【糸島編】4.人魚の海を見に行こう

 私は今泉のオフィスから徒歩で市営地下鉄赤坂駅まで向かった。

 徒歩には理由がある。今泉から赤坂駅までは車も人も交通量が多い、福岡天神地区一番の繁華街だ。自転車で行くよりも歩きの方が何かと安全で、なんだかんだ早い。駐輪場も空いているかどうか、わかんないし。


「あ、時刻表みないと」


 私はハッと思い出し、スマホで時刻表をチェックする。目的地に向かう降り電車はもうすぐだ。

 これまで時刻表を見るという習慣がなかったので新鮮な感じがする。これまで、時刻表を見る習慣も地図を見ながら歩く習慣も全くなかった。


「霊力を、吸われて気づく、だだ漏れの力……ってやつね」


 私は一句読みながら、ちょうど到着した唐津行きにスムーズに乗る。


 地下鉄に揺られて15分ほどで、にわかに先頭車両側が明るくなってきて、地下鉄は坂を登って地上に出た。パッと青空が開ける。地下鉄終点、姪浜駅だ。


 天神や博多に向かう逆の流れなので電車は空いていて、お年寄りや親子連れが乗っている程度。そんな乗客も姪浜駅でがらりと入れ替わり、そのまま電車は筑肥線と接続して唐津に向かい発車する。


 下山門で生の松原の新緑を抜け、右手に微かに青い海岸が見えたところで、福岡市と糸島市を分断する長垂トンネルに入る。


 トンネルを抜けた先に広がるのは砂浜と海岸線。

 能古島を遠景に望む青い海には白いヨットの帆がモンシロチョウの群れのようにたくさん並んでいる。


「綺麗……」


 実家がある西区貝塚線近くの風景とは違う光景に、私は仕事を忘れて目を奪われていた。

 空いた車両に普段乗らない路線。

 なんだか少し、特別感があってわくわくする。


 海が遠くなり、田園風景の中で電車が止まる。周船寺(すせんじ)駅で降りれば、鮮烈な真っ赤な車が私を出迎えてくれた。


「こんにちは。あなたが相談に乗ってくれる新人さん?」


 真っ黒な黒髪と真っ白な手足が綺麗な、絶世の美女がフロントドアガラスから顔を覗かせる。私はどきりとしながら頭を下げる。                          

「初めまして。菊井楓と申します」

「菊井さんね。私は清音(きよね)よ、よろしくね」

「あの、もしかして今朝、テレビに出ていらっしゃいませんでしたか?」


 私の言葉に、美女ーー清音さんの目が嬉しそうに大きく開く。


「インタビューを見てくれたのね。ありがとう、菊井さん」


 名刺を受け取って赤い唇を笑ませると、彼女は車の助手席を示す。


「乗ってちょうだい」

「は、はい」


 私が車の助手席に乗ると、車はロータリーから抜けてスムーズに市街地を抜けて海側ーー糸島半島へと進んでいく。開けたままのフロントドアガラスから心地よい風が吹き抜けた。


芥屋けやの海に行くんだけど、筑前前原駅側からだと道が混むのよね。九大のところを抜けていくから」


 海に向かっているとは思えない、田園風景と山間を抜けていく国道。私はすっかり土地に馴染んだ運転手の美女を見た。


 浜姫。

 北陸の海に棲まう、絶世の美女の妖。

 私は彼女ーー清音さんの横顔をちらりと見やる。まるで芸能人が真横に座っているような気持ちになる美しい人だけれど、人間との違いがわからない。


 私は夜さんや社長の尻尾や耳が見える。これは通常一般人には見えないもので、私が見えているのは霊力のおかげだと、社長に教えられている。

 その霊力をもってしても彼女は普通の人にしか見えないので、浜姫というあやかしは人の世間に馴染みやすい特性をしているのだろう。


「あ、少し食べ物の匂いがするでしょ? ごめんね。さっきパスタをテイクアウトしてきたから」

「言われてみれば、確かに美味しそうな匂いが……」

「手打ちパスタで有名なお店でね。みんなのお気に入りだから差し入れに買ったの」


 後部座席を振り返ると、テイクアウトのパッケージに丁寧に包まれた何かがいくつも重ねて置いてある。


「そんなお店があるんですね……」

「筑前前原駅の近くで、結構有名なところよ。地元のシェフが地産地消でやってる……もしかしてあなた、県外ご出身?」

「いえ。ただ、あまり地元から出なかったので……勉強になります」



 あやかしの移住をサポートする仕事をしているのに、それだけの有名店のものを知らずにいる自分が恥ずかしくて申し訳なくなる。恐縮する私に彼女は笑いかけた。


「良かったわね。これからお仕事を通して、色んな素敵なものを知る機会があるなんて」

「えっ」


 学園都市を抜け、山を縫うように進み、遂に海岸沿いの道にたどり着く。私は海風に吹かれながら、ただただ、清音さんの新鮮な言葉に痺れていた。ハンドルをきりながら彼女が問いかけてくる。


