【糸島編】6.私たちの、そういう『契約』。
その後、糸島から会社に戻った私は見学の準備を進めていた。
私が会社に戻った時には羽犬塚さんはすでに帰宅していて、夜さんは猫の集会に行って直帰らしい。帰るってどこ。私の部屋!?
「楓は元々営業やってたわけじゃないんだよな?」
「なっ、わっ、私、何か変なことやってます?」
「いちいちビクつくなよ」
篠崎さんは尖った犬歯を見せて笑う。彼は報告書を書く私の隣の空いたデスクに座り、自分の連絡や仕事をしながら私のチェックをしてくれていた。
こうして上司がついて仕事をチェックされるのが人生で初めてで、あと篠崎さんの匂いがいい匂いで、色々と落ち着かない。
「営業職じゃなかった割には、物怖じせずにサクッと話をまとめてきたから驚いたんだ。今回の件を楓に任せたのは、清音さんの御用聞きで終わるかと思っていたからな」
「そうだったのですね……」
確かに入社してすぐの営業未経験の私がいきなり、紹介案件を持ってくると期待されるのは重い。
「余計なことしちゃいましたか?」
「そんなことはねえよ。何かありゃあ俺が世話してやっから、安心しな」
「……はい。篠崎さんのマニュアルがお上手だから、少しでも早く覚えられるように頑張ります」
こういう時、この人が本当にただの「普通の」上司だったらどんなによかっただろう、と思ってしまう。
ここで言う「普通」は、別に人間の男性だったらよかったのに、と言う意味ではない。
もっと別の意味だ。
私が保存をクリックしたところで、篠崎さんが薄く唇を笑ませる気配がする。ああ、唇。
「明日は俺も同行する。口出しはしないから、まあ好きにやってみな」
「……ありがとうございます」
私のディスプレイを見ている篠崎さんの、整った横顔をちらりと見やる。
肩を滑る長めの髪といい匂い、ふわっとした狐耳。綺麗で、可愛い。唇は見れない。
私、この人にキスされちゃったんだよな……。ここで……。
「どうした?」
「ヒッ!!!!!!!!!!」
「ヒッじゃねえよ。終わった途端にぼーっとしやがって」
「あ、ああ、あの……いやなんでもないです」
「……」
私の表情に何か察したのか、彼は急に会得したような顔をする。
目を眇め、私を探るような悪戯な目線を向けてくる。
「楓」
「は、はい」
「欲しいのか?」
「え」
「しょうがねえな」
篠崎さんはふわ、と尻尾を私へと向けてくる。
「撫でたいんだろ? 撫でろ」
「……………撫でたそうな顔に見えました?」
「違うのか?」
「いえ、違いません、違いません。失礼します」
もふもふとした毛並みに、私は両手10本の指を開いて、わさぁ……と指の根本まで埋める。
「っ……」
篠崎さんが息を詰める。私はその手触りに目を見開いて感嘆した。
「う、うわあ……柴犬の尻尾に似てるけど、大きさが数倍以上だから触り心地が段違い……うわあ………これは……」
「……」
毛並みに逆らうように撫であげたり、乱れた毛並みを整えるように上から下に撫でたり、あまりの手触りに思わず私は時を忘れて夢中になっていた。時折ひく、と痙攣するように甘く反応するのがいじらしい。
「……う……」
ガタ、と音がする。気づけば篠崎さんが机にしがみつくようにもたれていた。
ふうふうと肩で息をしながら、私を振り返って睨み下ろした。
「……そろそろ気が済んだか……」
「あ、ありがとうございました! 最高でした!!」
「そりゃあ……よかったな……」
篠崎さんは尻尾をしゅるりと私の手から引き戻すと、慰めるように自分で撫で撫でと毛並みを整える。私はスッキリした気持ちになった。最高の手触りだ。
「あれ、篠崎さん顔赤いですか?」
「露出狂女に……辱められた………」
何かぶつぶつと言っている言葉はよく聞こえない。
篠崎さんが耳をへにゃっと伏せてよろよろと離れ、サッシを下ろし始めたので、私も片付けに取り掛かった。
ーーー
翌日。私と篠崎さんは赤坂駅近くに停車して
私が糸島に向かった時も地下鉄を使ったように、雫紅さんの住まう場所からは筑肥線と地下鉄を乗り継いて天神地区に出てくることになる。
「今日はよろしくお願いします」
ペコリ。頭を下げる彼女は今日は、メガネにマスクに、髪をすっぽりと覆うような帽子までかぶっている。
「すごい重装備ですね……」
雫紅さんと二人で後部座席に座っていると、ハンドルを握った篠崎さんが答える。
「磯女は強く意識して霊力を抑えておかないと、人間の男を無意識に惑わせるからな」
篠崎さんの言葉に雫紅さんはうなずく。
「他の磯女は人に慣れているので、調節が上手なんですが……私は…あまり、海から出たことがないので……でも、そんな私でも大丈夫ですか?」
「大丈夫です。昨日お仕事を探しておきました。女性が多い職場、社外に出なくてもいいお仕事、シフトの時間帯によって人混みから逃れられるお仕事など、いくつかあります」
見繕っておいたものを印刷しておいたものを彼女に、私もタブレットを出す。そこには求人内容と、その職場の雰囲気がわかる写真などがある。
じっくりとその情報を読みとろうとする彼女の視線は真剣だった。
私は彼女の横顔を見つめながら思う。
雫紅さんは静かで内向的な感じの方だけれど、仕事をしたいという気持ちはとても強い。
彼女の意見が曖昧なのは、単純に情報が少ないから。
そして、まだ外で働いた成功体験がないから、不安なだけなのと思う。
「雫紅さんが気になったところ、ありますか?」
「そうですね……男の人があまりいないところが……安心です」
彼女が示したのはコールセンターだった。
服装も自由なので、雫紅さんが安心できる装いで始められるからハードルが低いだろう。最初の三ヶ月は試用期間だけど、その間も借上社宅に住むことができるらしい。一人暮らしをしたい彼女にとってはぴったりだと思った。
「それでは、そこからまず回ってみましょう! 他にも似た条件のところピックアップしますね」
他にいくつか彼女が興味を示したところを優先的に、私はタブレットでルートを作って篠崎さんに渡す。車が、ゆっくりと流れるように国体道路へと進んでいった。
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