの資料、どこに置いてた? ……は? 古いやつじゃねえか」
営業の一人が棚を漁ってはボヤく。
仕方なくPCに保存していたPDFから印刷しようとすると、コピー機が嫌な音を立てて動作停止する。
「なんだよ」
立ち上がってつかつかと確認しにいった営業は苛立ちで軽くコピー機を叩く。
「おいおい、コピー機のトナーが全部切れてんぞ」
電話応対をしていた別の営業が、疲れ切った顔で先輩を振り返る。
「すみません、手が足りないので先輩もご自分で替えてください」
「えー」
「派遣の事務員また辞めて一杯一杯なんです」
「ったく、派遣会社に文句言ってやる」
「今までは菊井さんがしてた時、楽でしたよね」
「また菊井の話か? 部長が怒るぞ」
その時、オフィスに帰ってきたばかりの部長が苛立ちを隠さずに怒鳴る。
「もうあいつの話はやめろ! たかが二年目の社員が辞めたところで困ることはないだろ!」
一度説教スイッチが入った部長はしばらく止まらない。
どんなに忙しくても業務の手を止めて社員一同反省の顔を見せて嵐が通りすぎるのを待つしかない。
しかし部長がどんなに怒鳴っても電話は鳴り止まず、社員の抱えた業務が進行するわけでもない。
部長が部屋から去っていく。きっと彼も、これから社長と嫌な時間を過ごすのだろう。
深いため息が、あちこちから漏れた。
ーー菊井楓が行っていた業務など、新卒ができる範囲のことだと、社員一同は思い込んでいた。
確かに業務自体は単純そのものの雑務ばかりだった。
しかし今まで自分たちが享受していた「普通」は割と「普通」ではなかったのだと、彼女が退職して二週間後ほどからじわじわと理解することになった。
彼女は細かいところに
事務用品や資料やなんとなく必要なものが必要な時に整えられており、営業報告の誤字やミスに気づけばそっと修正し、顧客の癖や機嫌をなぜかぴったり当ててくる。
来客対応でもいつも妙に顧客のツボを突くものだから、それが面白くない主任の圧力で、逆に事務所に閉じこもった業務だけを行うようになっていたくらいだ。
要領がいいから、ついでにあれも、これも。
気がつけば彼女が任されていた業務が膨大になっていたことに、誰も気づいていなかった。
—-
昼休憩となり、逃げるようにオフィスを出た営業が二人並んで疲れた顔を見合わせる。
「菊井、便利だったよなぁ……」
「便利でしたよねえ……」
男性社員二人は、あの平々凡々な容姿をした新人を思い出す。
「どうしてあんな人材雇えてたんですか、うちの会社は」
「筆記試験や面接はヘボかったんだよ。でも」
「でも?」
いつもの定食屋の暖簾をくぐりながら、先輩は後輩の顔を見る。
「最終面接で一発で、隠し社訓を当てちまったんだよ」
「えっ……あの、社長が無茶振りしてくるあれをですか?」
「ああ。ノーヒントで一発で」
「うわ……何それ。そこまで勘がいいと逆に怖いっすね」
「だろ? やっぱ『霊感女』は違うわ」
ーー二人は気づいていないが、菊井が社長の隠し社訓を当てたのは勘ではなかった。
最終面接が行われた社長室の棚、古今東西のビジネス書が並んでいる中で一際目立つ場所に論語が置かれていたこと。
そして表向きの社訓が「努力は裏切らない」だったこと。
そしてトイレに掛けてあった掛け軸の内容を思い出し、彼女は見事、
「もしかして論語の……『
隠し社訓を言い当てたのだ。
経験を重ねた経営者というものは往々にして自分の考えをアピールしたいもの。彼女は社内に散りばめられていた社長の自己主張を、『なんとなく』で無自覚に情報収集し、そこから答えを導き出していたのだ。
ーー論語の内容まで思い出せたのは、『霊感女』所以かもしれないが。
「でも変な新人だったとしても、ちゃんと仕事ができる新人だったんだな、今思うと」
「菊井さんが言ってた通り社用車、ブレーキおかしくなってましたしね」
「もっと優しくしとけばよかったなー」
「ですね〜。あーあ、早く次の事務員入ってこないかなー」
二人はいつものように日替わり定食を無言でがっつき、そして会社に戻りたくねえなー、と言葉に出さずに考えていた。
菊井は業務の中で分厚い引き継ぎ資料を作りながら、退職したいとずっと願い続けてきていた。
そしてある日を境にとんとん拍子に退職手続きが進み、有給を全て消化した上でスッキリと退職してしまった。
噂では彼女を気に入っていた太口の顧客が、円満に辞めさせるよう労基を匂わせながら電話してきたらしい。
その後。
彼女は新しく雇った事務に引き継ぎをしていたが、なんと彼女が辞めた数日後にその新人も辞めてしまった。実に賢明な判断だ。
普通、あれだけ任されたらヤバいと思って逃げるに決まってる。
「まあ、菊井さんが辞めて良かったこともありますよね」
「ああ、主任な」
「ええ」
二人は食後の茶を飲みながら苦笑いする。
「主任、いきなり逃亡するとは思いませんでしたよ。普通バイトでもあの辞め方しなくないですか?」
「俺たちにとってはまあ、良かったことじゃねえか。いっつもマウント取ってきて面倒だったし」
「毎年新卒の女の子いびってましたしね。菊井さん辞めた後も事務職いじめて、流石にその時は社長に注意されてましたね」
「注意が遅いっつーの」
「もういなくなっちゃいましたしね」
「あの人、今頃どこで何してんだろうな……」
「実家が社長の親戚で、どっかの旧家なんでしょ? なら生きてんじゃないですか?」
「憎まれっ子世に憚るってなー」
「俺も太い実家か才能が欲しいなー」
だべりながら二人は、こっそりとスマホに登録した求人情報サイトを眺めているのだった。
ーーー
ーー夜。
空が暗くなり始めた、中洲近辺のオフィス街にて。
一人の女がハイヒールを高らかに鳴らしながら、耳にスマートフォンをあて、顔を真っ赤にして押し黙っていた。
彼女の耳に響く怒声は父親の声。
親戚の会社を辞めたのがすぐに実家にばれ、父の電話で罵倒される羽目になったのだ。
「お前のような出来損ないが働けるところを見繕ってやったのに、恩を仇で返すつもりか!」
「しょうがないじゃない! お父さんだってあの会社を見たらふざけんなって思うはずよ!」
「外で働けないのならこっちに戻ってこい。お前の見合い相手も」
「嫌! 私は福岡にいるわよ。絶対帰らない。そっちで妹と一緒に惨めに暮らすなんてまっぴらよ!」
「お前、」
ぷつ。
女は電話を切るとスマホを鞄の底に叩きつけるように押し込んだ。
「ふざけないで。……私は、こんな所で燻るような女じゃないのに。こんな……」
遠く離れた故郷を思い出すと、叫び出しそうになる。
故郷で才能を認められなかった悔しさ。
人とは違う「特別」でありながら、上手くいかない悔しさ。
苛立った彼女の視線の向こうに、猫の尻尾が飛び出した、派手な女が目に留まる。
派手な女は未就学児ほどの子供と手を繋ぎ、中洲の方向へと向かっている。
「あやかしの癖に、この街に馴染んじゃって……」
苛立つ女の手のひらの中でーーしゅる、と水が飛び出した。
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