「どうしたの、びっくりした顔しちゃって」

「いえ……前向きな言葉をいただけて、嬉しくて」


 清音さんは目を細める。


「だって日帰りで行ける範囲に、未知の出会いにワクワクできるって、とても素敵なことじゃない? 私もそんな気持ちを思い出したくて糸島ここ移住たの。パスタ、あなたの分も買ってるから」

「えっでも、私がいただくわけには……」


 私は慌てる。お客様にご馳走になるなんていいのだろうか。公園の駐車場に車を止めて、彼女は私の唇に指を触れる。


「私が個人的にご馳走したいの。このイタリアン、美味しいから」

「は、はい」

「篠崎さんには内緒ね?」


 すごい美女ににっこりと微笑まれてしまっては、何も抵抗できない。


「……は、はい。ありがとうございます」


 私が素直に頷くと、彼女は「よし」と歯を見せた。


ーーー


 私は清音さんに案内され、浜辺に設営されたイベント会場に向かった。


「ちょうど今朝テレビで見た光景と全く同じですね」

「明日からイベントだからね。大忙しよ」


 たくさんの出店の準備をしているスタッフさんは、みんな清音さんのような黒髪ロングヘアの美女だ。お揃いの真っ赤なスタッフTシャツを着ていて、健康的で目に眩しい。


「あ、清音ちゃんお疲れー!」


 美女軍団が、清音さんを見てにこやかに手を振る。

 私と清音さんはパスタを持って彼女たちの休憩所まで運んだ。


「清音、その子誰? 霊力あるけど人間よね」

「篠崎さんのところの新人さんよ!」


 私は荷物を置いて、名刺を準備してペコリと頭を下げた。


「初めまして、あやかし転職サービスの菊井と申します。いつも弊社がお世話になっております」

「ああ、あの若い狐ちゃんのところの子ね」


 篠崎さんでも若い狐扱いされるのかと、ちょっと驚く。

 そういえば篠崎さんはいくつくらいなのだろう。見た目は20代に見えるけれど。


「みなさん浜姫の方なんですか?」

「ううん。浜姫は清音ちゃんだけ。私たちは磯女よ。知ってる?」

「付け焼き刃で勉強した程度ですが……」


 磯女とは九州の海辺に住まうあやかしのことだ。浜姫の清音さんと同じように、みんな女優さんみたいに美しい。海でこんな美女に出会ったら、そりゃあ色々命が危ない。


「まあ、みんな海の女ってことで。よろしくね」


 とてもフレンドリーな磯女の皆様は、わいわいと早速長テーブルにパスタを広げ、ランチタイムを開催する。私も一緒に食べさせてもらえることになった。

 もっちもちの太麺に真っ赤なトマトソースが絡んだパスタと、とろとろチーズの香りが芳醇なパスタ。二種類をみんなで取り分けていただく。


「わ、美味しい……」


 思わず口元を押さえてもぐもぐと味わう私をみて彼女たちは嬉しそうに顔を綻ばせる。


「でしょ?」

「糸島の野菜やチーズを使っているのよ。土地の食材だから美味しいし霊力も満ちるから、いつも助かってるのよね」


 糸島は特に「食」にまつわるブランド戦略が発達した土地だ。あまり物事に詳しくない私でも、糸島産の乳製品や卵や食材といった様々な美味しいものが、「糸島産」として取り上げられているのをレストランやスーパーで見たことがある。両親も時々食材を買いに車を走らせている。


「テイクアウトじゃなかったら、カトラリーも選んで食べられるお店なのよ。地元で作られた器でね」

「すごいですね……」

「拘りが強いマスターなのよ。手打ち麺の実演も、最近やり始めたし」

「パスタの手打ち実演なんて初めて聞きますよ」

「でしょ?」


 磯女さんは自慢げに笑う。

 そんな土地の食材はやはり、あやかしにとっても美味しくて元気が出るものなのだろう。わかる気がする。だって美味しいもん……。


「ほら菊井ちゃん、パンもあるから食べて」

「あ、ありがとうございます」

「菊井ちゃんそこの布巾とって」

「はい」


 美女集団のみなさんは当然のように私を輪に入れてくれる。

 こんな楽しいランチは久しぶりで、私は自分でも驚くほど感激していた。


 前の会社の時、昼食は一人もしくは社長や主任の毒舌を浴びながらの食事だった。

 学生時代も中高はぼっち。大学ではぼっちにならないように、一生懸命「普通の女子大生」をやろうとして気疲れして、こんな楽しいランチにはならなかった。


 うう。ちょっと泣きそう。


「ところで菊井さん、どうして篠崎さんの会社に入社したの?」

「ええと、色々ありまして……」


 ごく普通の昼食会は和やかに進行していく。

 彼女たちから私はあれこれと質問責めに遭いつつも、楽しくパスタランチを楽しんだ。海風が心地よい。

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